Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

原田慶太楼/東響

2024年03月31日 | 音楽
 原田慶太楼指揮東響の定期演奏会。1曲目は藤倉大の「Wavering World」。シアトル交響楽団からの依頼で「シベリウスの交響曲第7番と共演できる作品」(藤倉大自身のプログラムノート)として作曲された。透明感のある弦楽器の音が飛び交う曲だ。その音は銀色に輝くように感じられる。藤倉大の鮮度のよい音の典型だ。弦楽器の音が交錯する中で木管楽器がうごめき、金管楽器が咆哮する。シベリウス的だ。

 途中からティンパニの強打が始まる。それがずっと続く。ほとんどソロ楽器のようだ。本作品は天地創造のイメージから発しているらしいが(上記のプログアムノートより。ただし天地創造はキリスト教の創世記からではなく、フィンランド神話、日本神話などからインスピレーションを得た藤倉大独自のもの)、ティンパニ・ソロは天地創造の登場人物を表すというよりは、音楽的な必然性から生まれたと解したい。だがわたしにはそれがいまひとつ掴めなかった。

 だが(再度「だが」と言うが)2曲目のシベリウスの交響曲第7番になると、冒頭のティンパニの一撃が「Wavering World」のティンパニ・ソロにつながり、以降、曲全体にわたり、わたしはティンパニの動きに耳を傾けることになった。それは小さな体験かもしれないが、驚くべき体験でもあった。

 シベリウスの交響曲第7番の演奏は、目が覚めるようにダイナミックで、色彩感にあふれていた。わたしは渡邉暁雄さんの指揮でこの曲が刷り込まれているが、しっとりして、あまり山谷がない渡邉暁雄さんの演奏とは真逆の演奏だ。シベリウスの奥の院的な作品ではなく、旺盛な意欲があふれる作品に聴こえた。たしかに第7番はシベリウスの最後の交響曲になったが、シベリウスは第8番を作曲しようと四苦八苦していた。第7番でやめる気はさらさらなかった。

 以上の「Wavering World」からシベリウスの第7番への流れは、たいへん説得力があった。言い換えれば、「Wavering World」のおかげでシベリウスの第7番を新鮮に聴くことができた。原田慶太楼の弾むようなリズム感と躍動感も大きな役割を果たした。

 3曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。ピアノ独奏はオルガ・カーン。第1楽章はピアノとオーケストラの呼吸が合わなかった。第3楽章はテンポを大きく動かして、それは面白かったが、ピアノがバリバリ弾くところで音が濁った。アンコールにプロコフィエフの「4つの練習曲」から第4番が演奏された。大向こう受けする演奏だったが、雑だった。最後にオーケストラも入りラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の最後の部分がもう一度演奏された。オーケストラはこのときの方がのびのびしていた。
(2024.3.30.サントリーホール)
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かづゑ的

2024年03月29日 | 映画
 瀬戸内海の島にたつ国立ハンセン病療養所「長島愛生園」。宮崎かづゑさんは10歳のときに入所した。90歳を超えたいまもそこで暮らす。映画「かづゑ的」は宮崎かづゑさんの日常を追ったドキュメンタリー映画だ。

 冒頭、かづゑさんが電動カートに乗ってスーパーにむかう。顔見知りの店員さんに声をかける。陳列棚から果物や野菜を取り、かごに入れる。だがその動作が大変だ。かづゑさんには両手の指がない。指のない手で商品を取るのは難しい。両腕でかかえるようにして取る。レジに行く。店員さんが財布を開けてお金を出す。指がないと財布を開けることも、お金を出すこともできない。

 わたしは冒頭のその場面で「可哀想だな」と思ってしまった。そう思ったわたしのなんと浅はかだったことか。かづゑさんの明るく前向きな生き方が、以後、わたしの同情心を打ち砕く。同情したわたしは甘かった。

 かづゑさんの言葉の一つひとつがわたしを撃つ。たとえばチラシ(↑)に掲載された「できるんよ、やろうと思えば」もその一つだ。それだけではない。映画にはハッとするような言葉がちりばめられている。常人には想像もつかない(常人には耐えられそうもない)過酷な体験から生まれた言葉だ。その体験をくぐったかづゑさんが到達した言葉のなんと逞しいことか。

