Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ネトピル/読響

2019年11月30日 | 音楽
 ヤクブ・フルシャとともにチェコ・フィルの首席客演指揮者を務めるトマーシュ・ネトピルの読響初登場の定期。1曲目はモーツァルトの「皇帝ティートの慈悲」序曲。はっきりした輪郭をもち、背筋の伸びた演奏で、いかにもオペラ・セリアの序曲らしい好演だ。

 一旦オーケストラが退場して、舞台の照明が落ち、指揮台の横の独奏者席にスポットライトが当たる中、チェロのジャン=ギアン・ケラスが登場して、リゲティの「無伴奏チェロ・ソナタ」。リゲティが西側に亡命する前の作品だ。バルトークやコダーイの流れを留めた曲想がしみじみと演奏された。

 舞台の照明が明るくなり、オーケストラが再登場して、リゲティの「チェロ協奏曲」。リゲティが西側に亡命して間もない頃の作品。同時期のオーケストラ作品「ロンターノ」と同様、透明な音響の極限を目指した曲だ。「ロンターノ」は読響がカンブルランの指揮で2013年12月に演奏した。わたしは息を殺してそのときの演奏を聴いた。音楽が音楽として成立するギリギリのところに触れる思いがした。今回その演奏を彷彿とさせる演奏だった。

 ケラスのアンコールがあった。バッハの無伴奏チェロ組曲第1番から「サラバンド」。極度の緊張から解き放され、ホッと息をつくことができた。

 プログラム後半はヨゼフ・スークの「アスラエル交響曲」。全5楽章、演奏時間約1時間の大曲だ。以前フルシャが都響でこの曲を演奏したが、わたしは残念ながら聴きそこなった。それ以来気になっていた曲だが、今回思いがけずネトピルの指揮で聴く機会が訪れた。

 長大なだけではなく、ドラマの筋が追いにくい曲だが、それをネトピルは少しも弛緩させず、確信をもって、明確にドラマを描いた。途中で道に迷うことなく、しかも複雑に入り組んだドラマの筋を単純化せずに、あらゆるニュアンスを克明に描いた演奏。時折現れる後期ロマン派風の濃厚な響きが、わたしにはとくに興味深かった。ドヴォルザークの娘婿でマルティヌーを教えたスークの、そのチェコ音楽の文脈だけでは捉えきれない一面を垣間見る思いがした。

 読響の合奏力も見事だった。起伏に富んだ演奏の、そのどこをとっても焦点が合っていた。音に神経が通い、雑なところがなかった。今シーズンの読響の演奏の中では、セバスティアン・ヴァイグレが振ったハンス・ロットの「交響曲」とともに、最大の成果にあげられると思う。

 ゲスト・コンサートマスターに入った白井圭の艶やかなソロも光った。
(2019.11.29.サントリーホール)
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サントリーホール作曲家の個展Ⅱ:細川俊夫&望月京

2019年11月29日 | 音楽
 今年の「作曲家の個展Ⅱ」は細川俊夫と望月京(もちづき・みさと)。人気作曲家同士の組み合わせだ。サントリー芸術財団50周年記念と銘打った演奏会。細川俊夫と望月京の新作を聴くチャンスだ。

 まずはそれぞれの旧作から。1曲目は望月京のオーケストラ作品「むすび」(2010)。東京フィルの創立100周年記念の委嘱作品。上品な色彩感が望月京らしいが、作曲にあたって寿ぎの歌が念頭にあったという、その寿ぎのイメージから出発している点が、わたしには物足りなくもあった。演奏は杉山洋一指揮の都響。丁寧で誠実で、神経の行き届いた演奏だった。それは2曲目以降も同様だ。

 2曲目は細川俊夫のオルガンとオーケストラのための作品「抱擁―光と影―」(2016‐17)。オルガン独奏はクリスチャン・シュミット。作曲者自身がプログラム・ノートで「オルガン協奏曲」と書いているが、オルガンとオーケストラが掛け合うというよりも、一体となって一つの世界を創出する曲だ。

