Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

インキネン/日本フィル

2017年05月27日 | 音楽
 インキネン/日本フィルのワーグナーの楽劇「ラインの黄金」。豪華な歌手陣も目を引くが、まずはインキネンのワーグナーが興味の的だ。

 演奏は、場を追うごとに調子を上げ、熱が入った。音楽に止めようのない流れが生まれた。その流れの中心にインキネンがいた。インキネンはかねてからワーグナー好きを公言しているが、それが実感される演奏だった。

 インキネンのワーグナーは、まずリズムのよさが印象的だった。歯切れがよく、弾みのあるリズムだ。現代の息吹が通うリズム。往年の巨匠たちとは一線を画すリズムだ。そのリズムでワーグナーのスコアに切り込み抉った。

 オーケストラは弦が16型の大編成だったが、そのオーケストラが歌手を圧しないことにも注目した。いつも、いかなる場合でも、歌手の声が明瞭に聴こえた。それはワーグナーの職人芸かもしれないが、同時にインキネンのコントロールの的確さでもあった。

 チェロ、コントラバスの低音部が充実し、その基礎の上にヴァイオリンなどの高音部が乗り、さらに木管、金管が彩りを添えた。全体としては、引き締まったワーグナーだった。心地よい緊張感が持続し、しかも硬さがなかった。インキネンのワーグナーが全開した感があった。

 歌手陣では、新国立劇場のトーキョー・リングでのヴォータンのユッカ・ラジライネンは、力をセーブしていたようだが、アルベリヒのワーウィック・ファイフェという歌手が健闘した。インキネンが指揮したオーストラリア・リングでもアルベリヒを歌ったそうだから(プロフィールによる)、インキネンが連れてきた歌手だろう。

 日本人の歌手たちも健闘した。とくに、ロ―ゲを歌うはずだった外国人歌手がキャンセルし、その代役に立った西村悟は、びわ湖・リングでもロ―ゲを歌って大活躍したが、今回もそれを彷彿とさせる出来だった。ロ―ゲは西村悟の当たり役だ。他にはファーゾルトの斉木健詞とエルダの池田香織の名前を挙げておきたい。なお一人だけ声の調子が悪そうな歌手がいた。

 演奏会形式の上演だが、歌手たちは衣装を付け、オーケストラの前で簡単な演技をしながら歌い、また照明もあった。定期演奏会としての公演だったので、定期会員にワーグナーの楽劇を分かりやすく届けたいという日本フィルの努力だったと思う。

 長年定期会員を続けてきたわたしには感無量だった。
(2017.5.26.東京文化会館)
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スカルダネッリ・ツィクルス

2017年05月26日 | 音楽
 ハインツ・ホリガー(1939‐)の「スカルダネッリ・ツィクルス」全曲演奏会。演奏時間約2時間半で途中休憩なしというのは、ワーグナーの「ラインの黄金」並みの長さだが、実際に聴いてみると、案に相違して、あっという間に過ぎた。

 総計22曲が連続して演奏される。各曲は短いもので2~3分、長いもので10分くらい。それらの曲が3部に分けられている。3部構成は演奏者への配慮かもしれない。それはそうだろうと思った。演奏者に極度の緊張を強いる曲が続くので、各部の切れ目でホッと一息つくことが必要だし、それは聴衆も同じだ。

 楽器編成は、フルート・ソロあり、無伴奏混声合唱あり(器楽アンサンブルが極めて控えめに音を添える場合がある)、器楽アンサンブルあり、電子音あり、そしてそれらの組み合わせあり、という具合。音も4分音、8分音が駆使される。多彩な音色と微妙な音程を追っているうちに、いつの間にか時間が過ぎた、というのが実感だ。

 どの曲にも(例外なく)透明な空気感がある。けっして濁ったり、激情を爆発させたりしない。聴衆をエモーショナルに揺さぶらず、意識を覚醒させ、耳を澄ますように導く。ひじょうに精巧な細工物という感じがする。年季が入った職人の途方もない手仕事のような感触だ。

