Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

オペラ「紫苑物語」~見果てぬ夢

2019年02月28日 | 音楽
 オペラ「紫苑物語」の公演が終わり、喧々諤々の議論も収まってきたようだ。わたしは初日と二日目を観て、その都度感想を書いたので、これ以上は蛇足になるのだが、その割に自分の中には何かわだかまりが残っている。それを決着させるために、あえて一言だけ書いておきたい。

 今回の新作オペラについて、もっとも非難が集中している点は、台本のように見える。いわく、「平太」が2度登場せず、最後に登場するだけ、またいわく、石川淳の美しい文体を損なう語句を他から持ってきている等々と。どの意見にも一理あるかもしれないが、あまり決定的なものとも思えない。

 わたしはそれらの議論に加わる気はないが、少し違う観点から、次のことはいっておきたい。今回の制作チーム(長木誠司、西村朗、佐々木幹郎、大野和士という現代日本のもっともクリエイティヴな人たちが集まったチームだと思う)が石川淳の原作に読み取った「芸術家の一生」というテーマは、わたしにはやはり違和感があったと。

 わたしは、昨年の今頃、新国立劇場の年間プログラムが発表されて、新作オペラ「紫苑物語」の初演を知ったときから、石川淳の作品を読み始めた。それも初期作品の「佳人」、「普賢」から始まって「紫苑物語」に至るまでの作品を読んだ。また石川淳の周辺にいた坂口安吾の作品もまとめて読んだ。

 とりわけ「紫苑物語」は3度読んだ。その中でわたしがつかんだテーマは、ある不条理な衝動に突き動かされて悪(=破滅)に向かって進む魂のあり方だ。そんな「宗頼」の行動を説明することなどできない。それを解釈しようなんて無理だ。一の矢、二の矢、三の矢などは、石川淳が仕掛けた謎かけみたいなもので、それに足をすくわれる必要はないと思った。

 わたしは新作オペラが「悪」をテーマとするオペラになるだろうと思った。既存のオペラの中で悪がテーマのオペラとなると、まず思い浮かぶのはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」だ。もう一つ、モンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」も思い浮かぶが、あれは悪が成就するので、「紫苑物語」の先行例としては具合が悪い、などと考えて楽しんだ。

 むしろわたしがもっとも期待したのは、歌舞伎の「悪の美学」の系譜に連なる作品だった。たとえば東海道四谷怪談の民谷伊右衛門がその典型だが、それにかぎらず、歌舞伎の世界には「悪の美学」を体現する登場人物が散見される。それに連なるヒーローの創造を期待したが、それは「芸術家の一生」というテーマに回収されてしまった。

 結局、「悪の美学」に連なるオペラは、見果てぬ夢に終わった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オペラ「金閣寺」

2019年02月25日 | 音楽
 東京二期会のオペラ公演「金閣寺」を観た。観る前は、新国立劇場のオペラ「紫苑物語」と比較したくなるだろうと思っていたが、実際に観たら、両者は別物だと思った。

 「金閣寺」は1976年の初演なので、出来立てほやほやの「紫苑物語」とは43年もの隔たりがある。「紫苑物語」には関係者の熱気がまだ湯気のように立っているが、「金閣寺」にはすでに20世紀オペラの古典のような風格が漂っている。

 今回の「金閣寺」公演では大幅なカットが施されていた。上演時間は第1幕~第2幕が約60分、第3幕が約35分、合計で約95分だったが、わたしが2015年に神奈川県民ホールで観た公演は、正味2時間あまりの上演時間だったと思うので、約4分の1がカットされたことになる。そのためか、全体の進行がスピーディで、スタイリッシュな感覚があった。

 上演時間約95分といえば、ベルクのオペラ「ヴォツェック」と同じ程度だ。しかも黛敏郎がこのオペラにつけた音楽は、ベルクの音楽に比べて、平易で聴きやすい。加えて、1985年生まれの指揮者マキシム・パスカルにとっては、このオペラは生まれる前の作品。だからだろうか、オペラの通常レパートリーのような感覚の指揮だった。神奈川県民ホールでの下野竜也の熱い指揮とは一味違っていた。