 細川俊夫の最新作の一つだが、それを聴いていると、最近は細川俊夫の雄弁さに磨きがかかっていることを感じる。凄みの効いたチェロとコントラバスの唸り、濃厚な情緒など、オペラの一場面を彷彿とさせる部分が散見される。

 3曲目は望月京の新作、打楽器とオーケストラのための「オルド・アプ・カオ」Ordo ab Chao。打楽器独奏はイサオ・ナカムラ。わたしは2010年5月に大野和士指揮の都響でこの打楽器奏者を聴いたことがあるが、そのときの曲は細川俊夫の打楽器協奏曲「旅人」だった。今でも記憶に残っている。

 今回もこの打楽器奏者でなければできない鮮烈かつ強烈で、個性的でかつインパクトのあるパフォーマンスと、望月京の鮮明で曇りのない、かつ残酷で容赦のない音楽とが相俟って、わたしには忘れられない体験となった。オーケストラの打楽器奏者たちも加わったカデンツァは、紛争地の戦闘の現場を見るようで、その後の静寂は、すべてが破壊しつくされ、荒涼とした地平線に訪れる一瞬の平穏のように思われた。

 4曲目は細川俊夫の新作、オーケストラのための「渦」。興味深かったのは、この曲でも望月作品と同様に打楽器奏者たちの独奏部分があること。ただ望月作品では打楽器奏者個々のキャラが立っていたのに対して、細川作品ではアンサンブルとしてまとめられていた。また望月作品では音がカラフルで明瞭だったのに対して、細川作品ではモノトーンでグレーゾーンを内包していた。二人の作風のくっきりしたコントラストが意外だった。
(2019.11.28.サントリーホール)
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平和祈念展示資料館「四國五郎展」

2019年11月26日 | 美術
 新宿住友ビルにある平和祈念展示資料館で「四國五郎展」が開かれている。会期は12月27日までだが、前期(~11月11日)と後期(11月12日~)で展示替えがあるので、わたしは両方行ってみた。

 四國五郎は1924年に広島県で生まれた。1944年10月に召集され、満州に渡る。1945年8月に武装解除。シベリアに抑留される。森林の伐採作業に従事するが、栄養失調、凍傷、吐血で瀕死の重病になる。1946年3月入院。絵が得意なことが知られ、漫画やポスターを描くようになる。収容所では「民主グループ」に属した。1948年11月帰国。同月、広島に帰郷し、弟の原爆死を知る。その後、詩人の峠三吉と親交を結び、反戦平和運動に従事する。絵本「おこりじぞう」の表紙と挿画を担当した。2014年没。

 本展では油彩画、ペン画、デッサンのほか、シベリア抑留当時の持ち物、戦後の反戦平和運動で描いた母子像(油彩画)、「おこりじぞう」の原画、書籍類などが展示されている。

 中でもインパクトがあるのは、チラシ(↑)に使われた油彩画「ドーフ小曲(流れはるかなアムールの)」だろう。男が雪原に立っている。膝まで雪に埋もれている。左手には斧を持っている。森林の伐採作業に使う物だ。雪原の向こうには黒い森林が見える。空は灰色。ひっきりなしに雪が舞う。男は故郷の広島の方角を見ている(キャプションの説明による)。男は四國五郎自身だろう。

 ポスターでこの絵を見て、惹かれるものがあったので、出かけてみたのだが、会場に入って、アッと驚いた。この絵の下半分(雪原の部分)は白樺の樹皮だ。キャンバスに白樺の樹皮を貼りつけて、そこに描いている。過去の記憶を作品に留めるための手法だろうか。絵画に異物を貼りつける前衛芸術とは無縁な、素朴で、だが、やむにやまれぬ心情を感じる。

 本作の制作年は1990年代前半だ。帰国してから40年以上たっている。四國五郎は、前述の通り、戦後は反戦平和運動の中で絵画を制作するが、シベリア抑留を題材にした作品は描かなかった。ところが、1991年に「シベリア墓参・鎮魂の旅」に参加したことがきっかけとなり、シベリア抑留の体験を油彩画などに描き始めた。

