Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

画家と写真家のみた戦争展

2016年02月28日 | 美術
 宮本三郎(1905‐1974)は、第二次世界大戦中、盛んに戦争画を描いた画家の一人。「山下、パーシバル司令官会見図」(1943)はその代表作だ。ところがその宮本三郎に「飢渇」(1943)という作品がある。これも戦争画の一つだが、戦意高揚というには程遠く、戦争の凄惨な現実を描いている。宮本三郎記念美術館の収蔵品で、現在開催中の企画展に出ている。

 画面中央で、左腕を負傷して布で吊った兵士が、右手で体を支えて、地面に腹ばいになっている。目の前に水溜りがある。兵士は水を飲もうとしている。水溜りに兵士の顔が写る。ギョッとするような狂気の眼。必死の形相。

 兵士の後ろにはもう一人の兵士がいる。倒れた少年を抱きかかえて、水を飲ませようとしている。その優しさも現実かもしれない。でも、必死の形相で水溜りに這って行く兵士のほうが、圧倒的にリアルだ。

 宮本三郎は戦争画で成功した画家だが、その宮本三郎が、「山下、パーシバル司令官会見図」と同時期にこの「飢渇」を描いていた。これはどういうことだろう。どんな心境だったのだろう。当然、発表はできなかったと思うが――。この作品はどんな経緯をたどって今に至ったのだろう。

 向井潤吉(1901‐1995)も盛んに戦争画を描いた画家だが、戦後に「漂人」(1946)という絵を描いた。茶色のモノトーンの画面。当時は街中に溢れかえっていた復員兵が立っている。ボロボロの服。足元には包みが一つ。故郷を失い、肉親を失い、自分自身を失った男。それらをすべて失わせた戦争。

 だが、戦後も時が経つうちに、宮本三郎は極彩色の裸体画で、また向井潤吉はノスタルジックな民家の風景画で、ともに名声を確立した。戦争を忘れたように見える二人の歩みは、戦後日本の歩みと軌を一にしているようにも感じられる。

 一方、それとは真逆の歩みをした画家もいた。久永強(ひさなが・つよし、1917‐2004)。終戦直後シベリアに抑留された体験を持つが、復員後はその記憶に封印をした。ところが1987年に下関市立美術館で香月泰男(1911‐1974)のシベリア・シリーズを見て、その封印を解いた。74歳になった久永強は、一気に作品を産み出した。

 過酷なシベリア体験を描いたそれらの作品は、黒が主体の香月泰男のシベリア・シリーズとは違って、透明な色彩感のある、悲しい世界になった。
(2016.2.27.宮本三郎記念美術館)

画家と写真家のみた戦争展
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ピアフ

2016年02月26日 | 音楽
 ある人に誘われてミュージカル「ピアフ」を観てきた。フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフの生涯を描いたもの。ピアフは大好きだし、主演の大竹しのぶのファンでもあるので、ご一緒した。

 イギリスの劇作家パム・ジェムスの原作。2008年にロンドンで初演。日本語版は常田景子の翻訳、栗山民也の演出で2011年に初演された。その後、2013年の再演、今回の再々演と続いている。

 貧しい生まれのピアフ。パリの下町でストリート・シンガーをしていたときにスカウトされ、あっという間に人気歌手になる。時あたかも第二次世界大戦中。ドイツ軍に占領されたパリでレジスタンスの闘士を救うために尽力する。

 戦後、世界的なスターになるが、心の内は満たされない。プロボクサーのマルセル・セルダンを愛するが、セルダンは飛行機事故で亡くなる。ピアフ自身も自動車事故に遭う。薬物中毒に苦しむピアフ。晩年(といっても、まだ40代だが)、親子ほども年の違う青年と結婚して、やっと安らぎを得る。

 上昇気流に乗った前半生と、下降線をたどる後半生。放物線を描くような人生だ。それに合わせたように、このミュージカルは、前半は短いエピソードの連続で進み、後半は比較的じっくりと各場面を見せる。リヴィエラの浜辺での最終場面が美しかった。明るい空と穏やかな海。車椅子に座ったピアフ。すっかり衰え、声も弱々しい。旧友が訪れる。昔話をするうちに、静かに息絶える。

