Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

練馬区立美術館「香月泰男展」

2022年02月26日 | 美術
 ロシアのウクライナ侵攻以来、落ち着かない。ロシアの戦車が首都キエフの近郊まで迫っている(特殊部隊はすでにキエフに入っている)。今後戦車がキエフ市内に展開すれば、1968年のプラハの春に介入したソ連を彷彿とさせる。ソ連は民主化が進む当時のチェコスロヴァキアを武力で弾圧した。NATOに接近するウクライナと似た構図だ。

 プーチンはウクライナ侵攻に当たってのテレビ演説で、長々とロシアとウクライナの歴史的な関係を述べた。その歴史観はきわめて偏ったものだという。偏った歴史観が現実的な脅威になる点が衝撃だ。日本でも偏った歴史観が蔓延している。他人ごとではない。

 そんな折なので、胸がざわざわしていたが、昨日は予定通り「香月泰男展」を見るために練馬区立美術館に行った。行ってよかった。家にいたら何も手に付かなかったろう。

 香月泰男(かづき・やすお)(1911‐74)はシベリア抑留体験を描いた「シベリア・シリーズ」で知られる。全57点。山口県立美術館の所蔵だ。本展ではそのすべてが展示されている(もっとも、一部の作品は、前期と後期で展示替えがあるが)。「シベリア・シリーズ」以外の作品もまじえて、制作順に展示されているので、香月泰男の作風の変遷を追うことができる。

 「シベリア・シリーズ」とは何か。香月泰男は戦争中に満州に配属され、そこで敗戦を迎えた。ソ連軍に武装解除され、シベリアに送られた。厳寒の地・シベリアで森林伐採に従事した。多くの仲間が亡くなる中で、香月は1947年に無事生還した。画家だった香月は、再び絵筆をとった。生還後10年くらいたったころ、香月の作風に変化が生じた。元々はモダニストとして造形的な画面構成をしていたが(それらの作品も本展に展示されている)、シベリア抑留体験の、香月の記憶に突き刺さっている事象を、直接ぶつけるような画面が生まれ始めた。同時に画面からは色彩が失われ、古民家の土壁のような黄土色と、墨のような黒色の画面になった。それが「シベリア・シリーズ」だ。

 上掲↑のチラシに掲載されている作品は「渚〈ナホトカ〉」だ。画像ではよくわからないが、上下の白っぽい部分にはさまれた黒い帯のような部分に、無数の顔が描かれている。1947年、やっと日本に帰れるようになった香月らは、帰国の前夜、ナホトカの浜辺で寝た。その想い出を描いた作品だ。香月は本作を描くうちに、「何だか日本の土を踏むことなくシベリアの土になった人達の顔、顔を描いているような気」がしたと書いている。本作はシベリアで亡くなった仲間たちへの追悼の作品なのだ。また本作は遺作でもある。香月が1974年、心筋梗塞で急逝したとき、アトリエには3点の作品が残されていた。その1点が本作だ。あとの2点は「日の出」と「月の出」。とくに「月の出」が美しい。
(2022.2.25.練馬区立美術館)
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METライブビューイング「エウリディーチェ」

2022年02月23日 | 音楽
 METライブビューイングでマシュー・オーコイン Matthew Aucoin(1990‐)という若い作曲家のオペラ「エウリディーチェ」をみた。オルフェオとエウリディーチェの神話をエウリディーチェの視点から読み解き、そこに現代の女性の生身の姿を投影した作品だ。

 エウリディーチェは海辺のリゾート地でオルフェオからプロポーズを受ける。エウリディーチェは一瞬ためらった後、プロポーズを受け入れる。幸せなエウリディーチェ。だが気になることがある。時々オルフェオがエウリディーチェの手の届かない何か別のことを考えている様子なのだ。オルフェオはじつは音楽のことを考えていた。そのときのオルフェオはカウンターテナーで表される。生身のオルフェオはバリトンだ。バリトンの声にカウンターテナーの声が重なる。エウリディーチェはソプラノだ。

 結婚パーティーに冥界の王・ハデスが金持ちの紳士に扮して現れる。言葉巧みにエウリディーチェを誘い、ペントハウスに連れていく。身の危険を感じたエウリディーチェは帰ろうとするが、ハデスはそれを許さず、エウリディーチェは地獄に落ちる。ハデスはワーグナーの「ニーベルンクの指輪」のミーメのようなキャラクターテノールの役だ。