 シベリア抑留当時の情景を描く作品の中に、その情景をスケッチする(今の)自分を、作品の片隅に小さく描き込んだ作例がいくつかある。シベリア抑留当時と今との二つの「時」を画面に共存させるとき、四國五郎はなにを思っていただろう。
(2019.10.3.&11.19.平和祈念展示資料館)
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ブロムシュテット/N響

2019年11月23日 | 音楽
 ブロムシュテット指揮N響のCプロは「1783年のモーツァルト」プロ。前年8月にウィーンで、父と姉の反対を押し切って、コンスタンツェと結婚したモーツァルトは、1783年の夏にコンスタンツェを伴ってザルツブルクに里帰りした。その里帰りにちなむ交響曲第36番「リンツ」とミサ曲ハ短調のプログラム。

 演奏の話に入る前に、当時のモーツァルトの心情を振り返っておきたい。モーツァルトが結婚直後に書いた父と姉あての手紙の一節を引用すると、「――ぼくたちが結び合わされたとき、妻もぼくも泣き出してしまいました。するとみんなも泣き、牧師までが感動して――泣きました。みんな、ぼくたちの感動を目のあたりみたからです。」「今では、コンスタンツェもザルツブルクへ旅行するのを、前の百倍も喜んでいます――いずれあなた方が――彼女にお会いくださった暁には、ぼくの幸せを喜んでくださるものと――かたく――かたく――信じています。」(吉田秀和編訳「モーツァルトの手紙」より1782年8月7日付)

 交響曲第36番「リンツ」は、ザルツブルクへの里帰りを終えて、ウィーンに戻る途中でリンツに寄り、急遽演奏会を開くことになって、わずか4日間で書いたといわれる曲だが、こんなに堂々とした曲が4日間で‥と信じられない思いがする。それはともかく、曲そのものは、その前後の第35番「ハフナー」や第38番「プラハ」とちがって、ハ長調にもかかわらず、どこかくすんだ音色と吹っ切れないメランコリーを漂わせる。

 今まではそれが不思議だったが、今回ブロムシュテット/N響の演奏を聴いて、ザルツブルクへのお里帰りは、モーツァルトが期待したほど幸せなものにはならなかったのかも‥と思った。第2楽章アンダンテの淡々とした澄み切った演奏を聴くと、モーツァルトの「まあ、人生こんなものさ」という諦めのような声が聞こえた(ような気がする)。

 ミサ曲ハ短調はモーツァルトが、コンスタンツェと結婚できたらミサ曲を捧げますと神に約束した曲だが、ザルツブルクへのお里帰りには間に合わず、未完に終わった(ザルツブルクでは自作の旧作で未完部分を補ったらしい)。そんな大事な曲の冒頭の「キリエ」が短調で書かれたことに、モーツァルトの創造の神秘を感じる。

 ブロムシュテット/N響の演奏は、技術的にきわめて高度で、精神的にも緩みのない優れたものだった。4人の独唱者と合唱とともに(個別の名前は省くが)、わたしには末永く記憶に残りそうな決定的な経験になった。トロンボーン3本の配置の仕方(舞台上手に2本、下手に1本)、「聖霊によりて」でのフルート奏者と2番オーボエ奏者の席替え、二重合唱での合唱団員の移動、12‐12‐8‐6‐4の弦の必要に応じた減員など、演奏上の工夫も多かった。
(2019.11.22.NHKホール)
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ブロムシュテット/N響

2019年11月18日 | 音楽
 ブロムシュテット指揮N響のAプロは、当初発表のソリストが来日中止になり、ソリストと曲目が変更された。変更後のソリストはスウェーデン生まれのピアニストのマルティン・ステュルフェルトという人で、曲目はステンハンマル(1871‐1927)のピアノ協奏曲第2番になった。ブロムシュテットは2018年10月にN響とステンハンマルの交響曲第2番を演奏しているので、2年連続のステンハンマルの演奏となった。わたしは2018年の演奏を聴かなかったので、期待が高まった。