 マキシム・パスカルは、わたしには想い出がある。2017年のザルツブルク音楽祭でジェラール・グリゼーの「音響空間」を聴いて、感銘を受けたのだ(オーケストラはオーストリア放送交響楽団だった)。そのときはテオドール・クルレンツィス指揮でモーツァルトの「皇帝ティトの慈悲」を観て(オーケストラはムジカエテルナ)、それにも驚いたが、衝撃の度合いは同じくらいだった。

 今回のパスカルの指揮は、「音響空間」での渾身の力を込めた指揮とは異なり、もっとクールな、手慣れた感じがした。たとえばフィナーレの読経の音楽は、前記の下野竜也の場合は熱く盛り上げたが、パスカルはむしろ控えめで、全体の流れの中に収めた。

 宮本亜門の演出はわかりやすかった。主人公「溝口」の少年時代を表す「ヤング溝口」の設定とその役への少年ダンサーの起用も成功していた。神奈川県民ホールの公演では全面カットされていた尺八の場面は、フルート代用で(たぶん短縮して)復活された。

 「溝口」の宮本益光以下どの歌手も、歌唱面はもとより、演技でも文句のつけようのないアクターとアクトレスになっていた。その結果、演劇的な面でも見事な上演だった。
(2019.2.24.東京文化会館)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オペラ「紫苑物語」と石川直樹の写真展

2019年02月23日 | 音楽
 わたしは2月20日に新国立劇場でオペラ「紫苑物語」を観たが、その前に同劇場に隣接する東京オペラシティのアートギャラリーに立ち寄り、かねてから見たかった石川直樹の写真展「この星の光の地図を写す」を見た。

 同展は、北極圏やヒマラヤの高峰K2、さらにはポリネシア・トライアングル(ハワイ諸島、ニュージーランドとイースター島を結ぶ三角形の海域。そこには無数の島々があり、古来、人々の行き来があった)、あるいは日本の東北地方や沖縄などを写した写真展だ。それを見ていると、「地球には中心も辺境もない。どんなところにも人々の生活があるだけ」という思いがした。

 その後、オペラ「紫苑物語」を観て、その日はそれで終わったのだが、後日ある人から、「石川直樹は石川淳の孫なんだってね」と聞いた。それには驚いた。祖父の小説を原作とするオペラが上演されている劇場の隣で、孫の写真展が開かれているとは――。

 主催者側(アートギャラリー)は、石川直樹と石川淳の関係を知らなかったらしい。まったくの偶然だったそうだ。2月22日のNHKラジオ番組「すっぴん!」に石川直樹がゲスト出演して、パーソナリティの高橋源一郎との会話の中でその話題が出たらしい。高橋源一郎はオペラ「紫苑物語」のプログラムにエッセイを寄稿しているので、その点で高橋源一郎もこの不思議な縁につながる。

 石川直樹は、写真家であると同時に、K2に登るほどの登山家でもあるので、わたしの中では石川淳とまったく結びついていなかった。でも、そういわれてみると、(強引な推論かもしれないが)その写真の、世界を中心~辺境のヒエラルキーをつけずにフラットに見る、あるいは世界の隅々の人々の生活を等価値に見る、そんな視点が、祖父の石川淳の文学を思わせないでもない、という気がしてきた。

 石川淳の小説の中では、「紫苑物語」はむしろ例外的な作品で、たとえば応仁の乱を背景にした「修羅」などに石川淳の思想が窺われるが、その思想はかなりアナーキーだ。石川淳の場合は政治に関心が向くが、それを政治から離して、惑星としての地球を眺める視点に移すと、そこに石川直樹の写真世界が現れる気がする。

 とはいっても、石川直樹は石川淳の孫であることを標榜していないので、わたしたちからそれを意識されることは、むしろ迷惑かもしれない。それもまた石川淳の孫らしい。
(2019.2.20.東京オペラシティ・アートギャラリー)

(※)写真展「この星の光の地図を写す」のHP
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オペラ「紫苑物語」二日目

2019年02月21日 | 音楽
 オペラ「紫苑物語」は2回観ようと思って、初日と二日目のチケットを買っておいた。昨日はその2日目。観る前に考えていたポイントは3点あった。(1)“重唱オペラ”としての真価はどうか。(2)直前になってダブルキャストになった平太役のもう一人、松平敬はどうか。(3)初日で引っ掛かった幕切れの音楽が、2回目だとどう聴こえるか。

