Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ブロムシュテット/N響&小林研一郎/日本フィル

2013年09月30日 | 音楽
 土曜日は演奏会の連荘だった。まず3時からNHKホールでN響の定期。ブロムシュテットの指揮でブラームスのヴァイオリン協奏曲と交響曲第4番。今のN響はブロムシュテットのときが一番緊張感のある音が出ると思っているので、これは期待の演奏会だった。

 でも、こちらの期待値が高すぎたのだろう、満足感に欠ける演奏だった。なぜかというと、期待したような緊張感のある音ではなかったからだ。たとえば前回(?)来日したときのマーラーの交響曲第9番のような緊張しきった音ではなかった。

 これは今回の最終公演だからだろうか、と思った。A、B、Cすべての定期を振り、ブラームス・チクルスをこれで終える、その安堵感というか、一種の解放感があったからではないか、と思った。そのいい面もあったかもしれないが、わたしの期待とはすれ違っていた。

 ヴァイオリン独奏はフランク・ぺーター・ツィンマーマン。今まで何度も感心したことのあるヴァイオリン奏者だが、今回は第1楽章と第2楽章で少し慎重すぎる気がした。見事なまでに正確な演奏なのだが、そこから先に出てこないもどかしさがあった。これはオーケストラも同じだった。第3楽章になって、オーケストラともども、温まってきたが、前2楽章の印象を帳消しにするには至らなかった。

 アンコールとしてバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番のプレリュードが演奏された。これは文句なしの演奏だった。あのNHKホールの巨大な空間がヴァイオリン一本の音で満たされる、その驚きは格別だった。

 演奏会終了後、横浜みなとみらいホールへ移動した。日本フィルの横浜定期。ほんとうはこういうことはしたくないのだが、両方とも定期会員なので、仕方がない。こちらのほうは小林研一郎(以下、親しみをこめて、コバケンさんと呼ばせてもらう)の指揮でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番と交響曲第4番。

 いつもにくらべて入念な音づくりが特徴的な演奏だった。過剰な思い入れやデフォルメが消え、客観性を維持しようとする演奏だった。これが今のコバケンさんのスタイルとは即断できないが、わたしは好ましく感じた。

 ピアノ独奏は清水和音。コバケンさんと同様、入念な音づくりだった。やはりこの人はたいへんなテクニシャンなのだと思った。アンコールにプロコフィエフの「三つのオレンジへの恋」の行進曲。
(2013.9.28.NHKホール&みなとみらいホール)
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カエターニ/都響

2013年09月26日 | 音楽
 オレグ・カエターニOleg CAETANI指揮の都響。カエターニは2009年10月にも都響を振ったそうだが、そのときは聴いていないので、今回が初めて。イーゴリ・マルケヴィチの息子。親の七光りを嫌ってか、マルケヴィチ姓を避けていると、どこかで読んだ記憶がある。たしかな話かどうか。でも、あのマルケヴィチを親にもったら、素直に育つのは難しい――多少ひねくれるのは仕方がない――という気がする。

 ちょっと脱線するが、マルケヴィチは今まで聴いた指揮者のなかで、もっとも強烈な印象を受けた指揮者の一人だ。オーケストラだけでなく、聴衆までも威圧する並外れた存在感があった。その息子のカエターニは、風貌こそマルケヴィチに似ているが、威圧感はあまりなかった。けれども指揮者としての力量は相当なものだ。巨匠の域に達していると思った。

 1曲目は芥川也寸志の「コンチェルト・オスティナート」。この曲を聴くのは初めてだ。こういう曲があるのかと思った。芥川也寸志の、いつもの明るく洒脱なイメージとはちがって、――とくに前半は――多少晦渋な、自己の内部に沈潜した音楽だ。その部分は面白かったが、後半の急‐緩‐急の「急」の部分が、正直にいって、作曲年代の1969年を反映して、昭和だなぁと感じてしまった。