 指揮はホリガー自身。フルートはフェリックス・ラングレ。本作に含まれるフルート曲はオーレル・ニコレを想定して書かれたようだが、ラングレはニコレの弟子だ。合唱はラトヴィア放送合唱団。ホリガーの過酷な要求に応えた驚異の合唱だ。器楽アンサンブルはアンサンブル・ノマド。細心の音で演奏した。

 いうまでもないが‘スカルダネッリ’とはドイツの詩人ヘルダーリン(1770‐1843)の後半生でのペンネームだ。ヘルダーリンは人生の半ばで精神に失調を来たし、後半生を(ヘルダーリンを敬愛する)ある人物の保護の下で暮らした。ヘルダーリンはそのとき、折に触れて書いた詩に、スカルダネッリと署名した。

 わたしはヘルダーリンの作品は小説「ヒュペーリオン」しか読んだことがないが、同作には強い感銘を受けた。同作にみなぎる精神の高揚感には、ヘルダーリンと同年生まれのベートーヴェンと共通するものがあると思う。

 ‘スカルダネッリ’の詩は、「ヒュペーリオン」とは対照的に、平明で、明るい詩だ。そこにホリガーが目を付けたことが興味深い。
(2017.5.25.東京オペラシティ)
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マリアの首 ―幻に長崎を想う曲―

2017年05月24日 | 演劇
 30代の演出家3人が昭和30年代の戯曲を演出する「かさなる視点 ―日本戯曲の力―」シリーズの最終回。小川絵梨子が演出する田中千禾夫(ちかお)の「マリアの首 ―幻に長崎を想う曲―」。1959年(昭和34年)の作品だ。

 原爆によって廃墟となった浦上天主堂を保存すべきか、取り壊して建て直すべきかで揺れていた時代を背景に、長崎の底辺で生きる人々の苦しみを描いた作品。原爆が人々に濃い影を落とす。戦後日本はこれらの人々にどう向き合ったのか。それとも、放置したのか、という問いが、今これを観るわたしの中で堂々巡りする。

 鈴木杏(あん)が演じる鹿(しか)は、苦しみを抱えて悶々とする女。伊勢佳代が演じる忍(しのぶ)は、鋭利な殺意(=復讐心)を秘めた女。撚り合された2本の糸のような主人公たちだ。

 乳飲み子を抱いて夫(あるいは同棲者)の桃園(ももぞの)の前に現れる忍の姿は、幼子イエスを抱いた聖母マリアのように見えた。計算された効果だったのだろうが、わたしはハッとした。この芝居の象徴的なイメージが焦点を結ぶのを感じた。

 深夜に真っ白な雪が降り積もる浦上天主堂の廃墟の前で、地面にうずくまって黒く焼け焦げたマリアの首にすがろうとする鹿は、苦しみの限界を超えて、狂気のような目をしていた。そのときマリアの声が聞こえる。鹿を慈しむマリアの声。わたしは思わず涙が溢れた。久しぶりのことだった。

 原爆で苦しむ人々を見ているうちに、本作は、図らずも、今の時代への警告の意味を帯びているように感じた。近隣国でブラフ(脅し)合戦がエスカレートしている状況にあって、3度目の核が使われない保証はない。それはどこか。今度もまた日本だという可能性もないではない。

 「かさなる視点 ―日本戯曲の力―」シリーズは、前2作が日本の保守層・支配層を描いた作品だったのに対して、今回は庶民、それも社会の底辺で生きる人々を描いた作品である点で対照的だ。わたしは今回初めて感情移入ができた。

 小川絵梨子の演出は、しなやかで、しかも芯の強い感性が感じられた。以前の「OPUS/作品」もよかった記憶がある(もっとも「星ノ数ホド」には魅力を感じなかった。でも、それは作品のせいだろう)。新国立劇場演劇部門の次期監督に選ばれたときには(まだ30代の若さなので)驚いたが、案外したたかな人かもしれない。
(2017.5.23.新国立劇場小劇場)
コメント (1)
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ロジェストヴェンスキー/読響

