Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

2015年の回顧

2015年12月29日 | 音楽
 戦後70年だった今年。わたしもそれなりに想いを巡らしながら過ごしたので、この一年を振り返っておきたい。

 わたしにとっては、東京藝大が開催した信時潔の「海道東征」の演奏会が、戦後70年のビッグイヴェントだった。皇紀2600年(1940年)の祝賀曲の一つだ。軍国主義がピークに達した時期を象徴する曲。当時の演奏がSPに録音され、今ではCDに復刻されている。そのCDを持っているので、何度か聴いたことがある。異常な興奮が渦巻く演奏だ。聴いていると息苦しくなる。その曲がいま演奏されると、どう聴こえるか。

 結果的には、驚くほど平明な曲だと思った。拍子抜けするほどだ。こういう曲だったのかと思った。では、初演当時のあの興奮はなんだったのか――。時代が違うと、同じ曲でもこんなに変わるものか。

 そう感じたのは、演奏がよかったからでもあるだろう。湯浅卓雄指揮の東京藝大シンフォニーの演奏、独唱陣は甲斐栄次郎、福島明也など錚々たる顔ぶれ、合唱は藝大の学生さんたち。その合唱が透明感あふれるハーモニーを聴かせた。前述の初演当時の合唱との違いが曲の印象を一変したと思う。

 でも、「海道東征」を歴史的な文脈から切り離して、純粋に音楽として評価すべきかとなると、まだそこまでは言い切れない気がする。この曲のありのままの姿が示された。それで十分だと思う。

 戦後70年を離れて、この一年を思い起こすと、まっさきに目に浮かぶのは、今年2月にパーヴォ・ヤルヴィがN響を振ったマーラーの交響曲第1番「巨人」だ。いつもは沈着冷静なN響が、あのときは我を忘れて、夢中になって演奏していた。異様な熱気を放つ演奏。あのときは、プログラムの記載とは異なり、コンサートマスターにロイヤル・コンセルトへボウ管のエシュケナージが入っていた。その影響も大きかったのではないだろうか。

 サントリー芸術財団のサマーフェスティヴァルで演奏されたシュトックハウゼンの「シュティムング」とツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクィエム」は注目の的だった。前者では倍音唱法の美しさに惹きこまれ、また後者では「ついにこの曲が日本でも鳴り響いた」という感慨があった。

 でも、いま思い返すと、大野和士/都響による後者の演奏は、あまりにも整然としすぎていなかったろうか。音響のコントロールは見事だったが、その一方で20世紀の歴史への怒りや絶望はあまり感じられなかった。
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自然と都市展

2015年12月26日 | 美術
 ポーラ美術館で「自然と都市展」が開催されている。同館の収蔵品の中から「自然と都市」のテーマで選択・構成したもの。19世紀の後半から20世紀初めまでの絵画、具体的にはコロー、クールベから始まってモネ、セザンヌなどの印象派、スーラ、シニャックなどの点描派、ゴッホ、ゴーギャンなどのポスト印象派、モジリアーニ、ユトリロなどのエコール・ド・パリ、さらにはピカソ、シャガールまでの作品を展示している。

 ポーラ美術館の収蔵品の質の高さが実感される。会場にいると、音楽に身をゆだねているような感じがする。ゆったりと流れる音楽。その流れの中に浮遊しているような心地よさを感じる。

 大半の作品は以前に見たことがあるが、初めて見る作品もあった。たとえばヴラマンクの「湖」。その絵が目に入ってきたときには、ドイツ表現主義の画家、とりわけブリュッケの画家のだれかの作品だろうかと思った。木々の緑がそう感じさせた。キャプションを見たらヴラマンクとあった。そうか、ヴラマンクかと。

 一方、何度も見た絵でも、「自然と都市」という文脈に置くと、新鮮に感じる作品があった。たとえばルソーの「エデンの園のエヴァ」。熱帯の密林のような風景が、理想郷としての‘自然’といわれると、ハッと意表を突かれる想いがした。

 今回一番心を動かされた作品は、シャガールが故郷ヴィテブスクを描いた作品群だ――余談だが、絵というものは不思議なもので、毎回毎回、心が動く作品が変わるような気がする。ある作品に心が動いても、次に見たときにはなにも感じなかったり、また何度も見た作品でも、あるとき突然心が動いたりする――。

 本展では、それらの作品群のために、一つのコーナーが設けられている。三方を囲まれたそのコーナーに入って、それらの作品群を眺めていると、シャガールの郷愁が身に染みてくる。

 「ヴィテブスクの冬の夜」は初めて見る作品だ。雪に閉ざされたヴィテブスク。夜空から雪が舞っている。向かって右には大きな教会。左には粗末な家。その中間に一組の恋人が抱き合って空に浮いている。男はシャガール、花嫁姿の女は最初の妻ベラだろう。

 これは1947年の作品だ。ベラはすでに病没している。ヴィテブスクも第二次世界大戦中にドイツ軍とソ連軍との戦闘で破壊された。そんな痛々しい想いがこの作品には込められているのだろう。
(2015.12.24.ポーラ美術館)

本展のHP
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バグダッド動物園のベンガルタイガー

2015年12月22日 | 演劇
 新国立劇場の「バグダッド動物園のベンガルタイガー」を観た。イラク戦争が始まった2003年のバグダッドが舞台。作者はラジヴ・ジョセフというアメリカ人。2010年の作品だ。

 バグダッドに攻め込んだアメリカ兵のトムとケヴ。酒に酔ったトムが動物園のベンガルタイガーに餌をやろうとして右手を噛まれる。同僚のケヴがタイガーを射殺――と、ここまでは実話だ。芝居では、タイガーが幽霊となってケヴにつきまとう。ケヴは精神に異常をきたして自殺。ケヴも幽霊になってトムにつきまとう。

 不条理な暴力、イラク人への侮蔑、外傷後ストレス傷害(PTSD)といった戦争の現実が芝居になる。戦争が身近にあるアメリカ人の皮膚感覚が伝わってくる。

 もう一つ特徴的だと思ったことは、神の意識だ。ケヴもトムも、そしてタイガーまでも神に問いかける。この混乱した世の中はなぜなのか。救いはあるのか。神はどこにいるのか。なにをしているのか。そんな問いかけが浮かび出る。

 さらにもう一つ、アメリカ兵の性衝動が描かれる。戦争と性とは切っても切り離せない関係だと、あらためて思う。日本での上演なので、この部分は薄味になっているかもしれない。アメリカでの上演はどうだったのだろうと、思わないでもない。

 以上の3点、戦争の皮膚感覚、神への問いかけ、性衝動、いずれもリアルであるとともに、彼我のちがいも感じた。ちがいを感じたからこそ、今この世の中で起きている現実味があったというべきかもしれない。

 タイガーは杉本哲太。思索的なキャラクター(人間よりも思索的だ)を渋く演じていた。ケヴの風間俊介とトムの谷田歩は、愚かで軽薄なキャラクターを大熱演。互角に渡り合って甲乙つけがたい。イラク人でアメリカ軍の通訳として働くムーサは安井順平。抑圧されたキャラクターに存在感があった。サダム・フセインの息子ウーダイ(米軍に射殺された実在の人物。幽霊となって登場)の粟野史浩はヤクザのような迫力だ。

 演出は中津留章仁。わたしは初めてその演出に接したが、戦争という異常な状況を描いて熱っぽい舞台を作り上げたのは、この人の力量だと思う。

 新国立劇場は2012年に「負傷者16人‐SIXTEEN WOUNDED‐」を取り上げた。テロリストの生活を等身大に描いたその芝居に引き続き、今回の「バグダッド動物園の……」は同時代の問題作の第2弾だ。
(2015.12.21.新国立劇場小劇場)
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大友直人/日本フィル

2015年12月20日 | 音楽
 今年の日本フィルの横浜定期の「第九」は、前プロにガブリエル・ロベルトという人の新作が初演された。

 ロベルト(1972‐)はイタリア人。ロンドンの王立音楽院の作曲科を修了している。日本では映画音楽の作曲家としての活動が活発だ。「嫌われ松子の一生」(2006年)で渋谷毅と共に日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞している。

 ということを、今回初めて知った。映画音楽の作曲家がクラシックの音楽も作曲するというと、同国人の偉大な先達ニーノ・ロータを想い出す。ニーノ・ロータの場合は先にクラシックの作曲家としての活動が始まり、キャリアの途中から映画音楽に入って成功したが、ロベルトの場合は逆のケースだ。

 今回の新作はトランペット協奏曲《Tokyo Suite》。全4楽章からなり、演奏時間は約18分。日本フィルの客演首席トランペット奏者オッタビアーノ・クリストーフォリ(以下「オッター」)の委嘱。オーケストラは2管編成が基本だが、トランペットを欠く。

 第1楽章が始まる。ジョン・アダムズのような一定のパルスが連続する、明るく、ノリのよいご機嫌な音楽だ。第2楽章は美しい光が射すような抒情的な音楽。オーロラのような移ろいがある。映画音楽的といえるかもしれない。第3楽章はコミカルな音楽。第4楽章には広がりがある。

 オッターは普段から、明るく、軽めの音を持っていて、抜群の安定感を誇るが、今回は珍しくちょっと緊張しているようだった。でも、バリバリ吹きまくる演奏ではなく、しっとりとアンサンブルの中に溶け込む演奏でこの曲の姿をよく表現していた。

 指揮は大友直人。エンタテイメント性があるこの種の曲にはうってつけの人材だ。十分に楽しませてくれた。この曲、できれば東京定期でもやってくれないだろうか。そのときは――もし改訂の余地があるなら――第4楽章の広がりをもっと入念にしてくれたらと、素人ながら思った。

 「第九」では東京音楽大学の合唱団の厚みのある音に惹かれた。青木エマ、小川明子、錦織健、宮本益光の独唱陣も熱演だった。大友直人の指揮は、第1楽章が速めのテンポだったので注目したが、第2楽章以下では普通のテンポに戻った。

 余談だが、第4楽章の途中でトランペット奏者とティンパニを隔てるアクリル板が倒れるハプニングがあった。トランペット奏者が唇を押さえていたが、大丈夫だろうか。
(2015.12.19.横浜みなとみらいホール)
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ミンコフスキ/都響

2015年12月16日 | 音楽
 ミンコフスキが客演した都響の定期。2014年8月のビゼー・プログラムは――聴きたかったが――聴けなかったので、今回は楽しみにしていた。

 プログラムがユニークだ。前半がルーセルのバレエ音楽「バッカスとアリアーヌ」、後半がブルックナーの交響曲第0番(ノヴァーク版)。まったく性格の異なる2曲の組み合わせ。さて、どうなるか。

 「バッカスとアリアーヌ」が始まる。勢い込んだ開始。テンションがものすごく高い。音が押し潰されそうだ。でも、段々しっくりしてきた。弦の音色に艶がある。後半(第2幕)に入ると、雄弁なドラマが展開した。自由自在な動き。最後は目くるめくバッカスの祭典で終わった。

 ミンコフスキがモダン・オーケストラを振るのは初めて見たが、下半身は不動。両足が大地に根を下ろしたように動かない。一方、上半身は激しく動く。両腕の振りが大きい。上半身と下半身のその対比が鮮やかだ。ミンコフスキの作り出す音楽を幾分象徴している気がする。

 もう一つ面白かったのは、第1幕と第2幕の幕間に、指揮棒を下ろさず、そのままの姿勢でいたことだ。オーケストラは譜面をめくり、また楽器の調整をして、聴衆も咳払いをするのだが、その間ミンコフスキは指揮棒を下ろさずに待っている。次のブルックナーでもそうだった。ミンコフスキのやり方のようだ。