 その期待は十分満たされた。CDはともかく実演で聴くのは初めての曲だし、今後聴く機会があるかどうかわからないので、心して聴いたが、そうやって気合を入れて聴くに値する曲だし演奏だった。

 ステンハンマルはシベリウスやニルセンと同時代人で、当初はブラームスなどのドイツ・ロマン派の影響下で作曲したが、後に北欧的な作風に変化したと、手元の音楽辞典には書いてある。ピアノ協奏曲第2番はドイツ・ロマン派の作風の最後の頃の作品のようだ。

 たしかに独奏ピアノのパートはロマンチックで、北欧的というよりは、ドイツ・ロマン派の流れにあるが、興味深かったのは、全4楽章中の第1楽章と第2楽章でオーケストラが寡黙なことだ。ピアノが流麗な音楽を奏でる一方で、オーケストラは第1楽章では一定のリズム・パターンを打ち込み続け、第2楽章では沈黙する部分がある。そんなオーケストラ・パートに次の作風の胎動を感じた。

 ステュルフェルトのピアノは瑞々しい音色と滑らかな語り口が魅力だった。ブロムシュテット指揮のN響には快い緊張感があり、ピアノと一体となって誠実にこの曲を演奏した。

 ステュルフェルトのアンコールがあった。ブラームスの幻想曲集作品116から第4曲「間奏曲」だったが、わたしは迂闊にも北欧の音楽だと思った。グレン・グールドのブラームスの間奏曲集のCDに収められている曲なのだが、それと結びつかなかった。ステュルフェルトの清冽な音は、グールドとはまったく違う世界を拓いて見せた。

 プログラム後半はブラームスの交響曲第3番だが、予想外の面があった。第1楽章ではテンポが遅くなる傾向があり、また弱音に傾斜しがちだった。第2楽章では弱音の維持に細心の注意を払っていた。第3楽章でテンポは戻ったが、強いアクセントは避けていた。第4楽章でテンポと強いアクセントの両方が戻ったが、わたしは(第4楽章はともかく)第3楽章までは、初めてブロムシュテットに老人の音楽を感じた。
(2019.11.17.NHKホール)
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B→C 伊藤美香ヴィオラ・リサイタル

2019年11月15日 | 音楽
 B→C(バッハからコンテンポラリーへ)のリサイタル・シリーズで、ヴィオラの伊藤美香(いとう・はるか)のリサイタルを聴いた。わたしは事情に疎いので、その名前は知らなかったが、日本人作品を主体にしたプログラムに惹かれたのと、もう一つ、ピアノ伴奏が新垣隆で、そのピアノを聴いてみたい気持ちもあった。

 1曲目は鈴木行一(1954‐2010)の「響唱の森」(2009)。初めて聴く曲だが、「ヴィオラとピアノの強打音を特徴とした鋭い音のぶつかり合いと、息の長い旋律が展開される部分の対照的な対話」(東川愛氏のプログラム・ノーツ)が繰り返される曲。その強打音が始まった途端に、ヴィオラの音がギーッと潰れたような音なので閉口した。

 2曲目はバッハのヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調BWV1015。早いパッセージで音が怪しくなるし、また、なぜこの曲を選んだのか(この曲で何をやりたいのか)、その目的意識が伝わってこない。一方、新垣隆のピアノ伴奏は音楽性豊かだった。率直にいって、ヴィオラよりもピアノの方がおもしろかった。

 3曲目はマルティヌー(1890‐1959)の「ヴィオラ・ソナタ」(1955)。演奏の荒っぽさは変わらないが、バッハに比べると、モチベーションの高さが感じられた。マルティヌーにしては一本調子な演奏だったが、それをいっても始まらない気がした。

 4曲目は西村朗(1953‐)の無伴奏ヴィオラ・ソナタ第3番「キメラ」(2017)。演奏者のヴィルトゥオジティを発揮させる曲で、伊藤美香はそれによく応えていた。プログラム前半の3曲に比べると、伊藤美香のやりたいことがはっきりしていて、わたしも曲に向き合うことができた。