 まず、重唱オペラという点だが、二重唱は当たり前、三重唱も頻出し、四重唱さえ出てくる(それが本作の目玉になっている)ことが、本作の異様なまでに高いテンションを生んでいることを確信した。その四重唱は、泡立つようなオーケストラの音型の上に、4人の歌手が自由奔放な旋律線を描く。そこに低弦がくさびを打ち込む。目を見張るように強いインパクトのある音楽だ。

 次に松平敬だが、ファンなら容易に想像できるように、ホーミー唱法が見事だ。超常現象のようなその唱法が、岩山の頂で仏頭を彫りつづける平太という人物の特異性とその力を、説得力を持って表現した。

 そして幕切れの音楽だが、平太と主人公・宗頼との対話の場面が終わり、一気に幕切れまで進むその音楽が、(舞台上の動きに比べて)動きに乏しいという印象は、初日と変わらなかった。結末の部分が、白黒つけずに、韜晦するように終わることはよいのだが(他のオペラにも類例がある)、本作の場合は、そこに至るまでの音楽にダイナミズムが欠ける。

 もう一ついえば、結末の演出に(それはスコアに基づくものかもしれないが)、わたしは今回も戸惑った。他の方々がどう解釈されたのか、伺ってみたい気がする。

 以上、あれこれいったが、ともかく、今回は2度目なので、音楽を楽しむことができた。とくに息をのんだのは、第1幕の狩りの場だ。宗頼(バリトン)と家来たち(男声合唱)のアレグロまたはプレストの音楽は、日本のオペラ史上類例のない躍動感があった。その場を締めくくる紫苑の化身たち(女声合唱)の沈潜した音楽は胸にしみた。

 第2幕の冒頭の宗頼と千草(ソプラノ)の愛の音楽は、日本のオペラ史上初の性愛の音楽化だ。その直後の千草の「きつねのカデンツァ」も楽しめる。さらにいえば、うつろ姫(メゾソプラノ)は、幕開きから幕切れまで、その怪奇なキャラクターと音楽でオペラを牽引する。また悪役で、かつコミカルな藤内(テノール)も存在感十分だ。

 結論的にいうと、本作は今後繰り返し上演される日本のオペラの重要な財産になると思う。
(2019.2.20.新国立劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オペラ「紫苑物語」

2019年02月18日 | 音楽
 オペラ「紫苑物語」の初日。劇場に着いて開演を待つ間、(変な言い方だが)わたしにとってオペラ「紫苑物語」の収穫は、すでに半分は終わったと思った。作曲者の西村朗、オペラ化の仕掛け人・長木誠司、台本作成の佐々木幹郎、芸術監督としてオペラ化に深く関わった大野和士そして演出の笈田ヨシ、これらの人々が夢中になってオペラを作る様子に、わたしは目を見張った。

 オペラとはこうして作るものか、こうやって夢中にならなければ、オペラは作れるものではないのだ、ということがよくわかった。その結果はまた別の話だ。

 で、その結果だが、第一にあげたい点は、台本の見事さだ。石川淳の、短編ながら、直線的には進まず、複雑な経路をたどる原作を、大胆に凝縮して、オペラにふさわしい台本を作り上げた。日本のオペラ史上画期的な台本だと思う。

 次に音楽だが、それはオペラの大衆性を踏まえた音楽で、オペラをよく知った人の手になるものと実感された。全2幕からなるが、とくに第1幕はじっくり進み(それとは対照的に第2幕は話の進行が速くなる。オペラの常套手段だろう)、各場面の音楽が十分な長さを持っている。いずれ管弦楽用の抜粋版も可能かもしれない。

 だが、幕切れの音楽には戸惑った。そこでは「鬼の歌」が聴こえるのだが、その「鬼の歌」が、たとえていえば微かに吹く風のように、不分明な幽けき(かそけき)音として作曲された。それはそれでわかるが、一方では、世界の崩壊とか、苦悩の末の浄化とか、そんなカタストロフィが訪れないのだ。