2017年05月20日 | 音楽
 スクロヴァチェフスキが振るはずだった定期だが、スクロヴァチェフスキが亡くなったので、その代演にロジェストヴェンスキーが立った。曲目は予定のブルックナーの交響曲第5番を引き継いだが、まさかのシャルク版。

 わたしも昔はクナッパーツブッシュのLPレコードでシャルク版を聴いていた。むしろシャルク版かどうかなど気にしないで(知りもしないで)この曲を聴いていた、といったほうがいい。でも、やがて‘稿’や‘版’の問題を知るにつれ、シャルク版は過去の遺物だと思うようになった。それがまさかの復活だ。

 金子建志氏のプログラムノートによると、クナッパーツブッシュのLPレコードには「スケルツォ楽章後半にシャルク版にない大幅なカットがある」そうだ。たぶんロジェストヴェンスキーは、そこはシャルク版どおりにやったのだろうが。

 シャルク版を細かく描写しても仕方がないが、ともかく聴き慣れない音や進行が出てくるので、それをどう考えたらいいのだろうと思った。オーケストレーションを変えたというに止まらないので、たとえばリムスキー=コルサコフのムソルグスキーへの‘改訂’に近いのか。

 ロジェストヴェンスキーの演奏は、テンポが遅く、時には止まりそうになるので、所要時間は(プログラムに記載の‘約63分’を大幅に超えて)80分くらいかかった。これだけ極端なテンポ設定になると、それはテンポに止まらず、演奏全体の性格に影響する。フレーズを冷徹に見つめた個性的な演奏になった。

 ブルックナーが出発点にあったはずだが、シャルクの改訂(または改ざん)という形で批評が加わり、さらにロジェストヴェンスキーの批評が加わって、もはやどこまでがシャルクで、どこまでがロジェストヴェンスキーか分からないものができ上がった。

 いうまでもなく、それはロジェストヴェンスキーの計算通りのことにちがいない。ロジェストヴェンスキーにしかできない仕掛けだ。

 シャルクのことが気になったので、今朝、NMLを覗いたら、ベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第3番と交響曲第8番(演奏はウィーン・フィル)、シューベルトの交響曲第8番「未完成」(ベルリン・シュターツカペレ)が入っていたので聴いてみた。1928年の録音だが、少しも古びていない演奏に驚いた。アーティキュレーションが明確で、テンポが快適だ。たいへんな名演だと思った。
(2017.5.19.東京芸術劇場)
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ブラビンズ/都響

2017年05月17日 | 音楽
 マーティン・ブラビンズが都響を振ったBプロ定期。じつに興味をそそるプログラムが組まれた。

 1曲目はジョージ・バターワース(1885‐1916)の「青柳の堤」。演奏時間6分(プログラムの表記による)の小品だ。演奏が始まると、目の前にイギリスの美しい田園風景が広がるような気がした。弦の音にはふくらみがあり、またオーボエとフルートのソロには情感がこもっていた。

 2曲目はマイケル・ティペット(1905‐98)の「ピアノ協奏曲」。ピアノ独奏はスティーヴン・オズボーン。3楽章からなる堂々たるピアノ協奏曲だ。ピアノが高音を駆け巡り、チェレスタが加わるオーケストラも高音の比重が高い。リズムが精妙に書かれている。全3楽章を通じて飽きることがない。

 第1楽章の最後はピアノのカデンツァになるが、ピアノの裏にチェレスタが入ることが面白い。同属楽器のチェレスタがピアノを補完し、立体的な音響を作る。独奏楽器以外の楽器が参加するカデンツァというと、さしあたりベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のシュニトケ版カデンツァを思い出すが、他にどんな例があっただろう。

 第1楽章では変拍子が続き、また第3楽章ではシンコペーションが満載だが、そういう面白さを満喫できる演奏だった。オーケストラにはさらにリズムの切れ味をよくする余地があったかもしれないが、それは(オーケストラには負担の大きい当日のプログラムにかんがみ)いうべきではないと自制する。