 かづゑさんは愛が強い。たとえばかづゑさんが亡母の墓を訪れる場面がある。かづゑさんは墓石を抱きかかえて、しきりに話しかける。秋のその日、風が冷たい。かづゑさんの体調を心配する夫の(やはりハンセン病回復者の)孝行さんが声をかける。でもかづゑさんは墓石をかかえて去ろうとしない。数年後、孝行さんも亡くなる。納骨堂を訪れたかづゑさんは孝行さんの骨壺をかかえて、いつまでも泣く。

 ハンセン病はらい菌による感染症だ。だれでも感染する可能性がある。たまたまかづゑさんが感染した。以来ハンセン病患者としての人生が始まる。かづゑさんの意識では、ハンセン病患者としての人生を引き受けた。その人生はかづゑさんにも地獄だった。自殺も考えた。でも地獄から抜け出した。どうして抜け出せたのかは「わからない」という。

 わたしは以前、北条民雄の「いのちの初夜」などの諸作品を読んだことがある。感銘を受けたが、一方で、それらの作品には、ハンセン病患者を悲劇的に描き過ぎて、社会の偏見を煽ったという批判があることも知った。わたしは当時その批判がわからなかった。でも「かづゑ的」を観たいま、その批判が少しわかる気がする。
(2024.3.14.ポレポレ東中野)
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ポリーニ追悼

2024年03月25日 | 音楽
 ポリーニが亡くなった。82歳だった。一時代を画したピアニストだった。多くの方がSNSで追悼の言葉をささげている。わたしはファンの多さに圧倒された。

 わたしが初めてポリーニを聴いたのは1974年の初来日のときだ。会場は東京厚生年金会館だった。プログラムの中にシューベルトの「さすらい人」幻想曲とショパンの「24の前奏曲」があった(その他にもう1曲あったような気がする)。「さすらい人」幻想曲の音のやわらかさと「24の前奏曲」の息をのむような完璧さに鮮烈な印象を受けた。もしも神様がわたしに「いままで聴いた演奏会の中でひとつだけもう一度経験させてやる」といったら、あの演奏会を選ぶかもしれない。

 わたしは当時大学生だった。ポリーニの名前を知ったのは、吉田秀和の著書でその名前を見かけたからだ。懐かしいので引用すると――

 「もうひとつ書き添えておきたいのはポリーニというピアニストのこと。これは先日ラジオできいた。たしか今年のザルツブルク音楽祭での録音だったと思うが、アバドの指揮するヴィーン・フィルハーモニーの演奏会のプログラムの中に、ポリーニの独奏でバルトークの第二番協奏曲があり、その放送をきいたのだが、これが凄かった。(以下略)」(吉田秀和「ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿」(新潮社、1972年)所収の「レコード・オペラ・オーケストラ」より)

 吉田秀和はそのように紹介した。でも1974年の初来日当時、ポリーニはまだ知る人ぞ知る存在だった。チケット代も安かったのだろう。大学生のわたしも聴きに行った。そして興奮したのだ。

 そのときのポリーニは天才肌の白面の青年といった感じだった。わたしはポリーニに夢中になり、ショパンの練習曲集やポロネーズ集などのレコードを買い求めた。数年後、ポリーニは再来日した。初来日のときとは打って変わって大評判になった。以後のことは、もういうまでもない。大スターになり、巨匠になった。だが、どういうわけか、わたしの関心は離れていった。もっとも、シェーンベルクのピアノ作品集など、レコード(後にCD)は少しずつ聴いていたが。

 長い年月がたち、2017年にザルツブルク音楽祭を訪れたとき、ポリーニの演奏会があった。開演時間が遅かったので、オペラが終わってから聴きに行った。プログラムはショパンのピアノ・ソナタ第3番とドビュッシーの前奏曲集第2巻だった。どちらも立派に構築され、音もみずみずしかった。わたしの懸念に反して、ポリーニは健在だと思った。わたしはなぜかホッとした。
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リープライヒ/日本フィル

2024年03月24日 | 音楽
 アレクサンダー・リープライヒが(コロナ禍での中断後)久しぶりに日本フィルに客演した。1曲目は三善晃の「魁響の譜」(かいきょうのふ)。1991年の作曲なので、脂が乗りきった時期の作品だ。4管編成が基本のオーケストラ編成だ。三善晃の作品の中では最大規模の編成ではないだろうか。

