2017年もいよいよ終わる。さて、今年はどんな年だったろうと振り返ってみると、真っ先に思い浮かぶ演奏会が二つある。
一つはカンブルラン指揮読響のメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」。わたしを含めて多くの人々が注目し、また期待した演奏会だったと思うが、驚くべきことに、期待をはるかに上回る演奏だった。メシアンの超大作が、想像しうる限り、これ以上ないほど完璧に演奏された。
わたしは以前、このオペラを一度観てみたいと思っていた。そこで、2011年にバイエルン国立歌劇場が上演したときに観にいった。その上演では、ヘルマン・ニッチュという美術家が一種グロテスクな受難劇を繰り広げた。大方には不評だった。ニッチュはウィーンの美術家で、わたしはレオポルド美術館で類似のパフォーマンスのヴィデオを見たことがあるので、高名な美術家だろうが。
ニッチュのその演出はともかく、当時の音楽監督ケント・ナガノが指揮する演奏は、今回の演奏ほど完璧ではなかった。今回は演奏会形式という利点に加えて、カンブルランの能力と経験、そして読響の能力とが相俟って稀に見る名演となった。
今回の演奏は今後のメルクマールになると思う。読響はもとより、他のオーケストラも、今回の演奏を超える演奏を目指さなければならない。わたしは「ヴァルキューレ」でヴォータンがブリュンヒルデを岩山に眠らせ、炎で取り囲み、地面に突き刺した槍を思い出す。「わが槍の穂先を恐れる者は、この炎を越えることなかれ」と。
今年のもう一つの収穫は、サントリー芸術財団サマーフェスティヴァルで片山杜秀がプロデュースした「日本再発見」シリーズの中の「戦中日本のリアリズム」。下野竜也指揮東京フィルが目の覚めるような演奏を展開した。
その演奏もさることながら、作品そのものが、本当に「再発見」だった。煩瑣になるかもしれないが、以下列挙すると、尾高尚忠の「交響的幻想曲《草原》」、山田一雄の「おほむたから(大みたから)」、伊福部昭の「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」そして諸井三郎の「交響曲第3番」。
いずれも戦中に書かれた作品。軍国主義一色に塗り固められた(と想像される)当時の日本にあって、音楽などの芸術は不毛の時代をすごしたと考えがちだが、おっとどっこい、人間の精神の営みは休止しなかった。むしろ、そんな時代だからこそ、一層研ぎ澄まされた。そのことが感動的だった。
一つはカンブルラン指揮読響のメシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」。わたしを含めて多くの人々が注目し、また期待した演奏会だったと思うが、驚くべきことに、期待をはるかに上回る演奏だった。メシアンの超大作が、想像しうる限り、これ以上ないほど完璧に演奏された。
わたしは以前、このオペラを一度観てみたいと思っていた。そこで、2011年にバイエルン国立歌劇場が上演したときに観にいった。その上演では、ヘルマン・ニッチュという美術家が一種グロテスクな受難劇を繰り広げた。大方には不評だった。ニッチュはウィーンの美術家で、わたしはレオポルド美術館で類似のパフォーマンスのヴィデオを見たことがあるので、高名な美術家だろうが。
ニッチュのその演出はともかく、当時の音楽監督ケント・ナガノが指揮する演奏は、今回の演奏ほど完璧ではなかった。今回は演奏会形式という利点に加えて、カンブルランの能力と経験、そして読響の能力とが相俟って稀に見る名演となった。
今回の演奏は今後のメルクマールになると思う。読響はもとより、他のオーケストラも、今回の演奏を超える演奏を目指さなければならない。わたしは「ヴァルキューレ」でヴォータンがブリュンヒルデを岩山に眠らせ、炎で取り囲み、地面に突き刺した槍を思い出す。「わが槍の穂先を恐れる者は、この炎を越えることなかれ」と。
今年のもう一つの収穫は、サントリー芸術財団サマーフェスティヴァルで片山杜秀がプロデュースした「日本再発見」シリーズの中の「戦中日本のリアリズム」。下野竜也指揮東京フィルが目の覚めるような演奏を展開した。
その演奏もさることながら、作品そのものが、本当に「再発見」だった。煩瑣になるかもしれないが、以下列挙すると、尾高尚忠の「交響的幻想曲《草原》」、山田一雄の「おほむたから(大みたから)」、伊福部昭の「ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲」そして諸井三郎の「交響曲第3番」。
いずれも戦中に書かれた作品。軍国主義一色に塗り固められた(と想像される)当時の日本にあって、音楽などの芸術は不毛の時代をすごしたと考えがちだが、おっとどっこい、人間の精神の営みは休止しなかった。むしろ、そんな時代だからこそ、一層研ぎ澄まされた。そのことが感動的だった。