 地獄に落ちたエウリディーチェは父に再会する。父はエウリディーチェの結婚の前に亡くなっていた。地獄でエウリディーチェの幸せを願っていた。そこにエウリディーチェが現れたのだ。再会を喜ぶ父と娘。エウリディーチェは父の愛を知る。父はオルフェオと同じくバリトンの役だ。

 オルフェオはエウリディーチェを追って地獄に降りる。エウリディーチェはオルフェオの愛と父の愛のあいだで揺れる。そこにハデスが一枚加わる。ハデスはエウリディーチェを自分のものにしようとする。そのエピソードは神話上でハデスがプロセルピナを掠奪して妻にしたことを連想させる。

 エウリディーチェはどうするか。詳細は控えるが、エウリディーチェもオルフェオも、そして父もハデスも、結局すべてを失う。各人各様の不完全さにより、愛は不成立に終わる。

 台本はサラ・ルール Sarah Ruhl(1974‐)が作成。2003年に書いた自身の戯曲を台本化した。オーコインの音楽はミニマル音楽的な部分もあり、また激しい打音が打ち込まれる部分もあり、その他多彩で刻々と変化する。記憶を消し去る直前の父が家への道順を語る場面では、語りになる。それが効果的だ。演出はメアリー・ジマーマン Mary Zimmerman。舞台上の動きが弛緩せずに滑らかだ。エウリディーチェを歌ったのはエリン・モーリー Erin Morley。高音の伸びと表現力がある。その他の歌手もすばらしい。指揮はヤニク・ネゼ=セガン。
(2022.2.22.109シネマズ二子玉川)
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル

2022年02月20日 | 音楽
 藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。前日に予期せぬ出来事が起きた。定期演奏会のメイン・プログラムはヴォーン・ウィリアムズの交響曲第3番「田園交響曲」だが、その曲には第4楽章(最終楽章)の冒頭と末尾にソプラノのヴォカリーズが入る。ソプラノ独唱は半田美和子の予定だった。ところが前日のリハーサル後、急性胃腸炎を起こし、歌えなくなった。急遽、代わりの歌手を探したところ、小林沙羅のスケジュールが空いていることがわかり、夜9時半にオファー。小林沙羅はその曲を知らなかったので、練習ピアニストに連絡し、夜10時から譜読み。そして翌日はゲネプロ~本番。

 そのような事情なので、当然聴衆は(そしてオーケストラの楽員も)第4楽章の冒頭の小林沙羅の第一声を見守った。真っ白いドレスを身にまとった小林沙羅から美しい声が流れだし、感情をこめた旋律線が描かれる。わたしは思わず胸が熱くなった。

 急場を救った小林沙羅はもちろんだが、オーケストラ、指揮者ともども、これは名演だった。同じような楽想が全4楽章を通じて続く曲だが、その中での微妙な変化、ニュアンスの移ろい、思いがけず顔を覗かせる心の傷口など、細部にわたって明確な意思をもつ演奏が展開した。全楽員がこの曲を理解している演奏だった。藤岡幸夫はプレトークで「絶対に眠らせません。人によっては、気持ちがよかったら眠ってください、という人もいるようだけれど、僕はちがう」といっていた。その通りの演奏が実現した。

 この曲は意外に各パートのソロが多い。有名なところでは、第2楽章の冒頭と末尾のホルン・ソロと、中間部のトランペット・ソロがある。ホルンの谷あかねとトランペットの松木亜希が安定した演奏を聴かせた。同時に末尾のホルン・ソロにオブリガートをつけるクラリネットは、山口真由が味わい深い演奏を聴かせた。第1楽章ではヴィオラの首席にゲストで入った百武由紀が艶やかな音色を聴かせた。

 この曲の前には吉松隆のチェロ協奏曲「ケンタウルス・ユニット」が演奏された。チェロ独奏は宮田大。吉松隆の作品にしては鋭角的なリズムと不協和音の軋みが入る曲だが、宮田大はそのような要素を気迫たっぷりに演奏した。

 アンコールに宮沢賢治の「星めぐりの歌」が演奏された。バッハの無伴奏チェロ組曲の一節を取り入れた宮田大の編曲だ。分断された社会だが、分断された人々も、音楽の力で(たとえ一時といえども)ひとつになれる……そんな気持ちになる演奏だった。