 わたしは帰宅後、石川淳の原作に当たってみた。そこにはこう書かれていた、「なにをいうとも知れず、はじめはかすかな声であったが、木魂がそれに応え、あちこちに呼びかわすにつれて、声は大きく、はてしなくひろがって行き、谷に鳴り、いただきにひびき、ごうごうと宙にとどろき、岩山を越えてかなたの里にまでとどろきわたった。」と。

 このくだりは読経と合唱に代えられたが、それは十分な展開を見せずに、結末の「紫苑の一むらのほとり」の鬼の歌に移った。わたしは気持ちの持っていき場を失った。そんな観客の気持を一点に落とし込むように、(詳述は避けるが)演出上の工夫があった。それは前記の人々の“読解”のヴィジュアル化だったかもしれない。

 最後になったが、公演は、歌手たち、指揮者とオーケストラ、合唱、演出と舞台美術チーム、それらすべての人々の熱気が伝わる感動的なものだった。
(2019.2.17.新国立劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下野竜也/東京シティ・フィル

2019年02月17日 | 音楽
 下野竜也指揮東京シティ・フィルの注目すべきプログラム。オッフェンバックとスッペの生誕200年を記念した序曲集をシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲と組み合わせたもの。ワーグナーとブルックナーとリヒャルト・シュトラウスの自称“オタク”の友人も姿を見せた。

 会場に着くと、ホワイエでプレ・コンサートをやっていた。クライスラーの弦楽四重奏曲から第4楽章とのこと。数あるヴァイオリンの小品からは想像もできない、本格的な、彫りの深い曲だ。珍しい曲を経験できた。

 演奏会が始まって、1曲目はオッフェンバックの「天国と地獄」序曲。その音のゴージャスなこと。オペレッタ劇場ならもっと貧相だ。弦は14型だが、オペレッタ劇場はその半分くらいだろう。立派な音から、オッフェンバックのシニカルな微笑みが伝わる。というよりも、シニカルで馬鹿々々しいその音楽を聴いていると、極端な話、ワーグナーなんてどうでもよくなる。

 2曲目はシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は南紫音。1月にコパチンスカヤの独奏で聴いたばかりなので(大野和士指揮都響の定期)、どうしてもそれと比べてしまうが、比べるのが野暮というほど、コパチンスカヤは独特だった。わたしはそのおもしろさに舌を巻いたが、一方、南紫音の演奏は、骨格がしっかりした演奏だが、終始真面目だった。

 プログラム後半はスッペの序曲集。先に曲名をあげると、「ウィーンの朝、昼、晩」、「怪盗団」、「美しいガラティア」、「軽騎兵」の4曲。冒頭の「天国と地獄」と同様、立派な音が鳴っていた。演奏は「軽騎兵」がもっともしっかり作り込まれていた。

 スッペを何曲も聴くと、オッフェンバックとの個性の違いが明らかになる。オッフェンバックのシニカルさ、あるいは馬鹿ふざけは、スッペにはない。スッペはもっとウエットで、常識的だ。だが、誤解のないようにいうと、「軽騎兵」序曲などは、ほんとうに洗練された名曲だと思った。

 このプログラムならアンコールがあるかな、と思った。アンコールは「詩人と農夫」か、と踏んでいたら、「天国と地獄」の最後の部分が始まった。快調だ、と見るや、下野竜也が舞台の袖に引っ込んだ。オーケストラだけで快調に飛ばす。なるほど、そういう趣向か、と思ったら、下野竜也が金色のポンポンを持って現れ、コンサートマスターとセカンド・ヴァイオリンの首席奏者を巻き込んで、カンカン踊りを始めた。場内大爆笑。
(2019.2.16.東京オペラシティ)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホセ・マセダの音楽

2019年02月13日 | 音楽
 フィリピンのホセ・マセダ(1917‐2004)の「5台のピアノのための音楽」(1992)と「2台のピアノと4本の管楽器」(1996)を聴きにいった。TPAM 国際舞台芸術ミーティングin横浜2019の演奏会。