 冒頭の暗く混沌とした響きから、武満徹を思わせる甘美な音色があらわれ、アルバン・ベルクのような練れた音楽があらわれたかと思うと、疾駆する音楽があらわれる。広瀬大介氏のプログラムノートに引用された三善晃のインタビュー記事に「今回の作品(注:「魁響の譜」)において、私の語法の論理を使いきったと思います」(岡山シンフォニーホール友の会会報『フリューゲル』インタビュー記事、1991年)とある。たしかに当時の渾身の作品かもしれない。演奏は気合の入った力演だった。欲をいえば、最後の熱狂的な部分で音にもう一段のまとまりがあればと思った。

 2曲目はシマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番。ヴァイオリン独奏は辻彩奈(つじ・あやな)。辻彩奈の演奏は以前日本フィルでシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴き、また神奈川県民ホールでフィリップ・グラスの「浜辺のアインシュタイン」を聴いた。いずれも見事だったが、今回のシマノフスキはそれらを上回る感銘を受けた。

 シマノフスキのこの曲は交響曲第3番「夜の歌」と同時期の作品で、やがてオペラ「ロジェ王」に結実する恍惚とした響きの異教的な音楽だ。その音楽を辻彩奈は完璧に自分のものにして演奏した。音楽の中に入りこみ、辻彩奈の身体から音楽があふれ出るような演奏だった。わたしは完全に魅了された。

 リープライヒ指揮日本フィルは辻彩奈にぴったり付けた。弦楽器は12‐10‐8‐8‐6の編成だったが、管楽器は3管編成が基本で意外に大きい。その編成で近代フランス音楽のような透明感のある音響を作る。オーケストラが独奏ヴァイオリンにかぶらず、しかもしっかり支えていた。

 3曲目はシューマンの交響曲第3番「ライン」。無造作に鳴らされる音がなく、慎重に吟味された音が鳴る。言い換えれば、大味な演奏ではなく、濃やかに配慮された演奏だ。そこからシューマンの抒情が漂う。どこか霞のかかったような(シューマン独特の)音響が、シューマンのやわな感性を繭のようにくるむ演奏だ。信末碩才さん率いるホルン群が朗々と鳴った。なお個人的なことだが、わたしは1974年春季から日本フィルの定期会員になったので、丸50年たった。定期会員になって初めて聴いた演奏会もメインはシューマンのこの曲だった(指揮は山田一雄だった)。懐かしく想い出す。
(2024.3.23.サントリーホール)
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新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」

2024年03月21日 | 音楽
 新国立劇場の「トリスタンとイゾルデ」。当初予定されたトリスタン役とイゾルデ役の歌手がキャンセルして、わたしには未知の歌手が代役に立った。がっかりしたが、代役の歌手が役目を果たした。わたしもそうだが、劇場側もホッとしたことだろう。

 代役に立った歌手は、まずトリスタン役はゾルターン・ニャリ。個性的な声だが、歌はしっかりしている。第3幕のモノローグもメリハリがある。イゾルデ役はリエネ・キンチャ。第1幕の長丁場は緊張感を欠いたが、第3幕の「愛の死」は抑揚に富む。繰り返すが、総じて2人とも及第点だ。

 多少脱線するが、この作品はトリスタンとイゾルデの半音階を駆使した音楽と、クルヴェナールの跳躍の多い音楽と、マルケ王の動きの乏しい音楽との3種類の音楽からなる。わたしはだんだんクルヴェナールの音楽が好きになる自分に気付く。そのクルヴェナールをうたったエギルス・シリンスは、ドイツの無骨さを感じさせる好演だった。またマルケ王をうたったヴィルヘルム・シュヴィングハマーは声に力があった。なおブランゲーネをうたった藤村実穂は少しやせたようだが、声は健在だ。

 歌手の話が先行したが、本公演の主役は大野和士指揮する都響の演奏だった。繊細で、起伏に富み、夢見るように柔らかかった。とくに第2幕の「愛の二重唱」は、トリスタン、イゾルデそしてブランゲーネの好演ともあいまって(3人とも大野和士の指揮するアンサンブルに完全に入っていた)、今まで聴いたことがないほど甘い音楽になった。わたしはバイロイト、ベルリン(シュターツオーパー)、ドレスデンなどで聴いたが、それらのどの都市にもない個性をもつ演奏だった。