 プログラムの最初にはディーリアス(フェンビー編)の「2つの水彩画」が演奏された。ムードに流されずに、しっかり譜読みをした演奏だった。
(2022.2.19.東京オペラシティ)
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樋田毅「最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム」

2022年02月17日 | 読書
 樋田毅(ひだ・つよし)氏の「彼は早稲田で死んだ」(2021年、文藝春秋社)を読み、ブログを書いた。同書は1972年に早稲田大学で起きた革マル派による(当時第一文学部2年生だった)川口大三郎君のリンチ殺人事件をめぐる回想録だ。わたしもその渦中にいたので、自分史の一端を読む思いがした。著者に興味をもったので、次に「記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実」(2018年、岩波書店)を読み、その感想もブログに書いた。

 樋田氏の著作にはそれら2冊のあいだに「最後の社主 朝日新聞が秘封した「御影の令嬢」へのレクイエム」(2020年、講談社)がある。朝日新聞社の最後の社主となった村山美知子氏(1920‐2020)(以下「美知子氏」)の評伝だ。さすがにこれは縁のない世界だと思ったが、朝日新聞社の記者として過ごした樋田氏の職場人生を知りたくて、それも読んでみた。

 樋田氏は一貫して社会部の事件記者として過ごしたが、青天の霹靂というか、2007年4月に大阪本社秘書課に異動になった。仕事は神戸市在住の朝日新聞社の社主・美知子氏のお世話だ。事前に大阪本社代表が樋田氏を美知子氏のもとに連れて行った。代表は樋田氏をこう紹介した。「樋田君は社会部の事件記者が長かったので、不調法なところは多々ありますが、いいやつなのでよろしくお願いします」と。

 美知子氏は朝日新聞社の創業者・村山龍平(1850‐1933)の孫だ。村山家の当主で、朝日新聞社の最大株主だ。朝日新聞社は社長以下、腫れ物にさわるように美知子氏に接していた。樋田氏は畑違いの仕事に戸惑うことが多かった。だが、次第に美知子氏の人柄に惹かれていった。というよりもむしろ、社主としての務めを果たそうとする美知子氏に共感していった。

 樋田氏の共感は、経営側の最晩年の美知子氏にたいする対応とぶつかった。経営側は長年の村山家(朝日新聞社のオーナー)との対立に終止符を打つべく、高齢になって衰えた美知子氏に攻勢をかけた。樋田氏はその強引なやり方に憤った。自分の良心と経営側の方針とのギャップに苦しんだ。経営側はそんな樋田氏が邪魔になり、樋田氏を潰した。

 美知子氏は経営側に敗北した。本書は美知子氏の敗北の物語だ。同時に樋田氏の敗北の物語でもある。わたしも長い職場人生を送ったので、思い当たるふしがある。たとえば、小さなことだが、朝日新聞社の元社長の秋山耿太郎氏らが村山家の墓石を買おうとする。秋山氏は美知子氏が入院する病室を訪ね、「社主、お墓も造っちゃいましょうね」という。美知子氏は同意しなかったが、秋山氏は了解を取ったとして強引に進める。わたしの職場でも同様のやり方が横行した。わたしも何度煮え湯を飲まされたことか。その都度憤ったが、後の祭りだった。
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樋田毅「記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実」

2022年02月14日 | 読書
 先日、樋田毅氏の「彼は早稲田で死んだ」(2021年、文藝春秋社)を読み、ブログを書いた。1972年11月に早稲田大学第一文学部2年生だった川口大三郎君が、キャンパス内で革マル派のリンチにより殺された事件の回想録だ。著者の樋田氏は当時1年生だった。樋田氏はその事件を契機に起きた革マル派を排斥する運動のリーダー格だった。わたしは川口君と同じ2年生だった。わたしはノンポリ学生だったが、川口君の事件は大学を揺るがす大事件だったので、激動の渦中にいた。いまからちょうど50年前になる。わたしの中では時間の厚い堆積に埋もれていたが、本書はその記憶を呼び覚ました。

 樋田氏はその後、第一文学部を卒業して大学院に進んだが、中退して朝日新聞社に就職した。新聞記者時代に担当したもっとも印象的な事件は「赤報隊事件」だったようだ。その取材記録を「記者襲撃」(2018年、岩波書店)にまとめている。