 本作は1955年の作品だが、ティペットというと、第二次世界大戦中に書かれたオラトリオ「われらの時代の子」を思い出す。あの作品を初めて聴いたときには衝撃が走った。一方、本作はいかにも戦後を感じさせる明るさがあった。

 3曲目はレイフ・ヴォーン・ウィリアムズ(1872‐1958)の「ロンドン交響曲」(交響曲第2番)の1920年版。これは名演だった。指揮者とオーケストラとがお互いの能力を信頼し、曲への共感をともにして、心を一つにした演奏を展開した。オーケストラには粗さも硬さもなく、よく練られたアンサンブルで、濃やかな陰影を湛えていた。

 ブラビンズはいつの間にか、白いあごひげを蓄え、お腹に貫禄がついて、巨匠風の風貌になっていた。イングリッシュ・ナショナル・オペラ(ENO)の音楽監督を務めている自信から来るのかもしれない。演奏もその風貌にふさわしかった。
(2017.5.16.東京オペラシティ)
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画家マティス(マインツ歌劇場)

2017年05月16日 | 音楽
 最終日はマインツに移動してヒンデミットのオペラ「画家マティス」を観た。フランクフルトからマインツまでは電車で40分くらいなので、マインツに行く前にフランクフルトでマチネー公演のフランクフルト歌劇場管弦楽団の定期演奏会を聴いた。

 指揮はミヒャエル・ザンデルリンク。曲目はシベリウスの交響詩「フィンランディア」、シベリウスのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン独奏はヴィクトリア・ムローヴァ)、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」。会場はアルテオパー。

 ミヒャエル・ザンデルリンクは(首席指揮者を務めている)ドレスデン・フィルを率いて来日公演をしているし、また都響を振ったこともあるが、評判はどうだったのだろう。わたしは初めてだったが、「運命」はLPレコードで聴いていたような懐かしい演奏だった。一方、ムローヴァはかつての精悍さが薄れた印象だ。むしろアンコールのバッハがよかった。

 さて、「画家マティス」だが、このオペラは当地マインツを舞台にしている。オペラに出てくるマインツ大聖堂もマルクト広場も、当劇場のすぐ前にある。そういうオペラを当地の市民が観るということは、どういうことだろうと思っていたが、特別なものは感じられなかった。

 がらんとした舞台。大道具は一切ない。小道具も最低限に抑えられている。オペラというよりも演劇に近い。それも悪くはないが、それならそれで、もっと演劇的な面白さを追及してほしかった、というのが正直なところだ。ストーリーを追うだけの生真面目な上演だった。

 演出はエリザベト・シュテップラー。座付演出家の一人だ。この人の演出がいつもそうなのか、いつもは違うのかは分からないが、わたしは「画家マティス」がご当地ものなので、かえって思い切ったことをしにくかったのではないかと想像した。

 指揮はヘルマン・ボイマー。当劇場の音楽監督だ。オーケストラは(こんなことをいっては失礼だが)わたしが思っていたよりもしっかりした音を出していた。とくにオーデンヴァルトの場面(交響曲「画家マティス」の第3楽章に相当する)では熱い演奏が繰り広げられた。歌手陣も熱演だったが、音程が甘くなる人もいた。

 じつはこの日は他の都市で他のオペラを観るつもりだった。ところが、なんと、ソルドアウトでチケットが取れなかった。次善の策で「画家マティス」に行ったという事情もあった。
(2017.5.7.マインツ歌劇場)
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アラベッラ(フランクフルト歌劇場)

2017年05月15日 | 音楽
 リヒャルト・シュトラウスの「アラベッラ」。前日のクシェネクの3つのオペラに比べると、観客の心を揺さぶり、甘く酔わせ、ほろりとさせる手練手管のなんと見事なことか。要するにわたしたち観客は、シュトラウスのその手練手管に翻弄されることを楽しみに出かけるわけだ。