 チェロ独奏は都響首席奏者の古川展生。伸びやかな音楽性が感じられ、好演だった。聴いていて心地よかった。オーケストラも明るく好演だった。チェロ独奏にもオーケストラにも一種の余裕が感じられた。余裕をもってこの曲のよさを表現していた。

 2曲目はショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。この曲は第12番と並んで、苦手というか、よくわからないところがあるのだが、そういうことを忘れて、なるほどこれはよくできた曲だ、と思える演奏だった。どこかの部分を強調することなく、すべてがバランスよく表現され、結果、堂々たる全体像が現れてくる、そんな演奏だった。凄まじい音の炸裂もあるが、けっして絶叫調にならず、常にコントロールされていた。

 都響の演奏力の向上もあるが、カエターニの力量もあった。この曲は若手の指揮者では手におえないのではないか、カエターニくらいのヴェテランにならないと、その本来の姿を表現することは難しいのではないか、と思った。

 ともかくこの曲の演奏として、これはひじょうに納得のいく演奏だった。
(2013.9.25.サントリーホール)
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北八ヶ岳

2013年09月25日 | 身辺雑記
 北八ヶ岳に行ってきました。同行者2名。そのうちの一人の都合で23日出発、24日帰京の日程になりました。三連休の最終日に入山するという、贅沢な日程です。

 JR中央線の茅野駅からバスに乗って渋の湯へ。山奥の秘湯です。以前は旅館が2軒ありましたが、一昨年だったか、1軒は廃業しました。不思議なことに泉質がちがい、わたしは廃業したほうの泉質が好きでした。まあ、仕方がありません。

 渋の湯から歩き出して、賽の河原を登って高見石へ。高見石はゴロゴロした巨岩が積み重なったところです。そこからは北八ヶ岳が一望できます。好きな場所なので、何度も来ています。もっともこの日はガス(雲)が流れていて、なにも見えませんでした。

 でも、じっとそこにいると、ガスが途切れて、眼下に原生林が見えてきました。やがて白駒池が見え始めました。原生林のなかの眼――青い大きな瞳――のようです(上の写真↑はそのとき携帯で撮ったものです。)。同行者2人は大喜び。その後もガスが出て隠れたり、また現れたりの繰り返しで、飽きませんでした。気が付くと、約1時間もそこにいました。なにもせずに、自然のなかでじっと過ごす1時間。至福の時でした。

 山小屋――高見石小屋といいます――で一泊しました。同宿者が3名いて合計6名。一つのテーブルで夕食をとりました。こんなときなにかの話題で盛り上がることもありますが、この日はひっそりしていました。こういうのも好きです。みんな自分のペースで食事をしたり、ビールを飲んだり、別に気まずい思いをするわけではなく、自分に浸る自由がある、といったらいいか――。

 夕食後、外に出たら、雲が切れて、満天の星でした。帯状のものは雲かと思ったら、天の川でした。月はまだ出ていないので、星がよく見えるのだそうです。連れの一人が歯を磨こうとしたら、だれかが手元をライトで照らしてくれました。みなさん親切です。

 翌朝は丸山を経由して麦草峠にむかいました。一面の苔。無数の倒木が横たわり、そこに深々と苔がついています。京都に苔寺がありますが、それが山全体のスケールで展開されているような風景です。倒木の上には若芽が出て、生命の営みが感じられます。

 麦草峠に着いたころには、青空が広がっていました。五辻を通って北八ヶ岳ロープウェイにむかいました。ナナカマドの実が赤くなっています。紅葉はもうすぐ。苔についた露がクリスタルガラスのように輝いていました。
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OPUS/作品

2013年09月20日 | 演劇
 新国立劇場の演劇「OPUS/作品」。ある弦楽四重奏団の話。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131が使われているというので、興味を惹かれた。この曲は本年7月に公開された映画「25年目の弦楽四重奏」(今でも各地で上映中だ。)でも使われている。ともに最近のアメリカ作品。同じ曲が使われていることは、偶然だろうか。それともなにか関連があるのだろうか。