 5曲目は眞鍋理一郎(1924‐2015)の「長安早春賦」(1987/2009)。わたしは眞鍋理一郎という名を知らなかったが、この作品は、長安とはいいながら、出来合いの情緒に流れずに、個性を感じさせた。元々はヴィオラと二十絃箏のための曲だそうで、そういわれてみると、ポツポツと動くピアノの音はその名残かもしれないと思った。

 最後は矢代秋雄(1929‐1976)の「ヴィオラとピアノのためのソナタ」(1949‐50)。矢代秋雄のフランス留学前の作品だ。「交響曲」、「チェロ協奏曲」、「ピアノ協奏曲」などの代表作は留学後の作品なので、留学前の作品が聴ける貴重な機会だった。本作は、留学前にもかかわらず、フランス近代の音が鳴った。矢代秋雄は留学前からこういう音を書いていたようだ。
(2019.11.12.東京オペラシティリサイタルホール)
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ドン・パスクワーレ

2019年11月10日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「ドン・パスクワーレ」は、歌手の水準が高かった。中でもタイトルロールのロベルト・スカンディウッツィは、その声の深みと高貴さで圧倒的な存在感を持っていた。さすがは現代最高峰のバスの一人。ヴェルディ歌手として名を馳せた人がこの役を歌うと、これほどまでの存在感があるのかと思った。

 思えばこの役は、あまり目立ったアリアがなく、むしろ他の歌手とのアンサンブルが主体なので、声そのものに魅力がないと、印象が薄れがちだ。わたしの乏しい経験では、チューリヒ歌劇場の公演でのルッジェーロ・ライモンディのタイトルロールが、今でも鮮明に記憶に残っている(1999年1月、指揮はネッロ・サンティだった)。一方、ベルリン・ドイツ・オペラの公演では、だれが歌ったのか、記憶から消えている(2006年1月、指揮はイヴ・アベルで、その指揮はよかった記憶がある)。

 今回のスカンディウッツィは、わたしには、ライモンディと伍すものがあった。細かくいうと二人の役作りには多少の違いがあったと思うが(ライモンディには、年老いたとはいえ、もっと色気があったような気がする)、恬淡としたスカンディウッツィの役作りにも味があった。

 他の歌手では、エルネストを歌ったマキシム・ミロノフに惹かれた。高音がまっすぐ飛んでくる声に、さすがは「セビリアの理髪師」のアルマヴィーヴァ伯爵で評判をとった歌手だけあると思った。

 ノリーナ役の歌手は、当初予定されていた歌手がキャンセルして、ハスミック・トロシャンに代わったが、おそらく日本ではまだ無名の(それとも、わたしが知らないだけか)この歌手は、硬質な声で、切れがよく、技術的にも安定していて、鮮烈な日本デビューを果たした。また、マラテスタ役のビアジオ・ピッツーティも優れた歌手だった。狂言回しのこの役が、今回のようにしっかり歌われると、ドラマ全体の骨格がしっかりする。

 久しぶりに聴くこのオペラは、オペラ・ブッファではあるが、陰影に富んだニュアンス豊かなオペラだと、あらためて思った。エルネストがトランペット・ソロを伴って歌う悲しみのアリア、ノリーナがドン・パスクワーレに平手打ちを食わせた後の二人それぞれの苦い思い、ノリーナとエルネストの官能的な愛の二重唱など格別な音楽で、演奏もよかった。

 コッラード・ロヴァーリス指揮の東京フィルは、序曲こそ余裕のない演奏だったが、徐々に持ち直した。ステファノ・ヴィツィオーリの演出は、平明な、わかりやすい演出で、場所を厨房に設定した使用人たちの大騒ぎは楽しかった。
(2019.11.9.新国立劇場)
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ライナー・キュッヒルのヴァイオリン・リサイタル

2019年11月07日 | 音楽
 ミューザ川崎アフタヌーンコンサートでライナー・キュッヒルのヴァイオリン・リサイタルを聴いた。休日午後の気楽なコンサートで、キュッヒルもその趣旨を理解しているらしく、リラックスした雰囲気の演奏会だった。