 演出はクリストフ・ロイ。舞台後方に何枚かのパネルがあり、それらが左右に動くにつれて、舞台の奥の出来事が見えたり、隠れたり、またパネルが完全に閉じて密閉された空間が出現したりする。ロイが時々使う手法だ。パネルの動きが少々煩わしいが、馴れてくると、ロイがその場面をどう見せたいのか(その場面をどう捉えているのか)が分かり興味深い。

 いつものとおり、ドラマをストレートに表現し、奇抜なことや余計なことはしないのだが、最後になってドキッとすることがあった。すべての真相が判明し、アラベッラとマンドリーカが元のさやに納まり、またズデンカとマッテオも結ばれる、と思いきや、マッテオは困惑して立ち去り、ズデンカは一人取り残された。

 それはそうかもしれない。マッテオの親友だったズデンカは、じつは女性で、今までマッテオが受け取っていたアラベッラからの手紙は、じつはズデンカが代筆したもので、しかもたった今、暗い部屋で結ばれた相手は、アラベッラではなくズデンカだったといわれても、マッテオはそう簡単に受け入れることはできないだろう。

 「アラベッラ」=「コジ・ファン・トゥッテ」という指摘はよく行われるが、それを演出面でこれほどあからさまに、むしろ「コジ・ファン・トゥッテ」とパラレルの形で示した例は、わたしには初めてだった。今まで経験した演出は、ほのめかす程度だった。

 では、アラベッラ=フィオルディリージか。それがそう単純なものではない点が、シュトラウスとホフマンスタールの名人芸だ。アラベッラはフィオルディリージを抜け出して、‘自分自身に満ち足りている女性’という一つの典型に達している。オペラ史上唯一無二のキャラクターだ。

 アラベッラを歌ったのはマリア・ベングッソン。上品な美しさを持つ歌手だ。マンドリーカを歌ったのはジェイムズ・ラザフォード。ワーグナー歌手。たしかにこの役はワーグナー歌手の声がないと務まらない。指揮はシュテファン・ゾルテス。足を踏み鳴らし、歌手やオーケストラに細かくキューを出し続けた。終演後、盛大な拍手が送られた。
(2017.5.6.フランクフルト歌劇場)
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クシェネクの3つのオペラ(フランクフルト歌劇場)

2017年05月14日 | 音楽
 エルンスト・クシェネク(クルシェネクともクレネクとも表記される)(1900‐1991)の3つのオペラ、「独裁者」、「ヘビー級、または国家の栄光」、「秘密の王国」は1928年にヴィースバーデンで初演された。でも、その後どこかで上演されたことがあるのだろうか。今ではほとんど忘れられた作品だ。今回はフランクフルト初演。

 3作ともクシェネクの最大のヒット作「ジョニーは演奏する」の直後の1926~27年に書かれた。プッチーニの三部作やヒンデミットの三部作の影響下に書かれたことは想像に難くない。一方、クシェネク自身が書いた台本には面喰うところがある。

 「独裁者」は悲劇的オペラと銘打たれ、文字通り独裁者が主人公(なお、本作がヒトラーのミュンヘン一揆の3年後に書かれたことは暗示的だ)。「ヘビー級、または国家の栄光」はブルレスク・オペラと銘打たれ、ボクサーが主人公の喜劇だ。「秘密の王国」はメルヘン・オペラと銘打たれ、国王が王権を捨てて森の中に逃避する話。

 3作とも(音楽もストーリーも)てんでバラバラな方向を向いている。これらを三部作と呼ぶのは気が引ける。それをどうやって一夜で上演するのだろう、というのがわたしの興味だった。そんなことが可能か‥。

 だが、演出家というのはたいしたものだ、「独裁者」の主人公(ヒトラーを彷彿とさせるメイクをしている)が、「ヘビー級、または国家の栄光」で同名の見世物を見物に出かけ(同作を劇中劇に読み替えたわけだ)、「秘密の王国」では今や国王となった独裁者が革命に怯える。国王を森の中に逃がした道化は、国王が森の中に納まったのを見て、してやったり、と満足する。