 シャンソンで歌われる世界を地で行く生き方。ピアフの人生そのものがシャンソンだったといってもいい。だからみんなピアフを愛するのだろう。歌の存在感はいうまでもないが、それに加えてピアフの人生にも惹かれるのだろう。

 ピアフの代表作「愛の賛歌」は、マルセル・セルダンの想い出と結びついて神話化した歌だが、本作ではセルダンの死の直後ではなく、かなり後になってから歌われた。意図あっての作劇とは思うが、どういう意図かは、よくつかめなかった。

 大竹しのぶは、いつものとおり、役に没入した演技を見せた。歌も十分に聴かせた。でも、忌憚なくいわせてもらえば、一種のルーティンワークのような馴れがあった。本気になったときの大竹しのぶはこんなものではない、というのが正直な感想だ。もっとも、ミュージカルとストレートプレイとの違いがある。その違いはどの程度のものなのだろう。
(2016.2.23.シアタークリエ)
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秋山和慶/東京シティ・フィル

2016年02月22日 | 音楽
 秋山和慶が客演指揮した東京シティ・フィルの定期。プログラムはブラームス2曲。円熟の極みにあるこの指揮者がブラームスをどう聴かせるか。また普段あまり振っていない東京シティ・フィルをどう振るか。そんな興味を持って聴きに行った。

 1曲目はブラームスの交響曲第3番。慎重な演奏。感興の乏しさは否めない。アンサンブルを整えることに主眼を置いた感がある。その成果は出ていたと思う。でも、それでよいのか。それだけでよいのか、という想いは拭えなかった。

 だが、それにしても、秋山和慶の棒は見やすい。オーケストラのメンバーも演奏しやすいだろう。職人的といったらよいのか。高度な職人芸。むしろ芸術的な指揮だ。聴いている(見ている)これら側までその指揮に惹き込まれる。

 だが(と2度までも「だが」というのはよくないが)、この交響曲第3番の演奏は理路整然としすぎて、ブラームスらしくなかった。内面に燃える熱いものがなかった。

 2曲目はブラームスのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏は江口玲。演奏には一転して感興が乗ってきた。音楽がよく流れ、――流れに淀みはないのだが――そこに熱いものが生まれてきた。聴衆に訴えかけようとする積極性があった。後述するピアノ独奏とオーケストラとが互角に組んで、力が拮抗していた。この曲はこうでないと面白くない。久しぶりにこの曲の納得できる演奏に出会った。

 江口玲のピアノは大変優秀だった。プロフィールによると「現在もニューヨークと日本を行き来して演奏活動を行っている」そうだが、それだけの実力を持った人だ。

 使用楽器は1912年製のスタインウェイ。東京シティ・フィルのツィッターによると「ホロヴィッツが最も愛した伝説の楽器として有名。晩年の全米ツァー他、1982年のロンドン公演、1983年の初来日NHKホールでも使用された楽器」。日本のタカギクラヴィア所蔵とのこと。

 えっ、と思って見に行った。年代物のその楽器は、2015年9月にピーター・ゼルキンがオリヴァー・ナッセン指揮の都響とブラームスのピアノ協奏曲第2番(奇しくも同じ曲だ)を弾いた楽器とよく似ていた。同じもの? 都響のときは詳しい説明はなかったので、分からないが。音は、ピーター・ゼルキンの特殊調律のせいもあるのだろうが、今回の方が澄んで聴こえた。演奏も今回の方がピアノを自然に鳴らしていたと思う。
(2016.2.19.東京オペラシティ)
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ラファエル前派展

2016年02月21日 | 美術
 ラファエル前派展の会期末が迫ってきたので、頑張って見に行った。演奏会だとチケットを買っているので、否応なく聴きに行くが、展覧会だといつでも行かれると思うので、遅くなりがちだ。

 近年、毎年のようにラファエル前派の展覧会が開かれているが、本展は一味違う。ロセッティやミレイなどのビッグ・ネームに頼らず、ラファエル前派の誕生(1848年)から19世紀末までの(一部は20世紀初めまでの)英国美術の流れを概観している。

 一番興味深かった作品は、ジョージ・フレデリック・ワッツの「十字架下のマグダラのマリア」。女が、木の柱に寄りかかって、地べたに座り込み、放心したように虚空を見上げている。荒涼とした風景。暗い空。