 1曲目はドヴォルザークの「ロマンティックな小品」。4曲からなる小品集で、わたしはその曲名を見てもピンとこなかったが、演奏が始まると、「あぁ、この曲か」と聴きおぼえのある曲だった。キュッヒルの演奏は、熱量が高く、張りのある音で、いつもの通りのキュッヒルだった。

 ピアノの加藤洋之(かとう・ひろし)にも惹かれた。明快で歯切れのいいリズムの持ち主で、ヴァイオリンと対等な関係を結んでいた。どんな経歴の人だろうとプロフィールを見ると、1990年ジュネーヴ国際音楽コンクール第3位入賞、その後ハンガリー国立リスト音楽院に留学、1996年からドイツのケルンでさらに研鑽を積んだ。キュッヒルとは1999年以来共演を重ね、2010年にはウィーンのムジークフェラインザールで3日間にわたるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会を開いたそうだ。

 実力派のピアニストだが、その実力が十分に発揮されたのが、次のベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」だ。ヴァイオリンとピアノが拮抗し、時にはピアノがスケールの大きな演奏でヴァイオリンを凌駕する。その二人のせめぎ合いは、ピアノ主導型のヴァイオリン・ソナタと、ヴァイオリン主導型のそれとの、新旧2つの潮流がぶつかり合い、波しぶきをあげる情景を見るようで、しかも全体は堂々たる構築感を備えていた。

 プログラム後半は、肩の凝らない作品が並んだ。まずリヒャルト・シュトラウス(プルジーホダ編曲)の「ばらの騎士」のワルツ。キュッヒルの弾く「ばらの騎士」!と期待したが、意外に低調だった。次にクライスラーの小品4曲。定番の「愛の喜び」と「愛の悲しみ」は、「‥悲しみ」のほうが味があった。その他に「ジプシー奇想曲」と「ウィーン風狂詩的小幻想曲」。その2曲は、後述するアンコールの2曲とともに、精彩に富んだ演奏だった。最後はサラサーテの「カルメン幻想曲」。

 アンコールはクライスラーの「ジプシーの女」と「クープランの様式による才たけた貴婦人」。どちらも初めて聴く曲だが、おもしろい曲だった。前述の「ジプシー奇想曲」と「ウィーン風‥」ともども、クライスラーには埋もれた曲が多く、それを発掘する楽しみが残っていることを思い知った。なお、これらのクライスラーの曲の演奏では、キュッヒルと加藤の息がぴったり合っていたことも特筆ものだ。
(2019.11.4.ミューザ川崎)
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ラザレフ/日本フィル(二日目)

2019年11月03日 | 音楽
 ラザレフ指揮日本フィルの定期の一日目を聴いた翌日、事情があって、急遽二日目も聴くことになり、慌てて出かけた。グラズノフの交響曲第6番は、とくに新たな発見はなく、率直にいうと、緊張感は一日目の方があったように思う。二日目は慣れが出たように感じた。

 一方、ストラヴィンスキーの「火の鳥」は、見違えるような出来だったというと、わたしを含めた一日目の聴衆に失礼なので、言い方を変えると、アンサンブルがさらに練り上げられていた。その緻密なアンサンブルは、絹のようなテクスチュアを織りあげ、わずかな緩みもなかった。

 イントロダクションのテンポが速く、わたしは一日目には音をつかみかねたので、二日目は心して聴いたが、そうすると、この部分は未分化の、どれがテーマに発展するか分からない、薄明の情景を描いているのだと納得した。数種類ある組曲版では、それがはっきり方向づけられ、また演奏する側も、その後の展開を承知しているので、テーマをはっきり浮き上がらせるが、ラザレフの演奏は異なるコンセプトに基づくので、わたしは一日目には戸惑ったのだと思う。