 両曲ともCDが出ているし、そのCDはナクソス・ミュージックライブラリーで聴けるのだが、実演だとどう聴こえるか、ぜひ経験してみたかった。

 実際に聴くと、イメージが少し違った。「5台のピアノ……」の場合は、もっと揺らぎのある、音の帯のようなテクスチュアを想像していたが、実際には薄い、痩せたテクスチュアしか感じなかった。あるいは、非西欧的な要素よりも、ミニマル・ミュージックからの影響を感じたことが不満だったといったほうがよいか。

 一方、「2台のピアノと4本の管楽器」の場合は、それがどういう音楽か、CDを聴くよりもよくわかった。4本の管楽器は、クラリネット、バスーン、ホルン、トロンボーンで、木管ではフルートとオーボエ、金管ではトランペットとチューバが使われていない。それらの高音域と低音域はピアノに委ねられる。その結果、中音域を行ったり来たりする管楽器に、2台のピアノが高音域の装飾や低音域のアクセントをつける。それはCDで聴くよりも美しかった。

 だが「2台のピアノと4本の管楽器」でも、演奏は大人しかった。それが不満だった。この曲を十分に味わえなかったという消化不良が残る。それは「5台のピアノ……」でも同じだ。

 両曲で第一ピアノを担当した高橋アキには、往年のみずみずしい感覚があったが、全体の演奏に不満が残ったのは、アンサンブルを練り上げる時間が不足したのか、それとも指揮者のせいか。わたしは(「5台のピアノ……」では第五ピアノを担当し、また「2台のピアノと4本の管楽器」では第二ピアノを担当した)高橋悠治が指揮してくれたら、と思った。

 なお、前日には同じ劇場のアトリウムを使って、マセダの「カセット100」が演奏された。100人の奏者(パフォーマー)がカセットを持って(MP3で代用)、事前に録音された音源を鳴らしながら、小グループに分かれて練り歩くもの。わたしは行かなかったが(N響の定期が終わってから、行こうと思えば行けたが、その根性がなかった)、行かなかったことを悔やんだ。「カセット100」はYoutubeで視聴できるが、実演での経験には代えられないだろう。
(2019.2.11.神奈川芸術劇場)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2019年02月11日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィ指揮N響のAプロは、リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲(作曲者17歳のときの若書き)とハンス・ロットの交響曲第1番(ウィーン音楽院の卒業制作で第1楽章を書き、その2年後に全曲を完成)というプログラム。聴く前は、習作プログラムかと思っていたが、実際に聴くと、聴きごたえ十分だった。

 シュトラウスのヴァイオリン協奏曲は、第1楽章の出だしが溌溂としていて、若き日のシュトラウスの意気込みが感じられる。それを微笑ましく思っているうちに、展開部でヴァイオリンのカデンツァが始まる。そんな(展開部を途中で切るような)例が他にあったろうかと考えたが、その場では思い出せなかった。

 第2楽章は3部形式で書かれているが、その両端部分は憂愁の音楽だ。後年のシュトラウスなら絶対に書かないような音楽。思わぬ発見をした気分になった。第3楽章ではメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲の第3楽章を連想した。

 ヴァイオリン独奏はアリョーナ・バーエワという若い人。カザフスタン生まれで、モスクワ音楽院で学び、(詳細は省くが)いくつかの国際コンクールで優勝した経歴を持つ。じつに闊達な演奏をする人だ。最初は楽器が鳴っていない印象を受けたが、最後はよく鳴っていた。アンコールはなかった。

 ハンス・ロットの交響曲第1番は、沼尻竜典指揮日本フィルの演奏で2004年に聴いて以来だ(それは日本初演だったらしい)。今回はN響と神奈川フィルが同日に演奏し、また読響も本年9月に演奏するなど、一躍ブームになっている。

 わたしなどがいうまでもないが、マーラーの交響曲第1番、第2番、第3番、第5番の一部分を彷彿とさせる素材が出てくる曲だが、それをロットの先駆性、あるいは他に類のない非凡性と捉えるか、それともそれらの素材の可能性に着目したマーラーの慧眼を思うべきか、その判断は難しい。