 もっとも、映画と演劇では、使い方にちがいがあった。映画ではこの曲が終始流れ、いわば影の主役のような存在だった。他のどの曲でもなく、この曲でなければ、この映画は成り立たないくらいの重みがあった。一方、演劇では断片的に使われているにすぎなかった。他の曲でも取り換え可能だと思われた。

 ともに弦楽四重奏団の人間関係を描いた作品だが、映画のほうはベートーヴェンのこの曲へのオマージュの性格があるのにたいして、演劇のほうは純粋にエンタテインメントに徹した作品だった。

 そう割り切ってしまえば、これは面白い作品だった。弦楽四重奏団の4人および首になったヴィオラ奏者1人の人間模様というか、それぞれの人生が、重層的に浮かび上がってくる面白さがあった。フラッシュバック的に過去の出来事が積み重なり、次第に全体像が形成される作りだった。

 大詰めで、ある出来事が起きる――それは弦楽四重奏団でなくとも、会社の取締役会とか、もっと身近な例では、町内会やPTAでも起こり得る出来事だ――。その出来事が起きたときの各人各様の反応。今、思い返すと、だれに共感するかによって、観る人それぞれの人生観が表れるような気がする――ちなみにわたしの場合は、第1ヴァイオリン奏者だった――。

 その大詰めの過程でハプニングが起きる。それにはひっかかった。いくら激情に駆られたからといって、演奏家たるもの、ほんとうにそんなことをするだろうか、と。昔、夫婦喧嘩をすると、お茶碗を投げたり、庭に叩きつけたりした。でも、そんなときでも、高級なお茶碗は避けていた――。

 第1ヴァイオリン奏者(段田安則)と首になったヴィオラ奏者(加藤虎之介)はゲイの関係。でも、うまくいかなくなる。そのときの焦燥感がよく出ていた。第2ヴァイオリン奏者(相馬一之)は女好き。だが、その感じは今一つだった。

 演出は小川絵梨子。まだ30代の若い演出家。これを縁に気にかけていたい。
(2013.9.19.新国立劇場小劇場)
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ワルキューレ

2013年09月15日 | 音楽
 神奈川県民ホールの「ワルキューレ」。あちこちで第1幕だけ演奏されているなかで、本来のオペラ公演はそれだけで新鮮味がある。ほんとうは新国立劇場に新制作の一つでも出してもらいたいところだが、さっさと不戦敗を決め込んだのは情けない。

 第1幕、ジークリンデの大村博美に期待したが、かなり緊張していたのではないか。席は1階前方だったが、声が届いてこなかった。音楽の表情が硬く、こなれなかった。もっとも、緊張していたのは大村博美だけではなかったようだ。とくにオーケストラ。いつまでたっても、取り澄ました、他所いきの演奏だった。フンディングの斉木健詞に注目した。クールな悪役、ハーゲンのようだった。

 第2幕はフリッカの小山由美が支えていた。ヴォータンをはじめ、すべてを威圧するフリッカ。大村博美もだいぶ調子が出てきた。もちろん、ジークムントの福井敬は、第1幕から本調子だったのだろう――と、念のため、補足するが、正直なところ、最近の福井敬、とくにそのドイツ・オペラには、なにか癖を感じる――。

 第3幕になってやっとオペラ的な舞台になった。冒頭のワルキューレの騎行は大健闘。続くブリュンヒルデの横山恵子はパワーがあり、またヴォータンの青山貢もすばらしい美声だった。大村博美もエンジン全開、ワーグナー歌手としても大器であることを示した。オーケストラも美しかった。

 でも、オーケストラについては、第1幕で感じたことが払拭できなかった。それは、新日本フィルの記者会見でメッツマッハ―がいった「日本人は西洋音楽をリスペクトしすぎる」という発言だ(なおハーディングも同様の発言をした)。二人がいっていることは当たっている――本質を突いている――という思いが頭から離れなかった。これはオーケストラ(神奈川フィルと日本センチュリー響の合同演奏)の問題なのか、当日の指揮者沼尻竜典の問題でもあるのか。