 赤報隊事件といっても、忘れていたり、知らなかったりする人もいるかもしれない。1987年5月3日の夜、朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市)に目出し帽をかぶった男が現れ、散弾銃で記者ひとりを射殺し、記者ひとりに重傷を負わせた事件だ。当時は社会を震撼させた。警察も懸命に捜査しただろう。朝日新聞社も取材班を編成して犯人を追った。樋田氏はその取材班に加わった。

 赤報隊を名乗るテロリスト(たち)は、阪神支局襲撃の前にも、同年1月24日に同社東京本社に散弾銃2発を撃ち込んでいた。また阪神支局襲撃後も、同社の社員寮などを襲い、挙句の果てはリクルートコスモス社を襲い、また愛知韓国人会館を襲った。それらすべての犯行は未解決のまま、2003年に公訴時効をむかえた。

 警察もそうだが、朝日新聞取材班も、右翼と、「大規模な合同結婚式などで世間を騒がせた教団」との2つのルートを追った。樋田氏は右翼と同教団のそれぞれの関係者に会い、質問を重ねた。時には朝日新聞への激しい憎悪を感じたり、殺意のようなものを感じたりすることもあったようだ。本書にもその一端が書かれている。

 犯人(グループ)からは合計6通の犯行声明文が送られた。本書にはそのすべてが収録されている。どの犯行声明文にも「反日」という言葉が使われている。樋田氏は書く、「「赤報隊」が犯行声明文で頻繁に用いた「反日」という言葉は事件当時、耳慣れない言葉だった。だが、現在はネット上で在日韓国人らを罵倒する用語として飛び交い、ヘイトスピーチ・デモで使われる「スローガン」にもなっている。」と。

 わたしも考えてみた。もし阪神支局襲撃事件がいま起きたら、社会はどう反応するだろう。ネット上にはどんな言葉があふれるだろう、と。
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新国立劇場「愛の妙薬」

2022年02月10日 | 音楽
 新国立劇場の「愛の妙薬」はキャストが一変した。外国勢が来日できないため、ひとりを除いて全員日本人歌手になった。その顔ぶれを見て観たくなり、チケットを買った。

 アディーナ役の砂川涼子は、いかにもこの役にふさわしい歌唱と演技だった。個人的な思い出話になって恐縮だが、わたしは2001年2月に宮古島に旅行に行ったとき、地元紙にその日の夜の音楽会の告知が載っていたので、出かけてみた。砂川涼子という若い人のソプラノ・リサイタルだった。イタリア留学が決まったそうで、会場は熱気に包まれていた。リートも歌われたが、オペラの抜粋がよかった。終演後、ロビーで友人たちと談笑している若者らしい姿が好ましかった。

 砂川涼子のその後の活躍はいうまでもないが、おかしなもので、わたしはそれが自分のことのように嬉しかった。今回の「愛の妙薬」では、以前にくらべて声が細くなり、伸びがなくなったように感じるが、その代わり正確な音程とリズム、メリハリのある歌唱、明快なイタリア語の発音などに磨きがかかっていると思った。

 その他の歌手では、ベルコーレ役の大西宇宙が立派な声だ。今後のますますの活躍が期待される。ネモリーノ役の中井亮一はイタリア・オペラにふさわしい甘い声だ。有望株だと思うが、どうしたわけか、幕開きからしばらくは音程が不安定だった。ドゥルカマーラ役の久保田真澄とジャンネッタ役の九嶋香奈枝は安定感があった。

 ガエタノ・デスピノーサの指揮は、このオペラに残っているロッシーニからの影響を感じさせる部分でとくに生きが良く、それが全体を精彩あるものにした。ただ、何が起きたのか、第2幕の幕開けの合唱がデスピノーサのテンポの速さについていけなかった。それはあったにせよ、全体的には(オーケストラ、声楽ともに)活気ある演奏を導いた。公演成功の最大の貢献者はデスピノーサだったと思う。

 チェーザレ・リエヴィのこの演出は、わたしは3度目だ(2010年と2013年に観た)。アルファベットの文字がアットランダムに並ぶカラフルな緞帳が懐かしかった。あれはたぶん、字を読めないネモリーノが、本を開いたときに、本はあのように見えるというイメージではないか。まったく意味をなさない、当惑するような感覚のイメージでは……。