 トランペット3本とワーグナー・チューバ2本のバンダは、トランペットが舞台両サイドと舞台後方の奥に(RAブロックとLAブロックとPブロックの各々の後ろに)各1本、ワーグナー・チューバがRAブロックの後ろに2本配置され、それは一日目も楽しませてもらったが、二日目にワーグナー・チューバに注目して聴いていると、その出番が一瞬で、しかもそれが(特異な音響で)きわめて効果的なことに気付いた。せっかくのワーグナー・チューバが、出番が一瞬とは、ずいぶん贅沢だと感心した。

 魔王カスチェイの踊りが、どっしり腰を据えたテンポで、音が荒れずに演奏されたことは、一日目と同様、二日目も印象的だった。考えてみれば、バレエの音楽なので、このテンポでこの音が妥当だと納得した。また、カスチェイの死の場面でのバスドラムの強打も、一日目と同様、二日目も印象的だった。組曲版ではこの場面は省略されるが、この場面があってこそ、カスチェイの魔法が解けるフィナーレが生きると思った。

 思いがけず2度聴くことになったが、2度聴けば得るものが多かった。フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンなどのソロはもちろんだが、ヴィオラやチェロのソロも堪能した。二日目になると、その余裕が生まれた。ラザレフ/日本フィルの演奏史の中でも、プロコフィエフやショスタコーヴィチとはまた違った意味で、忘れがたい演奏になりそうだ。
(2019.11.2.サントリーホール)
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ラザレフ/日本フィル

2019年11月02日 | 音楽
 インキネンとの息が合ってきた日本フィルだが、ラザレフが振るとやっぱりラザレフの音がする。日本フィルの成長ないしは充実の証しだろうか。

 1曲目はグラズノフの交響曲第6番。いったい今、グラズノフの交響曲をレパートリーにしている指揮者が何人いるだろう。数曲のバレエとヴァイオリン協奏曲を除くと、グラズノフの作品が演奏される機会は少ない。ラザレフはそんな現状を憂いて、意識的にグラズノフの作品、とくに交響曲を演奏しているのではないか。そう思わせるような使命感(あるいはモチベーションの高さ)がその演奏にはあった。

 交響曲第6番といわれても、わたしにはどんな曲か、皆目見当がつかなかったので、事前にCDで予習した。だが、CDで聴いた演奏とラザレフが振った演奏とでは、まったく印象が違った。ラザレフが振ると、第1楽章はまるで嵐のような演奏だった。暴風が吹き荒れ、海は大荒れ。誰もその勢いを止めることはできない。一転して、変奏曲形式の第2楽章では、オーボエやクラリネットがしみじみとした歌を聴かせた。最終楽章(第4楽章)では、ラザレフはオーケストラを巻き込み、そして聴衆を巻き込んで高揚し、とどまるところを知らない。

 インキネンが振ると、日本フィルは軽く、クリアーな音を出すが、ラザレフが振ると、分厚くて重厚な音を出す。その抽斗の多さに、日本フィルが積み重ねてきたラザレフとの長い年月と、インキネンとの長い年月との双方を想った。

 もっとも、ラザレフの音は、分厚さ一辺倒ではない。その好例が昨年5月のストラヴィンスキーの「ペルセフォーヌ」だ。アンドレ・ジッドの台本をそのまま音にしたようなフランス的な香気の漂う音。柔らかく、デリケートで、産毛のような肌触りの音だった。ラザレフの大指揮者たる所以だ。

 2曲目はストラヴィンスキーの「火の鳥」全曲だったが、その音はグラズノフとも「ペルセフォーヌ」とも違い、鮮やかで、針金のように鋭く、スリムな音だった。ストラヴィンスキーのこの時期(初期の習作群から脱した直後)の音は、なるほど、こういう音だったかと思った。

 全曲版を聴くのは初めてではなかったが、全曲版では避けられない経過的な楽句が、これほどおもしろく聴けたことはない。たとえば頻出するホルンの楽句。日橋さんの安定感のある演奏と相俟って、どの楽句も意味のある(不思議な存在感のある)ものに聴こえた。それはラザレフが、このバレエを完全に掌握し、その隅々にまで「音楽」を感じているからに他ならないと思えた。
(2019.11.1.サントリーホール)
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