 だが、こうはいえるだろう、25歳で狂気のうちに亡くなったロットがもし生きていたら、マーラーはあれほどあからさまにロットの素材を使えなかったろう、と。

 パーヴォ指揮N響の演奏は名演だった(今後語り継がれるかもしれない)。厚みのある音で輪郭のはっきりした音楽を造形した。第3楽章と第4楽章の終結部での追い込みには手に汗握った。ゲスト・コンサートマスターの白井圭のソロは、たんに正確なだけではなく、濃い情感を湛えていた。
(2019.2.10.NHKホール)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「愉しきかな!人生 老当益壮の画人たち」展

2019年02月08日 | 美術
 石川県立美術館で開催された「石川近代美術の100年」展(2月4日閉幕)で、見ておきたい作品があったので、会期末ぎりぎりだったが行ってきた。金沢は東京から日帰りも可能だが、富山に旧知の宿があるので、そこで1泊して、翌日金沢に行った。

 富山に着いてからは、まず富山県美術館に行った。同美術館は旧「富山県立近代美術館」が2017年に移転新築したもの。わたしは移転新築後、今回が初めての訪問だった。ガラス張りの明るい建物になっていた。だが、ボランティアらしい館内案内人が要所々々にいて、見学の順路を指示されるのが、煩わしくもあった。実は見学の途中で広い廊下に置かれている彫刻が目に入ったので、見に行こうとしたら、「まず向こうの展示室に行ってください」と言われた。

 次に水墨美術館に行った。企画展「愉しきかな!人生 老当益壮の画人たち」展を見るためだ。老当益壮(ろうとうえきそう)とは「老いてますます盛ん」という意味。長寿だった画家たち(現存の画家もいる)の作品を集めた展覧会だ。

 楽しみにしていた展覧会だが、実際に見たら想像以上に楽しかった。たとえば奥村土牛(1889‐1990)の「平成の富士」(101歳のときの作品)は、101歳の人が描いたとは思えないほどフォルムに崩れがない。しっかりしたフォルムの中に、何物にもとらわれない自由な精神が脈打っている。

 片岡球子(1905‐2008)の「面構 歌川広重」(98歳)は、一癖も二癖もありそうな面構えが、思わずたじろぐほどの存在感を放っている。これが98歳の作品かと、その精神力に脱帽する。

 それらのビッグネーム以外にも、ローカルな存在ながら惹かれる画家がいた。中でも特筆すべき画家は、筧忠治(かけひ・ちゅうじ)(1908‐2004)。愛知県生まれ。測候所に勤めながら絵(その多くは自画像)を描き続けた。本格的な発表は定年退職後から。仁王様のように強烈な自画像だ。わたしが惹かれたのは「ノラ」(79歳)。野良猫を描いた作品だが、猫の面構えが、ふてぶてしくて、いかにもワルだ。可愛くなんか少しもない。自画像と同様に強烈だ。わたしは思わず笑ってしまった。

 わたしは今67歳だが、老け込んではいられないと思った。

 翌日は金沢に移動して石川県立美術館へ。目的の作品のことは措くとして、森本仁平(1911‐2004)という画家の「湖畔のはす田」(1995年)の夕日の金色の光線に惹かれたことを記しておきたい。
(2019.2.2~3.)

(※)水墨美術館のHP
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「T4作戦」パネル展

2019年02月05日 | 身辺雑記
 2月1日~2日のわずか2日間だったが、都内でナチスの「T4作戦」パネル展が開かれた。わたしは東京新聞の記事(※)で知り、友人にも連絡して、行ってみた。2月1日の午後2時頃に会場に着くと、ヴィデオの上映が始まるところだった。ヴィデオはNHKのETV特集「それはホロコーストの“リハーサル”だった」。何人か集まっている観客の中に友人の姿を見つけた。

 ヴィデオは上映時間1時間の長いものだった。障害者を組織的に殺害した「T4作戦」(その犠牲者は20万人とも、それ以上ともいわれる)を、大竹しのぶのナレーションが、感情を押さえて、静かに語っていった。

 「T4作戦」のことは、何年か前にフランツ・ルツィウスの「灰色のバスがやってきた」(山下公子訳、草思社)を読んで知っていた。ヴィデオが語る事実はその範囲を出なかったが、実際にドイツの現場を訪れ、犠牲者の遺族と面会する映像は、わたしの眼を釘付けにした。