 本公演は2010年12月から翌年1月にかけて初演されたプロダクションの再演だ。わたしは初演のときも観たが、やはり忘れていることが多々ある。なかでも重要な点を2点あげると、第一に、第2幕で「愛の二重唱」に入ると夜空に星がまたたくことだ。それは「愛の二重唱」がそれまでの音楽とは隔絶した音楽であることを示す。

 第二に、第3幕の終盤に登場するイゾルデが赤い衣装を着ていることだ。このプロダクションでは、登場人物はすべて黒か灰色の衣装を着ている。だが最後の最後にイゾルデが赤い衣装を着る。その赤は海に沈む夕日の赤と一致する。劇的効果が見事だ。

 デイヴィッド・マクヴィカーの凝縮された演出、ロバート・ジョーンズの洗練された美術と衣装、ポール・コンスタブルの美しい照明。13年ぶりに観たこのプロダクションは、少しも古びていなかった。
(2024.3.20.新国立劇場)
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森美術館「私たちのエコロジー」展

2024年03月18日 | 美術
 森美術館で開かれている「私たちのエコロジー」展は、環境問題に向き合う現代アートを集めた展覧会だ(3月31日まで)。上掲の画像(↑)の左半分はモニカ・アルカディリの「恨み言」。青い部屋に白い球が浮く。海に浮かぶ真珠をイメージしている。美しい。だが小さな声が聞こえる。「海は全てを暴いてしまう。強い呪いの力で。海に住むものとして、私は呪われた人生を送ってきた。呪われるとは、隠された事実を垣間見ることだ。(以下略)」と。真珠が呟いているのだ。

 アルカディリは1983年生まれ。ベルリン在住、クウェート国籍。ペルシャ湾岸は古代メソポタミア時代から天然真珠の産地だった。20世紀初頭に日本の養殖真珠によって駆逐された。声はその恨み言だ。

 本展では上記の「恨み言」をはじめ国内外の34人のアーティストの作品が展示されている。現代アートなので、予備知識なしに作品を見て、何を感じるか、何も感じないか。そんな自分を楽しめばいいと、わたしは割り切って見て回った。

 本展には3つのビデオ・インスタレーションが展示されている。三者三様でおもしろかった。エミリア・シュカルヌリーテの「時の矢」は、水中カメラが海底を映す。水没した古代都市の遺跡が見える。なぜか(水中なのに)発電所が現れる。さらに大蛇が泳いでくる。大蛇は発電所のコントロールパネルを這う。海底に敷設された配管が見える(なんだろう?)。最後に人間が尾ひれをつけて泳ぐ。

 脈絡のない映像だ。不合理な夢を見ているようだ。最後に出てくる泳ぐ人間は、夢を見ているわたし自身だろうか。見終わった後も夢から覚めない気がする。シュカルヌリーテは1987年リトアニア生まれ。

 ジュリアン・シャリエールの「制御された炎」は、真っ暗な空間に四方八方から炎が飛び交う。ものすごい勢いでこちらに向かってきたり、虚空に消えたりする。花火のようにも見えるが、巨大な隕石の地球への衝突(=地球の終わり)のようにも、またビッグバンのようにも見える。シャリエールは1987年スイス生まれ。ベルリン在住。

 アリ・シェリの「人と神と泥について」は、黒人の労働者たちが延々とレンガを作る。泥をこね、型にはめ、天日で乾かす。赤茶けた大地に無数の型が並ぶ。本作品にはナレーションが入る。たとえば「神は泥から人を作った」と。創世記の言葉だ。その他わたしの知らない宗教が語られる。無信仰のわたしは思う。「古来、人は泥と格闘して生きてきた。人は泥との格闘から神を作ったのかもしれない」と。シェリは1976年ベイルート生まれ。
(2024.2.12.森美術館)
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マリー・ジャコ/読響

2024年03月13日 | 音楽
 マリー・ジャコが読響の定期を振った。1990年パリ生まれ。2023年からウィーン響の首席客演指揮者、24年からデンマーク王立歌劇場の首席指揮者、25年からケルン放送響の首席指揮者に就任。ヨーロッパのメジャーなポストを席巻中だ。