 この演出は、そうなってほしかったが、そうはならなかった現実を喚起して、歴史を風刺するとともに、現代への警告が含まれている可能性を感じさせた。演出家はダーフィット・ヘルマン。

 指揮はローター・ツァグロセク。このような‘退廃音楽’の理解と上演にかけては、現在この人の右に出る人はいないかもしれない。歌手も独裁者(国王)役のダヴィデ・ダミアーニ以下、粒が揃っていた。

 補足だが、「秘密の王国」の王妃は終始コロラトゥーラを駆使するソプラノ・パート。明らかに「魔笛」の‘夜の女王’のパロディーだ。ご丁寧に3人の娘という設定で‘3人の侍女’も出てくる。クシェネクの人を喰った個性の強さに唖然とする。
(2017.5.5.フランクフルト歌劇場)
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サティアグラハ(バーゼル歌劇場)

2017年05月13日 | 音楽
 フィリップ・グラス(1937‐)のオペラ「サティアグラハ」は、2011年のMETライブビューイングで上映されたので、ご覧になった方も多いと思う。わたしも観て感動した。今回は、バーゼル歌劇場、ベルリン・コーミシェオーパー、アントウェルペン歌劇場の共同制作。演出と振付はシディ・ラルビ・シェルカウイ。

 本作はマハトマ・ガンジーが南アフリカで過ごした前半生を描いたもの。ガンジーはロンドンで弁護士の資格を得た後、南アフリカに渡り、同地でインド人労働者が差別と不正を被っていることを知り、抵抗運動に立ち上がった。

 その前半生は「ガンジー自伝」に詳しく述べられているので、多くの方が読んでいることだろう。サティアグラハとは「真理の力」という意味で、ガンジーの抵抗運動の原理であったことが同書の中で述べられている。なお、いうまでもないが、同書は20世紀の名著の一つだ。

 本作は同書の中から印象的な場面をアットランダムに選んで構成されているが、歌詞は各場面の動きとは関係なく古代インドの叙事詩「バガヴァッド・ギーター」の言葉が歌われる。なお、冒頭場面だけは同書ではなく、「バガヴァッド・ギーター」の一場面からとられている。

 演出・振付のシェルカウイは、自ら率いるダンスカンパニーEastmanを使いながら、このような構造を持つ本作を、高いテンションと滑らかな語り口で表現した。また、「ニューキャッスルへの行進」の場面では、練り歩く男女の群れの中にムスリムMuslimという刺青をした男を含めるなど、現代社会の差別をも投影した。

 シェルカウイの演出・振付は、2016年にバイエルン国立歌劇場でラモーの「インドの優雅な国々」を観たことがあるが、それもたんにロココ的な舞台ではなく、戦争が止まない現代への問題意識を反映させたものだった。

 本作の最終場面でガンジーは床に倒れたが、それは凶弾に斃れたガンジーを連想させた。そのガンジーが再び起き上がり、真っ青な照明の中で歌う幕切れは、ガンジーの精神が今も人々の中に生きていることを感じさせた。

 指揮はジョナサン・ストックハンマー。オーケストラから澄んだハーモニーを引き出し、けっして濁ることがなく、また音楽の歩みに乱れがなかった。ガンジー役のロルフ・ロメイのナイーヴな歌声とともに、フィリップ・グラスの音楽にふさわしかった。
(2017.5.4.バーゼル歌劇場)
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オレステイア(バーゼル歌劇場)

2017年05月12日 | 音楽
 クセナキス(1922‐2001)の「オレステイア」は、ギリシャ悲劇の同名作を現代に復活させる試みだと思う。ギリシャ悲劇はコロス(合唱隊)の歌と数人の役者(1~3人の役者が何役かを演じ分ける)の組み合わせだったと考えられているが、では、そのときコロスが歌った歌は、どんな歌だったのだろうか。それをクセナキスなりに想像したのが本作だと思う。

 本作は2011年にサントリーのサマーフェスティヴァルで上演されたので、ご覧になった方も多いだろう。わたしも観た。ラ・フラ・デルス・バウスの鮮烈な演出と松下敬の見事な特殊唱法が強く印象に残った一方、合唱と器楽合奏はよく分からなかった、というのが正直なところだ。