 題名を見るまでは、女がマグダラのマリアとは分からなかった(アトリビュートの香油の壺は描かれていない)。木の柱が十字架であり、マリアの視線の先には磔刑にされたイエスがいることも、分からなかった。題名を見たときに、ハッとした。

 最初に至近距離で見たときは、なにも感じなかった。でも、なにかの拍子で5メートルくらい離れて見たら、その象徴性が浮き上がって見えた。驚くべき経験だった。ワッツの傑作「希望」に通じる感覚があった。

 ワッツ(1817‐1904)とは面白い存在だ。ロセッティ(1828‐1882)やミレイ(1829‐1896)よりも一世代上でありながら、ラファエル前派を突き抜けて、象徴主義まで行った画家。本人の資質にそういう面があったことは確かだが、象徴主義の潮流とはどういう関係にあったのだろう。ともかく、ワッツを見る機会は稀なので、本展での出会いは貴重だった。

 ワッツとは対照的な作風だが、アルバート・ジョゼフ・ムーア(1841‐1893)の「夏の夜」も気に入った。海辺に面したテラス。4人の上半身裸の女たちが、気持ちよさそうに寛いでいる。海には月光が映っている。明るい夜。一点のかげりもない。ムーアの作品は最近見る機会が多い。見るたびに好きになる。

 ラファエル前派の創始者たちの作品では、ミレイの「ブラック・ブランズヴィッカーズの兵士」がよかった。別れを惜しんで抱き合う兵士(といっても高級将校だ)とその恋人。恋人の着ている上質なドレスの光沢が見事だ。筆一本でこれだけ迫真的な描写ができるのだから、ミレイの画力は圧倒的だ。
(2016.2.18.BUNKAMURAザ・ミュージアム)

参考:本展の主な作品
    ワッツの「希望」
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B→C 尾池亜美

2016年02月17日 | 音楽
 東京オペラシティのB→Cシリーズに尾池亜美が登場し、プログラムにルクーのヴァイオリン・ソナタを組んだので、聴きに行った。

 1曲目は池辺晋一郎(1943‐)の「ファンタジー」(1986)。ヴァイオリンを習っていたお嬢さまの発表会のために書いた曲だそうだ。平易な曲だが、聴かせどころもきちんとある。必要な時に必要な曲を提供するという、作曲家の大事な役目を果たした曲。

 2曲目は清水昭夫(1973‐)の「狂詩曲」(2014)。プログラム・ノーツによると「シェーンベルクが100年近く前に発明した、無調のシステムである12音技法を用いて書かれています」。衝動的な部分と沈潜した部分が交錯し、たしかにシェーンベルク的だ。シェーンベルクのシステムがまだ有効なことが新鮮だ。

 3曲目がルクー(1870‐1894)の「ヴァイオリン・ソナタ」(1892)。尾池亜美の若い感性と情熱のすべてをつぎこんだ演奏。すべてをつぎこむ器としてこの曲を見出した、といった演奏。聴きごたえ十分だった。

 ルクーは24歳で亡くなったが、こんなに若くして亡くなった作曲家は、他にはペルゴレージ(1710‐1736)くらいしか思い浮かばない。2人とも瑞々しい感性と成熟した書法との共存が共通している。加えてルクーはわたしの好きなフランクの流れをくむ作曲家なので、思い入れも一入だ。

 休憩に入ってしばらくすると、ロビーからヴァイオリンの音が聴こえてきた。行ってみると、尾池亜美の即興演奏が始まっていた。周りを取り囲む聴衆に気付いてびっくりするポーズ。ヴァイオリンを弾きながら客席に入る。聴衆もぞろぞろついてくる。ステージでは後半のチェンバロ伴奏、?形亜樹子(前半はピアノ伴奏で佐野陸哉)がその即興に応える。尾池亜美がステージに上って2人のパフォーマンスが繰り広げられる。場内爆笑。

 4曲目はタルティーニのヴァイオリン・ソナタ「悪魔のトリル」。自由な装飾音が入った流暢な演奏。5曲目は吉川和夫(1954‐)の「プレリュードⅢ『氷の岬の守りの木』」(1985/2015)。原曲はフルートとチェンバロの組み合わせだが、今回ヴァイオリン用に改訂された。面白かった。演奏も水際立っていたと思う。6曲目はバッハの「ヴァイオリン・ソナタ第1番」。清々しい空気感のある演奏。