 例の「人知れぬ涙」では天井から紙が何枚も舞い降りるが、あれはたぶん、頑なだったアディーナの心が、本を一頁、一頁めくるように(当演出では「本」がキーワードだ。「本」はアディーナを象徴する。本が解体するように)ネモリーノにたいして開いていくイメージではないだろうか。
(2022.2.9.新国立劇場)
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下野竜也/N響

2022年02月07日 | 音楽
 下野竜也指揮N響のオール・シューマン・プログラム。1曲目は「序曲、スケルツォとフィナーレ」から「序曲」。張りのある音と歯切れのよいリズム。シューマンらしい情緒にも不足しない。山/谷のメリハリが明快な演奏だ。変な言い方になるが、序曲だけ取り出すと、なるほど、これはいかにも序曲だと思った。演奏会の序曲にふさわしい。

 2曲目はピアノ協奏曲。ピアノ独奏は小林愛実。穏やかで(少なくとも第1楽章と第2楽章は)淡々とした演奏。テンポは遅めだ(これも第1楽章と第2楽章)。第3楽章ではそれまで抑えていた情熱を解放する感があったが、それでもスター然とした演奏ではない点が小林愛実だ。わたしはその個性を好ましいと思うが、ショパンはともかく(これについては後述)、シューマンではもうひとつ何かがほしい。

 アンコールにショパンのワルツ変イ長調作品42が演奏された。これはよかった。ショパンの甘さ、華やかさが、小林愛実の内省的な演奏で中和され、ほどよい香りが立ち昇るような感があった。

 3曲目は交響曲第2番。1曲目の「序曲」と同様に弦は14型、管は2管編成だが(ただし交響曲第2番ではトロンボーン3本が加わる)、オーケストラの鳴り方がちがう。交響曲第2番ではたっぷりと鳴る。音符の数が(音の密度が)交響曲第2番のほうが多い(密度が濃い)ということもあろうが、それだけではなく、演奏上のちがいもあるだろう。

 第2楽章スケルツォの精力的な演奏、第3楽章アダージョの弦の厚み(底光りのするような音色)、第4楽章のシンフォニックな演奏など、堂々たる演奏だった。壮年期の、気力体力ともに充実し、また経験も積んだ指揮者と、一流オーケストラとの、その両者がよくかみ合った演奏だ。

 プロフィールによると、下野竜也は1969年生まれ。若手だと思っていたが、もう50歳代だ。先日(1月20日)の読響とのブルックナーの交響曲第5番でも感じたことだが、オーケストラを鳴らすのがますますうまくなった。よく鳴るというだけではなく、肩の力を抜いて、力まずに鳴らすことができる。一皮むけたのかもしれない。

 当公演は本来ならパーヴォ・ヤルヴィが振るはずだった。首席指揮者としての最後の定期演奏会だったが、残念ながら来日は叶わなかった。パーヴォ・ヤルヴィへのインタビューがプログラムに載っている(N響のホームページでも読める)。「実をいうとコンサートをもっと世界に向けて配信してはどうかとプランニングした」とのこと。実現していたら、N響は世界のメジャーオーケストラの仲間入りを果たしたかもしれない。見果てぬ夢か。
(2022.2.6.東京芸術劇場)
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METライブビューイング「Fire Shut Up in My Bones」

2022年02月03日 | 音楽
 METライブビューイングでテレンス・ブランチャードTerence Blanchard(1962‐)というジャズ・トランペット奏者で映画音楽の作曲家でもある人のオペラ「Fire Shut Up in My Bones」を観た。ブランチャードは黒人だ。メトロポリタン歌劇場が黒人作曲家のオペラを上演するのはこれが初めてだという。

 アメリカ最南部の貧しい地域で生まれたチャールズは、子どものころ従兄から性的虐待を受けた。それがトラウマになっている。成長して大学に入り、恋をする。恋人にその体験を打ち明けると、恋人もじつは他に彼氏がいることを打ち明ける。絶望したチャールズは故郷の母に会いたくなり、母に電話すると、母は「今ちょうど従兄も来ている」と告げる。チャールズは電話口に出た従兄の声を聞いて、長年の怒りを爆発させる。銃をとり、従兄に復讐するために故郷に向かう……。

 METライブビューイング恒例の幕間のインタビューで、だれかが(だれだったか忘れたが)「これはヴェリズモ・オペラだ」といっていた。たしかに現代アメリカのヴェリズモ・オペラという感がある。わたしは何度か涙した。