 今回のバーゼル歌劇場の上演は、その合唱と器楽合奏が高水準で、わたしは初めてそれらがどんな音楽なのか分かった。合唱は、正確に音をとると、明確なスタイルがあり、西洋音楽が発生する以前の、今の感覚ではエスニックな香りがした。また器楽合奏は合唱に必要最小限のアクセントを付けるもので、非常にストイックに書かれていた。

 ついでながら(サマーフェスティヴァルでは松下敬が歌った)ファルセットの高音とバリトンの低音がめまぐるしく交代するカッサンドラの独唱では、バックに打楽器ソロが入るが、今回はそのソロも控えめで、しかも明快なリズムを独唱に添えていた。これがクセナキスの書いたソロ・パートだったのかと納得する想いだった。

 指揮はフランク・オルFranck Ollu。主に現代作品でその名を見かける人だ。中堅どころの指揮者だと思うが、シャープな音感を持った優秀な指揮者だと思う。

 これはバーゼル歌劇場のオペラ部門と演劇部門の共同制作。演劇がベースとなり、そこにクセナキスの音楽が入ってくる。その点でもギリシャ悲劇の上演形態を意識した公演だったと思う。クセナキスの音楽だけなら演奏時間は75分程度だが、今回は演劇部分を含めて95分程度を要した。

 演出はカリスト・ビエイト。ビエイト特有の過激なセックス描写は、今回はむしろ大人しいほうだ。ストレートで、かつテンションの高い語り口が印象的だった。

 アイスキュロスの原作では、最後に女神アテーナーが現れて、憎悪の連鎖が断ち切られるが、ビエイトの演出では、人々はアテーナーに従わず、憎悪の連鎖は限りなく続く。アテーナーは呆然としてへたり込む。
(2017.5.3.バーゼル歌劇場)
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高関健/東京シティ・フィル

2017年05月11日 | 音楽
 さて、今回の旅で観たオペラの記録を書くべきところだが、その前に昨日、東京シティ・フィルの定期を聴いてきたので、まずその感想から。

 指揮は高関健。1曲目は武満徹の「3つの映画音楽」。3曲のキャラクター・ピースを集めたものだが、今回の演奏では、第1曲の「ホゼー・トレス」がジャズ風のリズムが明瞭に出ていてよかったと思う。

 2曲目はベルクのヴァイオリン協奏曲。ソリストは堀米ゆず子。堀米ゆず子の演奏を聴くのは久しぶりだった。舞台に登場したその姿を見て、見違えるような想いがした。貫禄がつき、堂々として、しかももっと本質的なことには、ヨーロッパの文化に深々と根を下ろした空気感が漂っていた。もうすっかりヨーロッパのベテラン演奏家だ。

 演奏は比較的淡々としていたが、そこにとどまらずに、そこを突き抜けた、澄んだ、品のよい存在感があった。ヴァイオリンの音がオーケストラに埋もれず、いつも明瞭に聴こえたが、その音には犯しがたい気品があった。オーケストラもよかった。音の艶が失われることなく、アンサンブルも丁寧だった。

 3曲目はブルックナーの交響曲第3番(1877年第2稿。ただし第3楽章スケルツォのコーダはカット。わたしはこれらの選択に共感する。なお、高関健の5月9日のツィッターにショッキングな事実が書かれていた。それによると、1889年第3稿の第4楽章は、シャルクが書いた譜面にブルックナーが手を加えているそうだ。どうりで‥と)。

 演奏は名演だった。ゆったりとした流れが根底にあり、そこに重心が低く、奥行きのある、充実した音が乗った。高関健のブルックナーは以前にも聴いたことがあるが、そのときとは別人のように、柔軟でニュアンスに富んだ演奏になった。

 コンサートマスターにゲストの荒井英治が入った。オーケストラはコンサートマスターが変わると音がリフレッシュすることがあるが、今回はその一例だ。また、高関健は4月にサンクトペテルブルク・フィルを振ったばかりなので、その余韻が身体に残っていたかもしれない。