 演出はジョエル・ローウェルス。リヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」がものすごく面白かったので、期待して出かけた。第1幕と第2幕は比較的おとなしく、今回はこんなものかと思ったら、魔の炎の音楽で仕掛けがあった。フリッカの憎悪を一身に受けるブリュンヒルデ、他のワルキューレたちはフリッカの側につき、一人孤立するブリュンヒルデ――と見えた――。

 細かい点はいろいろある。でも、何もしない演出よりよっぽどいい。
(2013.9.14.神奈川県民ホール)
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ピロスマニ

2013年09月13日 | 映画
 シネマヴェーラ渋谷で開催中のロシア映画傑作選。そのチラシに「ピロスマニ」を見つけたときには、アッと思った。グルジアの画家ピロスマニの生涯を描いた映画があることは知っていたが、古い映画なので、観る機会はないものと思っていた。

 ピロスマニPirosmani(1862‐1918)、グルジアの首都トビリシで貧しい生涯を送った画家。素朴で温かみのある絵を描いた。芸術のためというよりも、日々の食事代と酒代のため。それらの絵は居酒屋の壁を飾った。また看板も描いた。一時期、トビリシの街にはピロスマニの絵が溢れたそうだ。

 日本には2008年の「青春のロシア・アヴァンギャルド展」でまとまった点数が来た。わたしはそれで注目した。ロシアの前衛画家マレーヴィチが目玉だったが、後々まで気になる画家はピロスマニだった。

 じつは以前からピロスマニのことは知っていた、絵で知るよりも先に歌で。加藤登紀子が歌った「100万本のバラ」はピロスマニがモデルだ。ある貧しい画家が旅回りの踊り子に恋をする。画家はありったけのお金でバラを買い集め、踊り子の泊まっているホテルの前に並べる。窓の外を見て驚く踊り子。木の陰からそっと見ている画家。踊り子は夜汽車で去っていく。画家は思う、バラのことはきっと覚えていてくれるはずだと。

 もっともこの話は、真偽のほどは定かではないらしい。多分に脚色が入っている伝説的なものらしい。そうかもしれないが、人々がピロスマニに投影したいロマンが反映されていることはたしかだ。

 映画「ピロスマニ」にはこの話は出てこなかった。その一事をとっても、この映画が商業主義的なものではなく、ピロスマニにたいする敬意に裏打ちされた誠実なものであることがうかがわれた。

 映画は淡々とピロスマニの生涯をたどる。多くの場面にピロスマニの絵が何気なく置かれ、またピロスマニの絵でお馴染みの情景が下敷きになっていることも多かった。1969年のカラー映画なので、さすがに少々古臭いが、その古臭い色がピロスマニの絵に相応しいといえなくもなかった。

 二本立ての上映だったので、もう一本「田園詩」も観た。グルジアの名匠イオセリアーニ監督の若いころの作品。さすがに技巧的で、みずみずしい感性に溢れている。これは傑作だと思った。1975年の作品だが白黒、その白黒の映像が、ため息が出るほど美しかった。
(2013.9.11.シネマヴェーラ渋谷)

↓ピロスマニの絵
http://www.pirosmani.org/marias/

↓「放浪の画家ニコ・ピロスマニ」
http://www.fuzambo-intl.com/index.php?main_page=product_info&cPath=11&products_id=146
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良い子にご褒美

2013年09月11日 | 音楽
 サントリー芸術財団サマーフェスティバル2013の最終公演「良い子にご褒美」。台本はトム・ストッパード、音楽はアンドレ・プレヴィン。

 冷戦下のソ連が舞台。政治犯アレクサンドルが精神病院に収容されている。体制に異を唱える男は精神病者というわけだ。精神病院には本物の患者も収容されている。イワーノフというその男は頭のなかにオーケストラがある。自分はそのトライアングル奏者だ。

 舞台はソ連だが、今の日本にも当てはまる話だと思った。わたしたちの周りでも、所属する組織(たとえば会社)あるいは実力者に異を唱えると、「変わった奴だ」とか「頭がおかしい」とかいわれたりしないだろうか。ひどい場合には「人格障害だ」とかなんとか――。残念ながらわたしの前職ではそういうことがあった。