 プログラムは20世紀前半の特徴ある曲を並べたもの。1曲目はプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」組曲。カラフルな音色で鮮やかな演奏だ。明るい感性が息づいている。力みなくオーケストラを鳴らす。集中力が途切れない。指揮者としての力量の発露が感じられる。

 それにしてもこの曲は面白い曲だ。プロコフィエフはオペラというジャンルにじつに手の込んだ音楽を書いたものだと感嘆する。わたしは一度このオペラを観たことがある(ベルリンのコーミッシェオーパーでアンドレアス・ホモキの演出だった)。音楽もストーリーもモダンで奇抜なので驚いた。あのときの興奮がよみがえる。

 2曲目はラヴェルのピアノ協奏曲。ピアノ独奏は小曽根真。小曽根は第1楽章の一部と第2楽章の冒頭でかなり崩した演奏をした。それはこの曲のジャズからの影響を明かしたともいえるが、一方で、オーケストラとかみ合わなかったこと、また音色の魅力に欠けたことで演奏全体は低調だった。なお小曽根はアンコールにコントラバスの首席奏者の大槻健とのデュオで「A列車で行こう」を演奏した。そのほうが演奏に精彩があり、音色にも魅力があった。

 3曲目はプーランクの組曲「典型的な動物」。ラ・フォンテーヌの寓話をバレエ化した作品なので、人間の行いにたいする辛辣さがあるのだろう。オーケストラ編成がプーランクには珍しく3管編成が基本の大編成なのが目を引く。第1曲「夜明け」と第6曲「昼餐」の暗い音色に作曲当時の時代背景(ナチス・ドイツのフランス侵攻=パリ陥落)が感じられる。また第3曲「男とふたりの愛人」は若いころのバレエ音楽「牝鹿」にそっくりだが、「牝鹿」の軽快さはなく、どこか重い。

 4曲目はクルト・ヴァイルの交響曲第2番。3曲目までのフランス音楽とはちがい、色彩感を失った渋い音色になる。せわしなく動きまわり、落ち着きがない音楽だ。ヴァイルがナチス・ドイツから逃れてパリで書いた曲だ。当時のヴァイルの心境が反映されているのだろう。演奏は水際立っていた。リズムに弾みがあり、アンサンブルも精緻だ。ジャコの指揮のもとで読響がのびのびと演奏していたように思う。第1楽章にはトランペットとチェロのソロがあり、第2楽章にはオーボエとトロンボーンのソロがあるが、いずれも情感たっぷりな演奏だった。
(2024.3.12.サントリーホール)
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高関健/東京シティ・フィル

2024年03月09日 | 音楽
 高関健指揮東京シティ・フィルの定期。チケットは完売になった。曲目はシベリウスの交響詩「タピオラ」とマーラーの交響曲第5番。同時代を生きたシベリウスとマーラーだが、オーケストラ書法は対照的だ。音を切り詰めてラジカルな簡素化に向かったシベリウスと、音を複雑化して前代未聞の肥大化に向かったマーラー。その対比は興味深いが、それにしてもチケット完売はすごい。高関健と東京シティ・フィルの評価が上がっているからだろう。

 シベリウスの「タピオラ」は時に鋭角的な音を交えながら、すべての音を明確に示す演奏だ。オーケストラが沈黙すると思っていた部分でホルンが鳴っていたり、弦楽パートの意外な絡み合いがあったり、「なるほどこの曲はこう書かれているのか」と新鮮に聴いた。言い換えれば、茫漠とした北欧情緒で聴かす演奏ではなかった。たぶん高関健と東京シティ・フィルが評価されるのはその点だろう。

 マーラーの交響曲第5番は高関健と東京シティ・フィルの9シーズン目を締めくくる定期にふさわしい演奏だった。複雑な音の絡み合いの、その錯綜する各パートが明確に音色のイメージをもち、絶え間なく出入りする。多面的なおもしろさが尽きない。一朝一夕にできる演奏ではなく、9年間の研鑽の表れだ。わたしはじつはこの曲が食傷気味なのだが、そんな不遜な聴き手を初心に帰らせる演奏だ。