 アンコールに何とかいうソルフェージュの曲が演奏された。
(2016.2.16.東京オペラシティ)

(注)?形は「くわがた」。?の字は変換できませんでした。
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2016年02月14日 | 音楽
 Cプロ1曲目はブラームスのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はジャニーヌ・ヤンセン。N響への登場は今回で4度目だそうだ。わたしは2度目。初めて聴いたときはその実力に仰天した。今回もその印象は変わらない。桁外れの音楽性と技術の持ち主だ。

 中でも第1楽章に感銘を受けた。音楽の起伏と演奏とがぴったり一致している。音楽と演奏との間になんのかい離もない。まるでヤンセンの身体から音楽が生まれてくる瞬間を目の当たりにしているようだ。すごい音楽性。

 アンコールにバッハの無伴奏パルティータ第2番からサラバンドが演奏された。清冽な叙情が漂う。比喩的にいえば、山奥から湧き出た清水が流れていくようだ。

 2曲目はニールセン(N響のプログラムでは‘ニルセン’と表記されている。たぶん根拠あってのことだと思うが、今回は馴染みのある‘ニールセン’で行かせてもらう)の交響曲第5番。パーヴォ・ヤルヴィなら名演が約束されたも同然と思える曲目だ。

 第1楽章冒頭のヴィオラの細かい音型からして、すでにニールセンへの適性が感じ取れる演奏。あっという間にその動きが各パートに広がって、小太鼓の侵入の後、突如出てくるクラリネットの奇矯なソロが、目の覚めるような演奏だった。N響の首席奏者、松本健司氏。たいへんな名手だと思う。

 第1楽章は2部に分かれていて、その第1部から第2部への経過部で、第1ヴァイオリンが(第1ヴァイオリンだけではないが)単音を繰り返すが、それに先立ってチェレスタが同じ単音を打ち始めた。ハッとした。今までこのチェレスタには気が付かなかった。生でなければ(わたしには)気が付かない音だ。

 第1楽章の最後のクラリネット・ソロは、こんな最弱音は聴いたことがないと思われるほどの音だった。そのとき小太鼓はオフステージで演奏していた。一本の細い糸のようなクラリネットの音と、舞台裏から聴こえる小太鼓の弱音とが、繊細な音響を作っていた。

 2楽章構成のこの交響曲の、その第2楽章では、ティンパニの決まり方が見事だった。久保昌一氏だと思う。わたしは学生の頃ティンパニをやっていたので、その演奏に完全にノックアウトされてしまった。

 最後のところは、弦の各奏者が自由なボウイングで弾いていた。壮観だった。わたしには第一次世界大戦の傷跡から立ち直り、人間性を回復していく喜びのように感じられた。
(2016.2.13.NHKホール)
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カンブルラン/読響

2016年02月13日 | 音楽
 カンブルランによる‘夜’のプログラム。東京にいると‘夜’を意識することはあまりないが、‘夜’とは幻想、怪奇、怯え、孤独、あるいは‘愛’に満ちたものだという感慨に浸るプログラムだ。

 1曲目はモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」。8‐8‐6‐4‐3のスリムな編成で、配置は第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ(後ろにコントラバス)、第2ヴァイオリンの順。各声部の動きが明瞭に聴き分けられる。リズムが粘らない。

 第2楽章が(わたしのイメージよりも)速めだった。そうか、この楽章はアンダンテだったかと気付く。中間部はさらに速めだった。短調に転調するその中間部がさらに印象的になった。愛の不安、愛の悲しみ、そんなロマンチックな感情に揺れた。

 2曲目はマーラーの交響曲第7番「夜の歌」。編成は16型。第1楽章の展開部後半に入って第1ヴァイオリンの甘美な旋律が浮き上がり、思わず惹きこまれた。テンポも少し落ちたようだ。陶酔的な音楽。愛の音楽。これは「トリスタンとイゾルデ」の‘愛の二重唱’の続きではないかと思った。カンブルランと読響は昨年9月に「トリスタンとイゾルデ」を演奏したが、それとこれとはつながっているのかと思った。今シーズンのプログラムを組むときに、すでに計算されていたのだろう。