 なので、今の日本のような感覚でこの芝居を観た。アフタートークでシリアやチェチェンの紛争のことが出たが、もっと身近な話のように感じた。

 最後の大佐による「解決」は、たしかにいろいろな解釈が可能だろう。アフタートークでは、大佐はわかった上で、あの解決をしたのであって、それはアレクサンドルの息子サーシャを悲しませないための配慮ではないか、という意見が出された。わたしはそうは思わなかった。大佐もまた狂っていて、偶然の結果、唯一正気な人間であるアレクサンドルが救われたのではないかと思った。

 多様な解釈の余地があるという点に面白さがあるわけだ。作者のトム・ストッパードとはどういう人かと思った。プロフィールによると、映画「恋におちたシェイクスピア」の脚本を書いた人だ。あっ、そうなのかと思った。その映画なら覚えている。才気煥発、ものすごく面白い映画だった。

 プレヴィンの音楽も面白かった。アフタートークでも触れられたが、明らかにショスタコーヴィチを意識している箇所や、プロコフィエフを意識している箇所があった。しかも全体としてはプレヴィンらしい明るさをもっていた。プレヴィンのなんともいえない‘艶’が、この音楽でも感じられた。

 演奏は飯森範親指揮の東京交響楽団。明るい音色で鮮やかな演奏だった。俳優は劇団昴の人たち。これもアフタートークで触れられていたが、残響の多いホールなので、苦労しているようだった。そのなかでは、医者を演じた人が一番聞き取りやすかった。翻訳・演出は村田元史。皆さんご苦労様でした。
(2013.9.10.サントリーホール)
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インキネン/日本フィル

2013年09月09日 | 音楽
 インキネン/日本フィルのワーグナー・プロ。1曲目は「ジークフリート牧歌」。オーケストラが出てきて驚いた。大編成の16型。室内オーケストラ編成だと思っていた。これほどの大編成で聴くのは久しぶりというか、ちょっと記憶がない。

 なので、懸念もあったが、出てきた音はまったく重くなかった。流れのよい、きめの細かい音、いつものインキネンの音だった。聴いていると、細かいテンポの変化があり、けっして平板ではない。それどころか、熱い感情の起伏があり、だんだん惹き込まれた。

 2曲目は楽劇「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死。オーケストラだけの演奏かと思っていたが、ソプラノのエディス・ハーラーも登場した。嬉しい驚きだった。前奏曲の冒頭のチェロのテーマが、これ以上ないというくらいの弱音で始まったとき、この演奏にかけた準備のほどが感じられた。

 前奏曲もそうだったが、愛の死も、暗い官能の高まりというよりは、淡い色彩の移ろいを感じさせる演奏だった。透明な光がオーケストラから漏れてくるような演奏だった。

 3曲目は楽劇「ワルキューレ」より第1幕。冒頭の嵐の場面で、踏み込みのよい、勢い込んだ演奏が始まったとき、これはいつもとちがうと思った。ジークムントのサイモン・オニールが登場して、第一声を発したときは衝撃を受けた。これはすごいと思った。続けてジークリンデのエディス・ハーラーが登場したときもそうだった。

 この2人は世界でもトップクラスだ。実はフンディングのマーティン・スネルをふくめて、バイロイトで聴いたことがあるのだが、日本のオーケストラに登場すると、あらためてそのすごさが際立った。

 もう一つ驚いたことは、日本フィルの変貌ぶりだった。普段はオペラを演奏していない日本フィルが、目覚ましいばかりに気合の入った、オペラ的な演奏を繰り広げた。3人の歌手が日本フィルの演奏家魂に火をつけたのだと思う。

 予想を超える演奏会だった。翌日土曜日は山に行くつもりだったが、急きょ変更して、もう一度聴きに出かけた。2日とも聴くと、オーケストラも歌手も、少しずつちがいがあって、それも面白かった。