 第1楽章のトランペットは松木亜希さんが安定した演奏を聴かせた。過度に悲壮感を漂わせるのではなく、むしろ淡々とした演奏だ。それが高関健の指示なのか(指示というよりもイメージといったほうがいいかもしれないが)、松木さんのキャラクターなのか、それはわからないが、ともかくこの演奏全体の性格を表していた。

 第2楽章は(暗さの中に意外な明るさが入り混じる)混乱した音楽だが、その音楽をこんなにすっきりと演奏した例があったかどうか、わたしは思いつかない。今まで接してきたどの演奏も、悲壮な身振りが余計だったような気がする。

 第3楽章でオブリガート・ホルンを担当した谷あかねさんは、指揮者の横の独奏者の位置で吹いた。大変なプレッシャーだったと思う。聴衆のわたしも手に汗を握った。朗々と鳴り渡る音から柔らかいレガートの音、そして軽くアクセントを付ける音まで、見事な演奏だった。演奏家として一皮むける機会になったと思う。第4楽章は甘さに耽溺せず、音の流れを見守る演奏だ。第5楽章は躁状態にならずに、音楽が静まる部分もしっかり押さえた演奏だ。結果、楽章全体の構成が明確に浮き出た。演奏終了後、高関健のソロ・カーテンコールになった。高関健は松木さんと谷さんを伴って現れた。
(2024.3.8.東京オペラシティ)
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秋山和慶/新日本フィル

2024年03月04日 | 音楽
 友人からチケットをもらったので、新日本フィルの定期演奏会を聴いた。指揮は秋山和慶。1曲目は細川俊夫の「月夜の蓮―モーツァルトへのオマージュ―」。わたしは初めて聴く曲だ。相場ひろ氏のプログラムノートによれば、2006年にモーツァルトの生誕250年を記念して北ドイツ放送局の委嘱により書かれた曲だ。「モーツァルトのピアノ協奏曲から好きな曲を1曲挙げ、それと同様の楽器編成を用いて演奏することができるように」という依頼だった。細川俊夫はピアノ協奏曲第23番を選んだ。たしかに曲の最後にモーツァルトのピアノ協奏曲第23番の第2楽章が出てくる。モーツァルトが書いた音楽の中でももっとも甘美な音楽だ。

 「月夜の蓮」は、産みの苦しみと、開化の直後の晴れやかな静けさを感じさせる音楽だ(ホルン協奏曲「開花の時」(2011年)に通じる)。前半の苦しみの部分ではクラリネットやピッコロの金切り声のような音が耳に刺さる。後半の静かな部分ではティンパニの上に並べた4個(?)の鈴(りん)と風鈴の音がさわやかだ。

 ピアノ独奏は児玉桃。2006年の初演のときも児玉桃だった(指揮は準・メルクル、オーケストラは北ドイツ放送響)。プロフィールによれば、児玉桃は小澤征爾指揮水戸室内管ともこの曲を演奏したそうだ。

 2曲目はラフマニノフの交響曲第2番。歌いすぎると冗長になるきらいのある曲だが、そこはさすがに秋山和慶。歌におぼれず、リズムは粘らず、細部を彫琢して、堂々と構えた演奏だ。オーケストラもよく鳴った。個別のパートでは(1曲目の細川作品でも目立ったが)クラリネットの首席奏者の表情豊かな演奏に注目した。マルコス・ペレス・ミランダという奏者だ。

 秋山和慶はいま83歳だ。現役最長老の指揮者のひとりだが、音楽が崩れていない。1歳年上の飯守泰次郎亡き後、秋山和慶が元気なのは頼もしい。今回の細川作品もそうだが、プログラムが守りに入らず、攻めの姿勢を保つ(たとえば昨年7月の東京シティ・フィルのときはスクリャービンの交響曲第4番「法悦の詩」を振った。また今年6月の日本フィルではベルクの「管弦楽のための3つの小品」を振る)。秋山和慶はいま聴くべき指揮者だと思う。

 今回の演奏会は、兄弟子的な存在の小澤征爾の訃報が伝えられた直後で、かつオーケストラが小澤征爾ゆかりの新日本フィルなので、追悼の何かがあるかもしれないと思ったが、それはなかった。そんなパフォーマンスはしない点も秋山和慶らしい。もっとも内心はどうだろう。人一倍悲しみを抱えているのかもしれない。
(2024.3.2.すみだトリフォニーホール)
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