 そこで見たことを、今、言葉でなぞっても仕方がないので、それは控えるが、一つだけ、その後ずっと考え続けていることがあるので、それを述べてみたい。心ある人に共に考えてもらえれば、と思う。

 それは障害者を集めて殺害し、遺体を焼却する施設で働いていた人々へのインタビューの中に出てくる言葉だ。それらの人々はいっている、「私たちは命令に従っただけです。その命令は法律に基づいています。違法な命令ではありません。私たちは職務に忠実だったのです。(戦後の今でも)悪いことをしたとは思っていません」と。

 それを聞いて、わたしは2018年の夏に観た映画「ゲッベルスと私」を思い出した。ナチスの宣伝相ゲッベルスの秘書だった女性へのインタビューの記録映画だが、インタビュー当時103歳だったその女性は、頭脳明晰で、記憶の混濁もなく、明快に「私は職務を忠実に果たしたまでです」と答えていた。悪びれたところや、反省や後悔の念はなかった。

 思えば、ハンナ・アーレントが戦後のアイヒマン裁判を傍聴して、「悪の凡庸さ」と喝破したのも、同様の事例だったろう。

 「私は職務に忠実だっただけ」という思考回路が問題の拡大に決定的な役割を果たしたことに、世界は戦後の比較的早い段階で気付いたと思われるが、その思考回路を乗り越える方法を、世界は(今に至るまで)案出できているのだろうか‥。
(2019.2.1.都生協連会館)

(※)東京新聞の記事
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ケストナー「飛ぶ教室」

2019年02月03日 | 読書
 何年か前に友人とドイツを旅したことがある。ミュンヘンではダッハウ強制収容所跡を見学し、ボンではベートーヴェンの生家を見学した。またミュンスターでは友人の中学時代の同級生(同地で日本料理店を経営している)を訪れた。ベルリンでは演奏会やオペラに行った。

 こんな充実した(だが、今では、少々詰めこみ過ぎだったと反省している)旅だったが、そのとき友人が妹さんに頼まれて買ったお土産が、ケストナー(1899‐1974)の児童文学「飛ぶ教室」(1933年)だった。妹さんはなぜその本を?と尋ねるわたしに、友人は「ドイツではどんな装丁で出ているか、知りたいらしい」といった。

 ともかくその本は無事に見つかった。それで一件落着なのだが、そのとき以来わたしは、題名だけは知っていたその本が気になっていた。そして過日やっと手に取って読んでみた。翻訳が何種類も出ている作品なので、その気になればすぐ読めるのに、なぜ何年もぐずぐずしていたのかと、われながら呆れる。

 それは学校(ギムナジウム)の寄宿舎に住む5人の少年の物語。クリスマスの出しものに「飛ぶ教室」という創作劇(5人の少年のうちの一人が書いた)を上演しようとする。奇想天外なその劇の準備とともに、少年たちの日常が生きいきと描かれる。ときには胸が熱くなる出来事も一度ならずある。また大人のわたしが学ぶことも多い。わたしは心に残った言葉を書きぬきながら読んだ。

 そんな言葉の一つを紹介すると――、「すべて乱暴狼藉は、はたらいた者だけでなく、とめなかった者にも責任がある」(第7章。引用は池内紀訳の新潮文庫より)。この言葉は、級友の一人をいじめた生徒たちに向って、先生がいう言葉だが、同時に(ヒトラーが政権を掌握する時期に書かれた作品なので)もっと普遍的な含意があっただろう。

 ついでにもう一つあげると、「知恵のない勇気は暴れ者にすぎないし、勇気のない知恵はたわごとにとどまる! 世界の歴史には愚かな連中が恐いもの知らずで、知恵ある者たちが臆病である時代がくり返しめぐってきた。それはゆがんだ状態なのだ。」(第二の前書き。同)。

 誤解を招かないように、大急ぎで付け加えるが、上記のような直接的な言葉は、本作ではきわめて例外的なもので、作品全体は生きいきとした子どもの世界になっている。

 加えて、随所にドイツ人の慎み深い(相手との距離を測るような)感性がうかがえる。その感性が好ましい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする