Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

旅行予定

2014年10月27日 | 身辺雑記
今日から旅行に出ます。パリに6泊して11月3日(月)に帰国予定です。帰ったらまた報告します。
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戯れ言の饗宴

2014年10月26日 | 音楽
 東京オペラ・プロデュースの公演で「戯れ言の饗宴」La Cena delle Beffe。作曲者はウンベルト・ジョルダーノ(1867‐1948)だ。ジョルダーノというと「アンドレア・シェニエ」で知られている。「フェドーラ」も時々上演されている。でも、その他の作品はというと――。

 「戯れ言の饗宴」は1924年にミラノのスカラ座で初演された。トスカニーニが指揮をした。初演は大成功だった。カーテンコールは24回もあった(英語版のWikipediaより)。その後もニューヨークのメトロポリタン歌劇場など、各地で上演が続いたが、いつしか忘れられた。今回は日本初演だそうだ。

 あらすじを紹介しても仕方がないだろうが、一言でいうと、美女(そうとうな悪女だ)ジネーヴラをめぐる2人の男ジャンネットとネーリの怨念と復讐のドラマだ。プログラムに掲載された岸純信氏の解説によると、ヴェリズモの定義からは外れるそうだが、ともかく甘いメロディーと激情的なメロディーが満載の、コテコテのイタリア・オペラだ(たとえば第2幕のジネーヴラとジャンネットとの二重唱などなかなか魅力的だ)。

 演奏もよかった。ネーリを歌った村田孝高は、豊かな声と安定した歌い方で安心して聴けた。ジャンネットの上原正敏は、時々、声の限界までいくことがあり、ハラハラしたが、それはいいとして、演技に物足りなさが残った。ジネーヴラの翠千賀は、どういうわけか印象が薄かった。でも、皆さん頑張っていたので、拍手だ。

 今回はとくにオーケストラに感心した。時任康文指揮の東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団。オペラ的な(オペラの感興に溢れた)演奏だった。臨時編成のオーケストラかもしれないが、オペラを楽しむに不足はなかった。

 一つだけ注文を付けさせてもらうなら、照明に品がなかった。安キャバレーのような照明だった。残念ながら、公演全体のイメージを損なった。

 それにしても、東京オペラ・プロデュースは頑張っている。新国立劇場が名作路線を邁進し、東京二期会と日本オペラ振興会(藤原歌劇団)もリスクはあまり取れないと思われる現状で(もっとも、東京二期会は演出で頑張っていることは特筆すべきだ)、東京オペラ・プロデュースはレアな作品を丹念に取り上げている。もしも東京オペラ・プロデュースがなかったら、東京のオペラシーンはずいぶん寂しくなるだろう。
(2014、10.26.新国立劇場中劇場)
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ラザレフ/日本フィル

2014年10月25日 | 音楽
 注目のラザレフ/日本フィルのショスタコーヴィチ・チクルス。選曲が、第4番、第8番、第11番というのが興味深い。なぜこの曲なのか、なぜあの曲ではないのかと、あれこれ妄想をたくましくする。

 1曲目はチャイコフスキーの弦楽セレナーデ。じつに正統的な(ロシア的に崩していない)演奏だ。格調の高い演奏。というのもこの曲には忘れられない想い出があるからだ。たぶん今から30年くらい前だったと思うが、ユーリ・バシュメットがモスクワ・ソロイスツを率いて来日公演をした。そのときこの曲を演奏した。ロシア的な節回しとはこういうものかと驚いた。それまで聴いたことのない節回しだった。ヴィオラを弾くときのバシュメットからは想像もできないことだった。

 ラザレフの演奏はその意味では対照的だ。西洋音楽の伝統にきちんと位置付けられた演奏(=解釈)だった。模範的とも思える造形。そう、ラザレフは豊かな歌い方と見通しのよい造形とが両立する指揮者なのだ。だから、横浜定期でよく取り上げるブラームスにも適性を発揮するのだ。

 2曲目は待望のショスタコーヴィチの交響曲第4番。ステージを埋め尽くすオーケストラが壮観だ。弦は16型。Wikipediaには22‐20‐18‐16‐14の編成と書いてあるが、あれはスコアにそう指定されているのだろうか。

 巨大なオーケストラの咆哮も凄まじかったが、聴くべきところは弱音のコントロールだった。薄くて繊細な弱音だ。‘爆演’という言葉があるが(わたしは好きではないが)、その言葉ほどラザレフに相応しくない言葉はない。ラザレフの演奏はその対極にある。

 思えば、この曲の名演にはいくつか出会ったが、ラザレフのこの演奏は、ロシア・アヴァンギャルド的な性格を忘れずに、(複雑怪奇ではあるが、それでも必然性をもった)この曲の形式を見出し、さらには第3楽章終盤の悲劇的な暗転を(インパクトをもって)捉えた演奏――この曲のすべてをあるべき位置に収めた演奏――だった。

 日本フィルの演奏も見事だった。あえて言うなら、一皮むけた感じがした。楽員は必至だったかもしれないが、でも、一種の落ち着きというか、ラザレフのやりたいことを理解し、それを実現する余裕がどこかに感じられた。

 第3楽章での藤原功次郎さんのトロンボーン・ソロに瞠目した。すばらしい。この曲にあんなソロがあったのか――。
(2014.10.24.サントリーホール)
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チューリヒ美術館展

2014年10月24日 | 美術
 チューリヒ美術館展へ行った。すっきりした展示構成だ。作品と作品との間隔がゆったりしている。各部屋は大体同じ大きさだ。その部屋に5点前後が展示されている。そういう部屋がずっと並んでいる。どれかを目玉にしようという意図は窺えない。フラットな構成だ。それがすっきりした空気感を生む。チューリヒの街の空気感のようだと思った。

 「全74点すべてが代表作」というキャッチフレーズどおり、どの作品も質が高い。あとは自分の感性に任せて、好きな作品を選べばいい。なんの誘導もない。各人の自由だ。

 ハッとしたのはホドラー(1853‐1918)の部屋だ。6点が展示されている。どれもホドラーらしい作品ばかりだ。自己の内面とか、孤独とか、死とか、自然の中での再生とか、そんなホドラーらしいテーマが目の前に広がる。大作は「真実、第二ヴァージョン」(1903)だが、わたしは「日没のマッジア川とモンテ・ヴェリタ」(1893)に惹かれた。日没の空の一瞬の夕映え。透明な空気。

 同じくスイスの画家だが、ホドラーとはまるでちがう画風のクレー(1879‐1940)の部屋には4点展示されていた。どれも興味深いが、わたしは「狩人の木のもとで」(1939)の前で動けなくなった。ナチスを逃れてスイスに戻った時期の作品だ。黄褐色のモノトーンの作品。太い描線の大木のもとに小さな狩人がいる。狩人は獲物を探している。獲物は大木の中に隠れている。獲物=クレー、狩人=ナチスだろう。戯画のような作品にクレーの恐怖が潜んでいる。

 これもスイスの画家だが、ヴァロットン(1865‐1925)の作品が4点あった。4点の中では一番地味かもしれないが、「アルプス高地、氷河、冠雪の峰々」(1919)に惹かれた。今アルプス氷河の展望台に立っているような、眩しい光と薄い空気が感じられる作品。逆光で捉えた技巧のゆえだ。

 スイスの画家の話が続いたが、本展はけっしてスイス一辺倒ではない。一番話題性のある作品はモネ(1840‐1926)の大作「睡蓮の池、夕暮れ」(1916/22)だろう。「国会議事堂、日没」(1904)も力漲る作品だ。ルソー(1844‐1910)の「X氏の肖像(ピエール・ロティ)」(1906)もルソー好きには堪らない。

 各画像を紹介したいのだが、モネとルソーを除いて本展のHPにもチューリヒ美術館のHPにも載っていなかった。申し訳ない。
(2014.10.22.国立新美術館)

↓本展のHP
http://zurich2014-15.jp/
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ドン・ジョヴァンニ

2014年10月23日 | 音楽
 新国立劇場の「ドン・ジョヴァンニ」。2008年の初演以来これで3度目の上演だ。3度とも観ているが、知らなかったことがある。三澤洋史氏のブログ(※1)で初めて知ったのだが、この演出の基調となっている紫色は、カトリック教会では‘喪の色’なのだそうだ。「ミサの時の司祭が着る祭服の色は、その時によって違うが、復活祭の前の懺悔の時である四旬節の間や、葬儀の時には特別に紫色である」。

 それを知ったうえで舞台を観ると、今までとはまるで違ったものが見えた。まずドン・ジョヴァンニの着ている服が紫色だ。つまりドン・ジョヴァンニは終始‘死’を身にまとっているのだ。また土壇場の晩餐の場面では、鮮やかな紫色のカーテンが舞台を覆う。これもドン・ジョヴァンニの死の暗示だ。

 ドンナ・アンナの喪服の黒色とドン・ジョヴァンニの紫色とが、2本の糸を撚り合わせるように、‘死’を織り込んでいくわけだ。

 そのことに感心して観ていたが、一方、これで3度目のこの舞台は、‘性’の表現が(初演の頃とくらべて)控えめになっているのではないかと思った。いや、記憶が確かではないので、こう言い直してもいい。もしアサガロフがヨーロッパで演出したら、もっと‘性’を強調したのではないかと。

 ‘性’と‘死’が表裏一体のものとして絡み合ったときに初めて、この演出は完成するのではないかと思った次第だ。

 歌手は今回きわめて高水準だった。とくに第2幕の後半、ドン・オッターヴィオ(パオロ・ファナーレ)、ドンナ・エルヴィーラ(アガ・ミコライ)、ドンナ・アンナ(カルメラ・レミージョ)が順にアリアを歌う箇所は圧巻だった。

 ドン・ジョヴァンニのアドリアン・エレートもさすがに名歌手だ。今まで聴いたドン・ジョヴァンニの中でもとくに印象に残りそうな出来だった。エレートは本年9月に都響が小泉和裕指揮、鈴木学のヴィオラ独奏で演奏したヴィオラ協奏曲の作曲者イヴァン・エレートの息子だ。イヴァンはハンガリー人だが、1956年のハンガリー動乱の時にウィーンに逃れた。そこで結婚して生まれた子供の一人がアドリアンだ。(※2)

 指揮のラルフ・ヴァイケルトは、いつもながら、おっとりした、現代との接点を持っていないような指揮で、どうにも重かった(とくに第1幕が)。もっと活きがよくて、切れば血が噴き出るような指揮だったら――と惜しまれた。
(2014.10.22.新国立劇場)

(※1)「三澤洋史の今日この頃」の10月13日の記事
http://cafemdr.org/

(※2)Wikipedia(英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Iv%C3%A1n_Er%C5%91d
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ブラビンズ/都響

2014年10月21日 | 音楽
 都響2度目のマーティン・ブラビンズ。前回もチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番(第1番ではなく)などの独自色の強いプログラムを組んだが、今回はさらに先を行ったプログラミングだ。

 1曲目はヴォーン・ウィリアムズの「ノーフォーク狂詩曲第1番」。この曲はあまり知られていないが(わたしは知らなかった)、聴いてみれば親しみやすい曲だ。わたしもそうだが、吹奏楽出身者には「イギリス民謡組曲」(管弦楽編曲版もあるが)でお馴染みのヴォーン・ウィリアムズが顔を出して懐かしい。

 2曲目はブリテンのピアノ協奏曲。1938年に作曲され、1945年に改訂された。「ピーター・グライムズ」(1944~45)はおろか「ポール・バニヤン」(1941)さえ書かれていない時期だ。同時期の作品ではヴァイオリン協奏曲(1939)を聴いたことがあるが(大変な力作だ)、ピアノ協奏曲は初めてだ。

 全4楽章から成るが、一言でいって才気煥発、アンファン・テリブルの時代のブリテンだ。とくに、開始早々、トッカータと題された第1楽章でその感を強くする。興味深いのはパッサカリアで書かれた第3楽章だ。この楽章は当初「叙唱とアリア」と題された音楽だったが、1945年の改訂時に今の音楽(「即興曲」と題されている)に差し替えられたそうだ(等松春夫氏のプログラムノーツ)。

 パッサカリアというと「ピーター・グライムズ」の間奏曲を思い出す。まさにこの楽章は「ピーター・グライムズ」の世界につながっている気がする。沈鬱な渋い音楽だ。

 ピアノ独奏はスティーヴン・オズボーン。歯切れのいいリズムで、乗りに乗った演奏だった。この曲にのめり込んでいることを自ら誇るような、やる気満々の演奏だった。アンコールには一転して小声で呟くようなドビュッシーの「カノープ」。

 3曲目はウォルトンの交響曲第2番(1957~60)。考えてみると、少なくともわたしの場合は、ウォルトンといっても「ベルシャザールの饗宴」(1931)や交響曲第1番(1933~35)の頃しか知らないと、あらためて気付かされる。ウォルトンはどういう生涯をたどったのかさえ知らないことに愕然とする。

 情緒的に聴くことができる第1番とちがって、第2番は職人芸のオーケストラ書法を楽しむ作品だ。ブラビンズ/都響の確かな造形力が見事だった。この作品の真の姿を余すところなく伝えたと思う。
(2014.10.20.サントリーホール)
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ポッペーアの戴冠

2014年10月17日 | 音楽
 多くの方がそう思っていると思うが、モンテヴェルディの「ポッペーアの戴冠」は、現存する3つのオペラの中でも、もっとも現代的なオペラだと思う。端的にいって、ものすごく面白い! どうしてあの時代にこういうオペラが書けたのかと、うっかり言いそうになるが、じつは人間がやっていること、そしてその表現は、今も昔も変わらないということだろう。いや、昔の方がもっと剥き出しだったかもしれない。

 それにしても、モンテヴェルディはすごいと思う。たまたま残った3つのオペラが、今に至るまでのオペラの3つの典型のような気がする。「オルフェーオ」は悲劇的なオペラの、「ウリッセの帰還」は喜劇的なオペラの、そして「ポッペーアの戴冠」は悪と官能の表現の、それぞれ典型のように見える。

 上述のとおり、わたしには「ポッペーアの戴冠」が一番面白いが、どういうわけか、舞台上演は一度も観たことがない。巡り合わせが悪いのだろう。今の演出ならいくらでも面白くできそうな作品だ。いつか観てみたい。

 今回も演奏会形式だ。でも、簡単な所作を伴っていた。これで十分ドラマが感じられる。

 演出がない分、演奏に集中した。なんといっても、タイトルロールのロベルタ・マメリに圧倒された。第1幕の登場の場面(ローマ皇帝ネローネとの後朝の別れの場面)での官能性といったら! ポッペーアが自らの魅力のすべてを動員してネローネを籠絡するように、マメリもその音楽性と声の官能性とを総動員し、聴いているわたしたちを甘くからめ捕る。

 そうかと思えば、野心を歌い上げるソロの場面では、ホールの大空間を揺るがす。文字通り大空間が震えるのだ。それも大声で震わせるのではなく、声の技術で震わせる。圧倒的という表現では物足りないくらいの凄さだ。

 マメリ以外ではカウンターテナーのラファエレ・ピに感銘を受けた。オットーネ(ポッペーアの夫)を歌ったのだが、頼りないキャラクターになりがちなこの役に、一本芯の通った人間性を感じさせた。優秀な歌手ならではのことだ。

 クラウディオ・カヴィーナ指揮ラ・ヴェネクシアーナはヴァイオリン2、ヴィオラ1そして低音部の編成。使用楽譜のナポリ稿(カヴィーナ監修)は4声で書かれているそうなので(シンフォニアとリトルネッロ)、原譜に沿った編成だ。最近の古楽演奏はほんとうに進化している。これも精彩に富んだ演奏だった。
(2014.10.15.東京オペラシティ)
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パルジファル

2014年10月15日 | 音楽
 新国立劇場の「パルジファル」。最終日のチケットを取ったので、公演日が待ち遠しかった。

 前奏曲が始まる。舞台には稲妻のようなジグザグの道が奥のほうから伸びている。その道を白い光が辿ってくる。泡立つ水のようだ。アンフォルタスの傷を癒す湖の水だろうか。鋭利な美しさだ。いかにもハリー・クプファーの演出という気がする。ハリー・クプファー健在なり、と思った。

 何人かの人が倒れている。前景にクンドリーとクリングゾル、中景にアンフォルタスとグルネマンツ。後景には3人の仏僧が立っている。なるほど、仏教が重要な要素になっていることは、事前情報として入ってきた。これがそうか。これが重要なキーになるのだなと思った。

 第1幕に入ってからの展開は‘研ぎ澄まされたドラマ’というに相応しいものだった。余分な動きが一切ない。なので、ちょっとした動き(たとえばパルジファルとクンドリーとの視線の交叉)が、ドキッとするようなドラマを生んだ。

 第3幕の幕切れが最大の問題提起だ。パルジファル、クンドリーそしてグルネマンツは仏教に改宗したように見えた。クプファー自身がいっているように、それが最終的な解決ではなく、旅の通り道と考えるべきだろうが――。

 感動した点は、このとき、聖杯騎士団の中から、騎士団の装束を脱ぎ捨てる人が現われたことだ。パルジファルに追随することはできないが、マインドコントロールからは抜け出した、というように見えた。

 演出と並んで感動的だったのは歌手たちだ。まずグルネマンツ役のジョン・トムリンソン。ドイツ語のディクションが明瞭で、すべての言葉が聴き取れるようだ。またこの役に相応しい年齢的な味わいがあった。クンドリー役のエヴェリン・ヘルリツィウスは官能から絶望までのこの役のすべての襞を描き尽くすようだった。パルジファル役のクリスティアン・フランツの声も健在だった。

 飯守泰次郎の「パルジファル」を聴くのは3度目だ。過去2回と比べても、今回はほんとうに肩の力の抜けた演奏だった。とくに感動的だったのは、声のラインがくっきり浮き出たことだ。オーケストラが声を圧しない。どうすればこうなるのかと思った。たぶん声を含めた完璧なバランス感覚があるからだろう。それはバイロイトの音響にルーツがあるのではないかと思った。バイロイトでは声が明瞭に聴こえる。そのイメージがあるからではないだろうか。
(2014.10.14.新国立劇場)
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ブレス・オブ・ライフ

2014年10月12日 | 演劇
 新国立劇場演劇部門が「二人芝居―対話する力―」というシリーズを始めた。1回目はイギリスの劇作家デイヴィッド・ヘア(1947‐)の「ブレス・オブ・ライフ~女の肖像~」。2002年にロンドンで初演された作品だ。

 イギリスのワイト島に住むマデリン(若村麻由美)をフランシス(久世星佳)が訪れる。マデリンはフランシスの夫の愛人だった。フランシスもマデリンの存在を知っていた。夫には若い恋人ができた。フランシスとは離婚した。マデリンも捨てられた。そんな状況になってフランシスはマデリンと会ってみる決心をした。わたしたち二人の人生はなんだったのかと――。

 濃密な対話劇を期待した。だが、表面をなでるような対話が続いた。ときどき刺のある言葉が発せられた。また苛立ちが爆発することもあった。でも、元に戻ってしまう。二人の関係は深まらない。傷つけ合うわけでもない。淡々としている。最後になんとなく和解の空気が漂うが、それは理解し合ったというのとはちがう。

 なんだか今の日本の希薄な人間関係を見るようだった。なにも起こらない。なにも得られない。要するに退屈だ。

 終演後プログラムを読んでいたら、デイヴィッド・ヘアの次のような言葉に出会った。「西洋社会では新しい人生の区分が生まれているのです。中年とは呼べない年齢層、ですが年寄りとも言えない。その中間にあるような層です(中略)統計的に考えて、これからさらに20年という時間があることがわかっているのです。」

 えっと思った。これは今のわたしの年齢ではないか。ということは、本作は(男女のちがいはあるが)今のわたしの物語でもあるのだ。でも、そうは感じなかった。

 演出の蓬莱竜太と宮田慶子の対談を読むと、今回、設定年齢を原作の60代から50代に下げているそうだ。「60歳を過ぎた女性たちが一人の男を巡ってバトルするって、日本では考えづらいかなと、一回り下げました。」(蓬莱竜太)

 必ずしも同意できないが、でも、それはいい。問題なのは、このことによって、ピントがぼやけてしまったことだ。だからなのか――、本作の背景には1960年代~70年代の激動の時代が横たわっている(マデリンもフランシスもその時代に青春を送っている)。そのエピソードが奇妙に抽象的なのだ。とってつけたようでリアリティがない。原作の設定に正面から向き合っていないからだろうか。
(2014.10.10.新国立劇場小劇場)
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日本フィル山の会「ふれあいコンサート」

2014年10月10日 | 音楽
 日本フィル山の会の「ふれあいコンサート」。今回で30回目。今回のメイン奏者はクラリネットの芳賀史徳さん。共演はヴァイオリンの坪井きららさんとピアノの外山啓介さん。外山さんはソリストで活躍中のあの外山さんだ。

 3人はともに芸大出身で外山さん>芳賀さん>坪井さんの順で1年違いだそうだ。芸大では顔を見たことがある程度だったが、外山さんと坪井さんはドイツに、芳賀さんはフランスに留学した頃から、連絡を取り合うようになったそうだ。外山さんはトークの中で「芸大時代からお互いに知ってはいたが、仕事を一緒にするのは初めて」と語っていた。

 若い奏者たちの気の合ったアンサンブルだ。聴いている方まで温かい気分になる、そんな気持ちのいいコンサートだった。しかもプログラム、演奏とも手抜きは一切なし。若い意欲を一杯に詰め込んだプログラムと演奏だった。

 そのプログラムだが、ゲーゼ(デンマークの作曲家。ニールセンを指導したことで知られている)の「幻想小曲集」、ドビュッシーの「第1狂詩曲」、ワーグナー(リスト編曲)の「イゾルデの愛の死」(これはピアノ独奏)そしてプーランクの「クラリネット・ソナタ」(プログラムノ―トで初演がベニー・グッドマンとレナード・バーンスタインだったことを知った)。以上が前半。

 後半ではヴァイオリンが加わって、ミヨーの「クラリネット、ヴァイオリンとピアノのための組曲」とバルトークの「コントラスツ」。

 これはもう(なんといったらよいか)感涙にむせぶような、一流の奏者でなければ組めない本格的なプログラムだ。こういうプログラムを市民コンサートで組むところがすごい(演奏者も主催者もともに)。

 演奏もプログラムに負けないものだった。やはり外山さんの存在が大きい。ソリストでやっているだけあって、思い切りがいい。随所でくさびを打ち込むように強いアクセントを入れてくる。抒情的な部分も表情豊かだ。それに他の2人が反応する。結果、演奏のレベルが高まる。その過程が楽しかった。

 こういうプログラムを組み、そして吹き切った芳賀さんも、もちろん、たいしたものだ。坪井さんも優秀そうだ。また聴く機会があれば――。

 コンサート終了後は、近くの居酒屋で、恒例の懇親会があった。出演者3人も参加。3人とも社会人としての常識をわきまえた人たちだ。ますます好感を持った。
(2014.10.9.ミューザ川崎・市民交流室)
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五嶋みどり

2014年10月09日 | 音楽
 五嶋みどりの現代音楽プログラム。全6曲のすべてが未知の曲、しかもその内2曲は作曲家の名前すら知らなかった。だが、至れり尽くせりというか、サントリーホールのホームページにはナクソス・ミュージック・ライブラリーへのリンクが貼られ、5曲の試聴ができるようになっていた(残りの1曲は同ライブラリーには未登録)。また、五嶋みどりのホームペーには全6曲の解説がアップされた。

 五嶋みどり自身の執筆によるこの解説が面白かった。痒いところに手が届くような、じつに行き届いた解説だ。しかも演奏家としての視点が盛り込まれている。事前に各曲の聴き方というか、聴くときの切り口が準備できた。

 五嶋みどりは聴衆とのコミュニケーション能力に秀でた人だと感心した。なにを伝えなければならないかという、聴衆との回路ができている人だ。たんに技巧を誇るだけの人ではない。

 プログラムの構成も見事だった。前半3曲はシリアスな曲だ。聴衆の集中力を極限まで求める。後半3曲はリラックスしたエンタテイメント性のある曲に転じる。聴衆は緊張から解放される。

 順を追って記述すると、1曲目はクセナキスの「ディクタス」(1979)。この曲でもう五嶋みどりの水際立った技巧に打ちのめされた。音が拍節その他すべての束縛から自由になり、どこか予想のつかないところへ飛んでいくようだ。

 2曲目はシュニトケの「ヴァイオリン・ソナタ第3番」(1994)。最晩年のシュニトケの、ひび割れた、崩壊寸前の音たちが痛ましい。3曲目はサーリアホの「カリス(聖杯)」(2009)。繊細な弱音の集中力がすごい。どこか異次元に引き込まれそうだ。

 後半に入って、4曲目はハートキHartke(1952‐)の「根付‐NETSUKE‐」(2011)。未知の作曲家だが、これが面白かった。ロサンゼルス郡立美術館に所蔵されている日本の工芸品「根付」6点に着想を得た小品。独特の即物的なユーモアがあった。

 5曲目はダヴィドフスキーDavidovsky(1934‐)の「シンクロニズムス第9番」(1988)。あらかじめ録音された電子音とヴァイオリンとの対話。電子音の空間性がライブならではだ。最後はジョン・アダムズの「ロード・ムーヴィーズ」(1995)。この作曲家らしいノリノリの曲だ。

 以上、五嶋みどりによる極上の現代音楽アンソロジーを楽しんだ。
(2014.10.8.サントリーホール)
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カーターへのオマージュ

2014年10月07日 | 音楽
 一昨年エリオット・カーター(1908‐2012)が亡くなった。享年103歳。生涯現役だった。亡くなる直前にピアノ奏者のピエール=ロラン・エマールのために曲を書いた(正確にいうと、断片として残された部分があり、補筆しているそうだ)。ピアノ三重奏曲「12のエピグラム」だ。103歳の人が書いた曲とはどういう曲か。興味津々で出かけた。

 演奏はピアノがピエール=ロラン・エマール。ヴァイオリンがディエゴ・トジ。アンサンブル・アンテルコンタンポランのメンバーだそうだ(そういえば、エマールも若い頃はメンバーだった)。チェロがヴァレリー・エマール。ピアノのエマールの妹だ。そういえば似ている。微笑ましかった。

 1曲目は「チェロとピアノのためのソナタ」(1948)。カーター初期の作品だ。いかにも壮年期の作品という感じがする。時代もそうだったかもしれない。アメリカが一番自信に満ちていた時代だ。4楽章から成るが、第3楽章アダージョがひじょうにロマンティックに聴こえた。甘いという意味ではなく、情熱を内に秘めているという意味で。

 次にピアノの小品が3曲演奏された。「再会」(2000)、「90+」(1994)そして「カテネール」(2006)。

 なかでは「カテネール」が圧倒的に面白かった。沼野雄司氏のプログラム・ノーツを引用すると、「後期カーター特有の無窮動的な音の群れが、5分弱の間徹底的に持続する」曲。下世話な話だが、「譜めくりが大変だろうな」と思った。一瞬でも目をそらすと、どこをやっているか、わからなくなる。ハラハラして見ていたら、演奏終了後、エマールがそっと譜めくりの人と握手した。思わず笑ってしまった。

 休憩後は「ヴァイオリンとピアノのためのデュオ」(1974)。この日の演奏曲目の中では、これがもっとも抽象的な音でできていた。どこをどうつかんだらいいのか、手探り状態のまま終わった。

 最後が前述した「12のエピグラム」。題名どおり、短い音楽が12曲続く。もっとも、エピグラム(警句)という題名から想像しがちなシニカルな面はなく、硬い結晶のような、透き通った音楽だ。ありがたいことに、アンコールとして、もう一度演奏してくれた。二度目にはよくわかった。これはほんとうに洗練された音楽だ。そう思ったら、感動した。

 温かい拍手が続いた。エマールが譜面を高く掲げて拍手に応えた。
(2014.10.6.紀尾井ホール)
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メッツマッハー/新日本フィル

2014年10月04日 | 音楽
 メッツマッハー/新日本フィルのツィンマーマンとベートーヴェンのチクルスが好調だ。今回も魅力的なプログラムを組んでいる。

 1曲目はツィンマーマンの「静寂と反転」。この曲は(もう何年も前になるが)一度聴いたことがある。マティアス・ピンチャー(今はパリのアンサンブル・アンテルコンタンポランの音楽監督をしている。当時はドイツの若手作曲家のホープだった)の指揮カールスルーエ歌劇場のオーケストラの演奏だった。

 新国立劇場の「軍人たち」に衝撃を受けたわたしは、ドイツ旅行中にその演奏会を聴いてみた。なんの予備知識もなかったので、静寂に包まれ、スネア・ドラムのリズムが終始鳴っている音楽に、正直いって戸惑った。

 二度目となる今回は、これはツィンマーマンの‘夜の音楽’かもしれないと思った。スネア・ドラム以外にも、アコーディオンの幽かな音、シンバルを弓でこする音、その他いろいろな音が聴こえる。夜のしじまのようだ。真夜中に一人眠れず、戸外の物音に耳を澄ますツィンマーマンの冴えた感覚が感じられる。

 カールスルーエのときはスネア・ドラムが指揮者の前に置かれていた。結果そのリズムが強調された。今回は普通の(舞台奥の)位置に置かれた。適切な距離感があった。他の楽器とのバランスがよく、透明な音響が生まれた。指揮者の力量のちがいを感じた。

 「静寂と反転」が終わってそのまま(拍手を入れずに)ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」に移った。すばらしいアイディアだ。「キリエ」の抑制された表現とも相俟って、じつに自然な推移だった。

 「クレド」の長大かつ壮麗なフーガを聴きながら、ツィンマーマンとベートーヴェンを組み合わせるのはなぜだろうと考えた。世の中から孤立したツィンマーマンと、人類愛を歌いあげるベートーヴェンとは、正反対の位置にいる。でも、この組み合わせになんの矛盾も、齟齬も感じないのはなぜだろう――。

 ベートーヴェンは人類愛を歌いあげる。それは夜空に輝く星のようだ。でも、ツィンマーマンを巻き込もうとはしない。ツィンマーマンは孤立した場所にいる。暗い森の中にいる。そこから動こうとはしない。そこにいてもいいのだ。そして夜空を見上げる。満天の星。ツィンマーマンはそのとき、美しいとは思わないだろうか。仰ぎ見る満天の星に、慰められはしないだろうか――と、そんなことを考えた
(2014.10.3.すみだトリフォニーホール)
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