 日本フィルは、どういうコネクションがあって、この3人(とくにオニールとハーラー)を連れてきたのだろう。メモリアル・イヤーのこの年、世界中で引っ張りだこだろうに、よく押さえたものだ。
(2013.9.6&7.サントリーホール)
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細川俊夫の管弦楽

2013年09月06日 | 音楽
 サントリーサマーフェスティバルの一環で細川俊夫の管弦楽演奏会。

 1曲目はフィリデイFilidei(1973‐)の「全ての愛の身振り」。独奏チェロを伴う作品。冒頭、オーケストラが最初の音を弱音で鳴らした瞬間、何人かの奏者がパサッと音を立てて譜面をめくった。ハッとした。譜面をめくる音は、以後、ところどころに出てきた。これも‘作曲’されているのだ。

 譜面をめくる音は一例にすぎず、他にもいろいろな‘音’が作曲されていた。たとえばトロンボーン奏者がマウスピースを軽く手で叩く音(トロンボーン奏者以外もやっていたかもしれない)。ともかく、絶えずさまざまな音がしていた。たとえていうと、夜、野原のなかで耳を澄ますと、さまざまな虫の声や風の音、草の音、遠くの物音などが聞こえて、静かではあるが、賑やかでもあるような印象だ。

 フィリデイという作曲家は初耳だった。これは大発見だと思った。わたしが今年聴いた初めての作曲家のなかで一番おもしろい作曲家だった。

 2曲目は細川俊夫の「松風のアリア」。オペラ「松風」はわたしも(休みが取れたので)ベルリンまで聴きに行った。でも、サシャ・ヴァルツの振付・演出が細川俊夫の音楽とは水と油で楽しめなかった。今回、なるほどこういう音楽だったのかと納得がいった。日常生活とはかけ離れたゆったりした時間の流れがあり、サシャ・ヴァルツはそれに耐えきれなかったのかもしれないが、それに耐えるところから雄弁さが始まる音楽だ。

 3曲目は細川俊夫のトランペット協奏曲「霧のなかで」。悠久の時間の流れはそのままに、音楽がますます雄弁かつ精緻になっていることを感じた。この曲ではトランペット奏者がマウスピースに口を当てたまま‘歌’を歌うという趣向があった(母音唱法)。これも音色の変化という点で面白かった。トランペット独奏はジェロエン・ベルヴェルツ。

 以上の指揮は準・メルクル。今まで聴いたなかで最高の細川音楽の解釈者ではないかと思った。日本人だと大人しくなりすぎ、また外国人だとゆったりした時間の流れを捉えきれない。

 4曲目はリゲティの「ミステリーズ・オブ・ザ・マカーブル」。ソプラノ独唱はバーバラ・ハンニガン(言い遅れたが、2曲目の「松風のアリア」も同様)。これはもうハンニガンの持ち歌のようなものだ。世界中で歌っているらしい。ついに東京にも登場したことを喜びたい。
(2013.9.5.サントリーホール)
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カンブルラン/読響

2013年09月04日 | 音楽
 カンブルラン指揮の読響の定期。1曲目はブリテンの「ラクリメ」。独奏ヴィオラと弦楽合奏のための曲だ。独奏ヴィオラは読響ソロ・ヴィオラ奏者の鈴木康浩。独奏ヴィオラと弦楽合奏が渾然一体となった演奏。演奏の隅々までカンブルランの意思が徹底されていた。その意思を実現する読響もさすがだ。

 2曲目は同じくブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」。いうまでもないが、今年はブリテンの生誕100年なので、1曲目ともどもそれを記念する選曲だ。演奏は今までのこの曲のイメージというか、この曲の演奏の想定レベルを超える演奏だった。細かなニュアンス、リズム処理そして音色の変化など、驚きに満ちていた。

 以上はブリテン生誕100年記念なのだが、事前に読響のホームページを見たら、カンブルランにはもう一つ別の意図があることを知った。カンブルランによると、1941年のこの日(9月3日)、アウシュヴィッツで初めての大量処刑がおこなわれたそうだ。この演奏会はその犠牲者に捧げられる側面もあった。