 トランペットの1番に若い女性が入っていた。最近見かける人だ。この人にはアンサンブルのセンスがあると思う。トランペットの1番にそういう人が入ると、金管全体の音がまとまり、充実した響きになる。この人はオーケストラの宝物になるかもしれない。
(2017.5.10.東京オペラシティ)
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帰国報告

2017年05月09日 | 身辺雑記
 本日無事に帰国しました。フランクフルトとマインツは肌寒くて、わたしはセーターを着ていましたが、地元の方々はコートやジャンパーを着ていました。バーゼルの気温はそれより高めでしたが、それでもセーターを着てちょうどよい位でした。今回観たオペラは次の通りです。

5月3日(水)オレステイア(バーゼル歌劇場)
5月4日(木)サティアグラハ(バーゼル歌劇場)
5月5日(金)クシェネクの3つのオペラ(フランクフルト歌劇場)
5月6日(土)アラべッラ(フランクフルト歌劇場)
5月7日(日)画家マティス(マインツ歌劇場)

 感想は後日また報告します。
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旅行予定

2017年05月02日 | 身辺雑記
5月2日(火)から旅行に出ます。今回の行先は、バーゼル、フランクフルト、マインツです。帰国は5月9日(火)の予定です。帰国したらまた報告します。
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オルセーのナビ派展

2017年05月01日 | 美術
 オルセー美術館が所蔵するナビ派の作品展。ナビ派に焦点を絞った点が新鮮だ。

 ナビ派とは1889年に当時20歳前後の若い画家たち(画家の卵たち)がパリで結成したグループ。‘ナビ’とはヘブライ語で預言者のこと。新たな絵画の預言者をもって自ら任じた若者たち。その命名には若者らしいノリがあったかもしれない。もちろん宗教とは関係がない。

 新たな絵画とはどういうものか。それを言葉で表しても抽象的になるだけで、むしろ本展がその答えだろう。平面的かつ装飾的な絵画が並んでいる。遠近法に象徴される西洋絵画の伝統を否定するものだが、だからといって戦闘的な感じはなく、ブルジョワジーの日常を反映した穏やかなものだ。ナビ派が一種の革命だとしたら、それがそのような場所から発生したことが面白い。

 ナビ派の画家を何人か挙げると、ピエール・ボナール(1867‐1947)、エドゥアール・ヴュイヤール(1868‐1940)、モーリス・ドニ(1870‐1943)、そして毛色の変わった存在としてフェリックス・ヴァロットン(1865‐1925)などがいる(もちろん他にも重要な画家がいる)。

 ボナールとヴュイヤールは、ともにアンティミスト(親密派)と呼ばれるように、題材や技法に親近性が強い。一方、ドニは距離感がある。ヴァロットンは他のだれとも似ていない。同じナビ派といっても、それぞれの個性が明確になるにつれ、各人自らの道を歩むようになり、グループとしての活動は1890年代の末頃には終わった。

 わたしがドニの「ミューズたち」を初めて見たのは2010年の「ポスト印象派展」だった。そのときドニの力量を思い知った。今回再び見て、やはり傑作だと思った。秋の庭園。樹木が黄色く色づいている。地面に落ちた紅葉が絨毯の模様のようだ。手前には3人のミューズが腰掛け、後方には2人1組のミューズが3組、木々の間を歩いている。すべてが調和している。奥に光る存在は何?

 本展は2010年の「ポスト印象派展」で来た作品が多い。わたしは普段は図録を買わないが、あのときは興奮のあまり図録を買ったので、その図録でチェックしてみたら25点あった。全81点中の25点だから、かなりの割合だ。

 あのときはアンリ・ルソーの大作2点に圧倒されたので、上記の「ミューズたち」を除いて、ナビ派の印象は薄かった。今回その挽回ができた。
(2017.4.25.三菱一号館美術館)

(※)本展の主な作品(本展のHP)
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