 第2楽章以下でも幸福感に満ちた音楽が繰り広げられた。瑞々しい音色。とげとげしいところは微塵もない。しかもこの巨大な音楽のすべてを描き尽くそうとする演奏。並外れた演奏。カンブルランの恐るべき実力に脱帽するほかない。

 トランペットの一番奏者が好調だった。若い人だが、なんていう人だろうか。ホルンも頑張っていたが、第2楽章冒頭のソロで音を外したのが痛い。あそこは難しいのだろう。ユーホニュームも朗々とした音だ。金管の真ん中、トランペットとトロンボーンの間に陣取っていた。この曲でこの配置はいい。

 記憶している方も多いと思うが(プログラムの「楽員からのメッセージ」欄で打楽器の野本氏も触れているが)、読響は2006年にこの曲をセーゲルスタムの指揮で演奏したことがある。第5楽章の爆発的な演奏に度肝を抜かれた。あれはあれでこの楽章の一つの捉え方であり、問題提起だったと思うが、今回は第5楽章をふくめた全体が巨大な構造体を形成していたように思う。

 終演後の拍手の熱かったこと。
(2016.2.12.サントリーホール)
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ボッティチェリ展

2016年02月11日 | 美術
 最近は毎年のようにボッティチェリを見る機会があるようだ。なんと贅沢なことかと思う。今ひらかれているボッティチェリ展は、日伊国交樹立150周年記念と銘打たれているだけあって、一段と力の入った内容だ。

 たとえば「ラーマ家の東方三博士の礼拝」(フィレンツェ、ウフィツィ美術館)。ボッティチェリが自身を描きこんだことで知られる作品。その実物を見ると、なんて華やぎのある作品だろうと思った。その華やぎはどこから来るのだろうと、じっと眺めた。

 聖母子を頂点とするピラミッド型の構図だが、色の使い方が、ピラミッドの3点を赤と青の組み合わせで押さえ、上から斜め下に降りる2辺の線上に黒を配し、底辺は重しのようにオレンジ色で支えている。画面全体のこのようなシンメトリックな配色が、その華やぎを醸し出しているのではないだろうかと思った。

 本展でもっとも惹かれた作品は「聖母子(書物の聖母)」(ミラノ、ポルディ・ペッツォーリ美術館)だ。聖母が幼子イエスを抱えて時祷書を読んでいる。イエスは聖母を見上げている。聖母はほとんど目を閉じて、メランコリーに沈んでいる。金箔とラビスラズリ(青)が美しい作品だ。

 どんな画家でも、気合の入った作品と、あまり気が乗っていない作品とがあるが、本作はボッティチェリの中でも、とくに気合が入っていると感じられた。快い緊張感が漂う。時祷書を置くクッションの房まで克明に描かれている。どんなディテールも動かすことができない完璧な作品だ。

 わたしはボッティチェリの肖像画も好きなのだが、本展にも何点か来ている。女性では「美しきシモネッタの肖像」(丸紅株式会社、日本にある唯一のボッティチェリ作品)の‘理想的な美’もよいが、今回はもっと地味な「女性の肖像(美しきシモネッタ)」(フィレンツェ、パラティーナ美術館)に惹かれた。ボッティチェリにしては珍しく茶褐色のモノトーンの作品。モデルの女性の落ち着いた内面性が感じられる。

 こんな調子で書いていったら切りがないので、このへんで止めるが、気に入った作品は他にもあったことを書き添えておきたい。

 本展の特徴は、ボッティチェリを中心として、ボッティチェリの師匠であったフィリッポ・リッピと、その子供でボッティチェリに師事したフィリッピーノ・リッピを前後に置いて、一つの流れを生んだことだ。興味深い構成だと思う。
(2016.2.10.東京都美術館)

上記の各作品の画像(本展のHP)
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パーヴォ・ヤルヴィ/N響

2016年02月08日 | 音楽
 パーヴォ・ヤルヴィが2015年9月にN響の首席指揮者に就任してからまだ1年にも満たないが、もうすでにフル稼働の状態に入っている。明確なヴィジョンを持った能力のある指揮者とはそういうものかと感心する。