 そのことを知っていたためか、「シンフォニア・ダ・レクイエム」の第1楽章は、起きてはならないことが起こってしまった現実への慟哭のように聴こえた。また第3楽章はその犠牲者への祈りのように聴こえた。

 3曲目はウストヴォーリスカヤの「コンポジション第2番〈怒りの日〉」。わたしにもウストヴォーリスカヤを聴く日がついに訪れたと思った。初めてのウストヴォーリスカヤ体験が、こんなに優れた演奏であったことを感謝した。

 この日のために、可能な範囲で、ウストヴォーリスカヤのことを調べてみた。でも、本はおろか、インターネットでも入手できる情報はわずかだった。また、数枚のCDも聴いてみた。それらの結果、ウストヴォーリスカヤについて語られていることは、ひじょうに大雑把であることがわかった。今後の研究が俟たれる人だ。

 最後はストラヴィンスキーの「詩編交響曲」。合唱は新国立劇場合唱団。オーケストラも合唱も緊張していたと思う。どこかもう少し自由さがほしかった――と、素人の気楽な言い分で申し訳ないが――。でも、実に美しい演奏だった。それはまちがいない。オーケストラの特殊編成に由来する欠落感を感じなかった。

 この曲が最後に来る理由は、アウシュヴィッツの文脈で初めて十分に理解された。第3楽章はその犠牲者への鎮魂の祈りだった。
(2013.9.3.サントリーホール)
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ジャズ、エレキ、そして古稀

2013年09月04日 | 音楽
 サントリーのサマーフェスティバル。今年からプロデューサー制が導入され、初年度の今年は池辺晋一郎がその任に就いた。同氏は4つの演奏会をプロデュースするが、一昨日はその第一弾「ジャズ、エレキ、そして古稀」があった。

 1曲目はロルフ・リーバーマン(1910‐1999)の「ジャズバンドと管弦楽のための協奏曲」(1954)。どこかで名前だけは見たことのある曲。まさか生で聴く機会が訪れるとは思っていなかった。戦後、アメリカ文化が世界を席巻した時期に生まれた曲だ。正直にいって、今聴くと、少し古びた感じがするのではないかと思っていた。

 ところが、面白かった。古びた感じはしなかった。今でも、たとえば夏の野外演奏会などでは受けるのではないかと思った。オーケストラとビッグバンドが交互に演奏する合奏協奏曲のような作りだ。最後の「マンボ」では渾然一体となる。そのノリのよさはなかなかのものだ。

 指揮は杉山洋一。去年の同フェスティバルではフランコ・ドナトーニの快演を聴かせてくれた。また同年1月には都響の定期でブーレーズの、これまた目の覚めるような快演を聴かせてくれた。オーケストラは都響。ジャズバンドは角田健一ビッグバンド。

 2曲目は野平一郎の「エレクトリックギターと管弦楽のための協奏曲《炎の弦》」(1990/2002)。《炎の弦》という副題にカリカチュア的なものを感じたが、実際には生真面目な、《炎の弦》を地で行くものだった。もっとも、ガチャガチャとエレキギターをかき鳴らす部分よりも、電気的に音をデフォルメする部分のほうが、わたしには面白かった。エレキギター独奏は鈴木大介。

 最後は、池辺晋一郎の古稀を祝う、そして併せてストラヴィンスキーの「春の祭典」100年を祝う、7人の作曲家の新作が披露された(各人3分以内)。7人は小出雅子、西村朗、猿谷紀郎、権代敦彦、野平一郎、新実徳英、池辺晋一郎(ご本人も入っている。)。

 もちろんこれが一番面白かった。7人の競作という機会に臨むと、だれしもオチを付けたいと思うようだ。主に使われるオチは声。オーケストラに歌を歌わせたり、指揮者に掛け声を出させたり。なので、逆にオチを付けない曲のほうが新鮮に感じられた。

 「春の祭典」の引用そしてデフォルメがもっとも大胆なのは野平一郎の曲だった。わたし個人としては、権代敦彦の曲に一番惹かれた。
(2013.9.2.サントリーホール)
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