 ブランチャードの音楽は、甘い抒情と鋭角的なリズムがあり、それにくわえてゴスペルの要素とジャズの要素がある。一言でいうと多様式だが、多様式というとシュニトケ(1934‐98)の音楽を連想させるので、誤解を避けるためには、(肯定的な意味での)「なんでもあり」の音楽といったほうがいいかもしれない。

 たとえば第2幕から第3幕への間奏曲は、ギター、ピアノ、ベース、ドラムのジャズ・コンボの演奏だった。それが精彩を放っていた。第3幕冒頭の男子学生社交クラブ(ジェンダー的な視点からは問題がありそうだ)の場面では、床を踏み鳴らすド迫力のダンスが繰り広げられた。また、どこだったか、トランペット・ソロの優しい旋律が聴こえた。それはジャズ・トランペット奏者でもあるブランチャードのトレード・マークのように聴こえた。5人の息子(チャールズはその末っ子だ)を女手一つで育てる母が、5人の息子の座る食卓で唱える食前の祈りはゴスペル風だった。

 そのような多様な音楽は、ブランチャードの個人様式というよりも、長い間分かれていたクラシック音楽と大衆音楽が、融合の過程に入ったことを示す一例のように思われた。

 チャールズを歌うウィル・リバーマンが渾身の歌唱だった。母のラトニア・ムーアが存在感豊かに舞台を支えた。運命/孤独/グレタの3役をこなすエンジェル・ブルーの歌唱も美しかった。指揮のヤニク・ネゼ=セガンも乗っていたようだ。
(2022.2.2.109シネマズ二子玉川)
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樋田毅「彼は早稲田で死んだ」

2022年02月01日 | 読書
 樋田毅(ひだ・つよし)氏の「彼は早稲田で死んだ」を読んだ。1972年11月8日に早稲田大学第一文学部2年生だった川口大三郎君(後述するが、わたしは川口君と同学年だ)がキャンパス内で革マル派のリンチにより殺された事件と、その事件を契機に起きた自治会執行部から革マル派を排除して新たな執行部を作ろうとした運動の回想録だ。

 著者の樋田氏は当時同学部の1年生で、その運動のリーダー格だった。わたしは2年生で、クラスはちがうが、川口君と同学年だった。わたしは運動に積極的に関わったわけではないが(そのことにたいする後ろめたさがある)、学部を揺るがす大事件だったので、激動の渦中にいた。樋田氏は本書の中で、当時のご自身を、長髪で髭をはやしていたと書かれているので、「あの人かな」とおぼろげながら思い出す。

 本書は7章で構成されている。そのうちの第1章から第4章までは上記の事件と運動を描いている。生々しいルポルタージュだ。当時の記憶がよみがえる。とても当時から50年近くたったとは思えない克明な筆致だ。膨大な資料にもとづく記述であることは容易に想像がつくが、それ以上にリーダー格として運動の中心にいた樋田氏の脳裏には、当時の出来事が深く刻みこまれているのだろう。

 わたしはその運動の中にはいなかった。運動から距離を置くノンポリ学生のひとりだった。とくに運動が文学部キャンパスでは困難になり、本部キャンパスに移ってからは、集会にも出なくなった。本書はそんな当時のわたしを告発する。

 第5章では川口君の事件から離れる。第6章と第7章で川口君の事件に戻り、50年近くたったいま、樋田氏が当時の革マル派の活動家たちに会い、「なぜあのようなことをしたのか」、「当時なにを考えていたのか」、「いまはどう思うか」と問う。事件当時第一文学部自治会委員長だった田中敏夫氏はすでに亡くなっていた。未亡人の話によると、同氏は事件のことを語りたがらず、郷里でひっそり暮らしたようだ。

 当時書記長でリンチ殺人事件の実行犯のひとりだったSさんは、2度のインタビューに応じたが、最終的にはインタビューの公表を拒んだ。「川口君のご遺族や関係者の気持ちを思うと、加害者である自分の発言を表に出すべきではない」という趣旨の丁寧な手紙が樋田氏に届いたそうだ。

 一方、当時副委員長で、その後大学教授、思想家、環境運動家として活動する大岩圭之助氏(ペンネーム「辻信一」氏)は、樋田氏との対談に応じ、「理屈で説明したら噓になる。責任を取れるようなものではない」という趣旨の発言をした。あるところから先は考えない割り切った発言のように思う。田中敏夫氏やSさんに窺える心情とは対照的だ。
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