 今回1曲目はマーラーの「亡き子をしのぶ歌」。バリトン独唱はマティアス・ゲルネ。いかにもドイツ人らしい逞しい体つきだ。第1曲の「いま太陽は輝き昇る」の第2節の途中の「太陽は、太陽は」のところで、グッと力を入れると、太い声が身体の底から湧き起った。存在感のある声。子供を亡くした父親の嘆きが伝わってくる。

 オーケストラは12型。音に透明感がある。曲の隅々まで見通せるような透明感。一点の曇りもない演奏だ。しかもテンポの急激な変化にも敏感だ。

 第5曲(終曲)の「こんな嵐に」の後半の、音楽が穏やかに収まる部分で、チェレスタが明瞭に聴こえた。まるで「大地の歌」の終曲の「告別」の終わり方のようだった。「告別」のあのチェレスタの原形がここにあるのかと思った。それとも、わたしが今まで気付かなかっただけで、これは皆さん周知のことなのだろうか。

 2曲目はブルックナーの交響曲第5番。弦は16型に増えたが、木管はマーラーが3管編成だったのに対して、ブルックナーでは2管編成へと縮小する。両者の色彩感の違いが見えるようで面白い。打楽器もマーラーでは多数使われていたが、ブルックナーではティンパニだけ。

 第1楽章の冒頭、抑えた弦の音、そして突如鳴り響く金管のコラール。緊張感のある透明な音はマーラーのときと変わらない。序奏が終わって主部に入ってからも、オーケストラの音は膨張しない。音もリズムも、強靭ではあるが、重くない。この楽章は、演奏によっては(全休止をはさみながら)巨大なブロックを積み上げるような音楽になるが、パーヴォ/N響だと音楽の流れが明瞭で、それを見失うことがない。

 第2楽章と第3楽章は続けて演奏された。すると、大きな流れの前半(第2楽章)と後半(第3楽章)のような捉え方ができ、‘静’と‘動’あるいは‘聖’と‘俗’という明快な対比が感じられた。両楽章の性格付けの一つの問題提起かもしれない。

 第4楽章の最後まで音が混濁しなかった。コ―ダの部分では危うさを感じたが、持ちこたえた。N響の‘一流の証明’だと思う。演奏能力の極限まで振り切れた演奏。その意味でスリルがあった。
(2016.2.7.NHKホール)
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フランクフルト:村の歌い手

2016年02月04日 | 音楽
 ヴァレンティーノ・フィオラヴァンティ(1764‐1837)の「村の歌い手」LE CANTATRICI VILLANEというオペラがフランクフルト歌劇場で新制作されるので、観ておきたいと思った。未知の作曲家のオペラ。さて、どんなものか。

 フィオラヴァンティについて調べてみた。パイジェッロ(1740‐1816)やチマローザ(1749‐1801)らの流れをくむナポリ楽派の作曲家だ。ナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗いたら「村の歌い手」の音源があったので、事前に聴いておいた。

 でも、その印象と今回の印象とでは、多少違いがあった。一言でいって、今回の上演のほうが、少なくともオーケストラについては、はるかに生きいきとしていた。音楽がきびきびと進行し、微妙な陰影にも事欠かなかった。

 指揮はカルステン・ヤヌシュケKarsten Januschke。若い指揮者。金髪をヘアバンドで留めている(男性だが)。なかなか格好いい。2014年2月にはライマン(1936‐)の「幽霊ソナタ」(原作はストリンドベリ)を振った。今でも鮮やかな印象が残っている。大ヴェテランのアニヤ・シリヤが出ていた。

 今回、7人の歌手のうち3人がオペラ・スタジオ(新国立劇場のオペラ研修所のようなものだろう)のメンバーだった。若くて素質のある人たちだと思うが、すでにプロとしてやっている人たちの中に入ると、力量の差は否めなかった。

 狂言回しのような役柄のドン・ブチェファーロを歌ったビョルン・ビュルガーが全体を引っ張っていた(この人も「幽霊ソナタ」に出ていた)。この歌劇場の専属歌手で、今年のグラインドボーン音楽祭に「セヴィリアの理髪師」のフィガロでデビューするそうだ。

 演出はカテリーナ・パンティ・リベロヴィチ。このオペラは、カペルマイスターのドン・ブチェファーロが村の女4人に「あなたたちはオペラ歌手になれますよ」とおだて、女たちもその気になる喜劇なので、歌のレッスンの場面や、オペラのリハーサルの場面が入っている。今回の演出では、全部で7人の黙役が登場し、舞台監督やプロンプターに扮して動き回っていた。

 オペラのリハーサルはグルックの「エツィオ」。当歌劇場は2013年11月に上演したので(ヴァンサン・ブッサール演出の名舞台だった)、その関連も意識していると思う。
(2016.1.25.フランクフルト歌劇場ボッケンハイマー・デポ)
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チューリヒ:ハムレットマシーン

2016年02月03日 | 音楽
 ヴォルフガング・リーム(1952‐)の「ハムレットマシーン」の原作は、旧東ドイツの劇作家ハイナー・ミュラー(1929‐1995)の同名作だ。1977年に発表された。「私はハムレットだった」という台詞で始まるその作品は、戯曲と呼ぶのは難しい異色作だ。日本語訳も出ているが、単行本で7頁しかないその作品には、錯乱した言葉が並んでいる。

 上演困難な作品だが、野心的な演出家を刺激した。1979年にパリで初演。1986年にニューヨークで上演されたロバート・ウィルソンの演出は、ハイナー・ミュラー自身が高く評価した。リームの「ハムレットマシーン」はその翌年の1987年の初演。ハイナー・ミュラーの原作への関心の高まりの中で生まれたと思われる。作曲という行為には演出と似ている面があるとするなら、リームも上演の試みに参入したといえるかもしれない。

 リーム独自の発想は、ハムレット(というよりも、ハムレット役者)を3人に分割した点にある。ハムレットⅠとハムレットⅡは俳優、ハムレットⅢはオペラ歌手に割り振った。これら3人がハムレット役者であった者を演じ、語り、かつ歌う。

 今回の上演では、これらの3人がハイナー・ミュラーそっくりにメイクされていた。頭が禿げ、黒ぶちの眼鏡をかけ、痩せて、黒い上着を着ている。これら3人が動き回る。原作では(ハンガリー動乱やプラハの春への弾圧といった)歴史への抗議が前面に出ているが、今回の上演ではハイナー・ミュラーが(ソ連の崩壊といった)歴史に乗り越えられる姿を想わせた。

 一例をあげるなら、原作ではマルクス、レーニン、毛沢東の3人が出てきて、斧で頭を割られる場面があるが、今回の上演では、それら3人は無傷のまま。逆に3人のハムレット(ハイナー・ミュラー)がナイフで首を切られた。

 演出はセバスティアン・バウムガルテン。明るく、ユーモラスで、しかも歴史の進行や現代社会への暗喩に満ちた舞台だった。

 指揮はガブリエル・フェルツ。大音響が炸裂するこの音楽を、切れ味よく、完璧にコントロールしていたと思う。初演時のライヴ録音がCDで出ているが(ペーター・シュナイダー指揮マンハイム歌劇場の公演)、音楽の掌握の点で隔世の感がある。

 リームもカーテンコールに現れた。盛んな拍手を受けたリームは、しきりに「拍手は俺じゃない。出演者たちに」という仕草をしていた。
(2016.1.24.チューリヒ歌劇場)
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シュトゥットガルト:チェネレントラ

2016年02月02日 | 音楽
 序曲が始まる。幕はすでに開いている。舞台の中央には半円形の会議用テーブルが置かれている。円の弧の部分が客席に向いている。そこにスチール製の椅子が並んでいる。椅子の前にはパソコンやペットボトルが置かれている。

 序曲の途中からスーツ姿の男性がぞろぞろ現れる。女性も2名。ただし男性が女装している。金髪でハンドバックを持ち、澄ましている。異様な存在感がある(笑い)。彼ら(彼女ら)が席に着き、会議が始まろうとするところで序曲が終わる。

 テーブルの向こうから舞台がせり出してくる。足の踏み場もないほど散らかった部屋。クロリンダとティスベがソファーに座って退屈そうにしている。チェネレントラ(シンデレラ)は床に座ってテレビに夢中だ。その様子を彼ら(彼女ら)が見ている。王子(会社の跡取り息子?)ドン・ラミーロの結婚相手の品評中だ。

 序曲から第1幕の冒頭までにこれだけのことが起きる。一瞬たりとも停滞しない。しかも可笑しさ満載。その後も同様だ。じつに細かいドラマ作り。アイディアに溢れ、時には意表を突く場面になる。この日は土曜日だったせいか、子どもの観客も多かったが、あっという間にエロティックな場面になり、(わたしなどは)慌てることもあった。

 演出はアンドレア・モーゼスANDREA MOSES。才能がある人だと思う。プログラムにプロフィールが載っていなかったが(再演の場合は演出家のプロフィールは載せないようだ。2013年6月30日初演)、どういう人だろうか。

 チェネレントラを歌ったのはディアナ・ハッラーDIANA HALLER。クロアチア出身の若い歌手だ。当歌劇場の専属歌手。若いパワーとコミカルな演技に目をみはった。以前チューリヒ歌劇場でチェチリア・バルトリの「チェネレントラ」を観たことがあるが、それを想い出した。バルトリのような声とまではいえないが(あのビロードのような声は不世出のものだ)、丸い体形で舞台を動き回る姿がバルトリを彷彿させた。

 歌手ではもう1人、ドン・ラミーロを歌ったボグダン・ミハーイにも注目した。胸声による高音が強く出る若い歌手。ポーランドの出身だ。

 問題があったとすれば指揮者だ。ステファン・バーローというイギリスのヴェテラン指揮者だが、安全運転だったのだろう、テンポが遅めで、ロッシーニの弾けるような躍動感が生まれるには至らなかった。
(2016.1.23.シュトゥットガッルト歌劇場)
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シュトゥットガルト:イェヌーファ

2016年02月01日 | 音楽
 カンブルランがシュトゥットガルト歌劇場の音楽総監督に就任したとき、ぜひそこでのオペラ公演を観てみたいと思った。今まで何度か計画した。でも、なかなか実現しなかった。今回の「イェヌーファ」でやっと実現した。

 さすがに前日の指揮者とは大違いだ。オーケストラに緊張感がある。ヤナーチェクの細かい音型が克明に浮き上がる。繊細な音。ハープの音が時々明瞭に聴こえる。音楽がまったく弛緩しない。テンポの急変も容赦ない。読響を振っているときのカンブルランと同じだ。上半身を大きく動かし、まるで波乗りをしているように音楽を前に前にと引っ張っていく。

 歌手ではコステルニチカを歌う予定だったアンゲラ・デノケが降板し、イリス・フェルミリオンに変わった。フェルミリオンは大好きな歌手だ。もう何年も前のことだが、ドレスデン歌劇場でオトマール・シェックの「ペンテジレーア」を観たときに、震えるほど感動した。魂の裸形を見るような想いだった。あのときはゲルト・アルブレヒトの指揮だった。すでに読響は退任していたが、まだ元気だった。その後急に衰え、あっという間に亡くなった。

 フェルミリオンのコステルニチカは期待どおりだった。コステルニチカの苦悩を真正面から受け止めた歌唱だ。声の硬質な深さはフェルミリオンならではだ。

 いうまでもないが、このオペラの原題は「彼女の養子」だ。彼女とはコステルニチカ、養子とはイェヌーファ。結果的に主人公はイェヌーファになるが、そこには常にコステルニチカの存在がある。コステルニチカの苦悩がこのオペラの中心だ。その苦悩をフェルミリオンは全身で表現していた。

 イェヌーファを歌ったのはレベッカ・フォン・リピンスキ。プロフィールによるとイギリス生まれ。この人を含め、(一人ひとりの名前は挙げないが)ラツァ、シュテヴァ、それぞれの歌手は渾身の歌と演技だった。

 忘れてならないのは、イェヌーファの友人ヤーノを歌った角田裕子だ。この歌劇場の専属歌手で、以前「ペレアスとメリザンド」で舞台を暴れまわるイニョルドを好演していた。今回もやんちゃ坊主の役作りで舞台を活気づけていた。

 演出はカリスト・ビエイト。場所を縫製工場に置き換え、生々しいドラマを展開していた。人間の欲望、焦燥、そういった感情が渦巻くドラマ。それに比べると、我が新国立劇場のオペラ公演が妙に‘お上品’に思われた。
(2016.1.22.シュトゥットガルト歌劇場)
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