 ブルックナーの交響曲第0番が始まる。さて、ルーセルの熱狂の終結からどのような格差が生じるかと思ったが、意外に自然に始まった。指揮者に曲にたいする確信があると、こういう組み合わせでも問題ないようだ。

 第1楽章冒頭、低弦のリズムの刻みにヴァイオリンが絡んでくる(作曲当時オットー・デッソフに「第1主題はどこにあるのか」といわれた箇所だ)。弦の各パートの絡みが精妙だ。リズムに弾みがある。

 第2楽章の徹底した弱音、第3楽章のスケルツォ主題の舞曲のような躍動感、いずれも聴きどころだったが、さらに第4楽章コーダの嵐のような三連符に息をのんだ。ブルックナーには悠然としたイメージを抱きがちだが、じつは尖った個性の持ち主だったのではないか。アーノンクールが録音した交響曲第9番の第4楽章の草稿を聴いたときにそう思ったが、その考えがまた浮かんだ。

 2曲とも弦は16型で配置は左から1Vn、Vla、Vc(Cb)、2Vnの順だった。ブルックナーでは木管は培管。
(2015.12.15.サントリーホール)
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松平敬バリトン・リサイタル

2015年12月15日 | 音楽
 松平敬のリサイタル。手応え十分だ。取り上げられた作曲家は13人。煩瑣になるかもしれないが、いかに多彩な顔ぶれであったかを伝えるために、演奏順にその名前を列挙すると――

 シューベルト、ストラヴィンスキー、ヴァレーズ、ベルク、高橋悠治、マーラー、アブリンガー(1959年オーストリア生まれ)、湯浅譲二、山根明季子、リゲティ、クルターグ、西村朗そしてアンコールに武満徹。

 これだけの作曲家を歌い分けること自体、驚くやら、感心するやら。技術はもちろんのこと、緊張感の持続や、1曲1曲への目的意識の高さがあってこそ、だ。

 順番に感想を記しても冗長になると思うので、いくつかの曲をピックアップして書くと、まずヴァレーズの「巨大な黒き眠りが」(1906年)。ヴァレーズにこんな曲があるのかと思うくらい、深い情感にみちた曲だ。印象主義の音楽、あえていえばドビュッシーと同じ地平線上にある曲だ。

 それもそのはず、というか、これはヴァレーズの最初期の作品だ。ヴァレーズは音楽史上一、二を争う革命児だが、「アメリカ」(1920年)よりも前の作品は破棄してしまったので現存しない。ところが、どういう経緯か、この「巨大な黒き眠りが」だけは残った。こんなにいい曲なら、他の曲も聴いてみたかったと思う。

 クルターグの「3つの古い銘」(1986‐87年)は、いかにもクルターグらしく、凝縮された中身の曲だ。緩‐急‐緩の3曲から成る。松平敬の気迫のこもった歌に圧倒されたが、中川俊郎の、これまた気迫のこもったピアノにも圧倒された。2人の気迫を引き出すクルターグの曲も圧倒的だ。

 西村朗の新作「猫町」(2015年)は、歌曲の枠をはみ出してモノ・オペラに近づいた曲だ。ものすごく面白い。どう面白かったかは、今後この曲を聴く方のために、具体的には書かないでおくが――。一言だけいうと、ロッシーニの某曲のパロディらしきものも登場する。

 アンコールに武満徹の「三月のうた」が歌われた。胸にジーンとくるメロディ。西村朗の「猫町」や、その少し前の山根明季子の「水玉コレクションNo.02」(2007年)のぶっとんだ新鮮さに比べると、語弊があるかもしれないが、‘昭和’を感じた。‘昭和’を感じたことが、自分でも意外だった。俺はこういう時代を生きてきたんだなと――。懐かしかった。年末に相応しかった。
(2015.12.14.東京オペラシティ・リサイタルホール)
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尾高忠明/日本フィル

2015年12月12日 | 音楽
 尾高忠明が振った日本フィルの定期。地味なプログラムだが、お客さんは結構入っていた。学生さんたちはブラスバンドをやっている人たちだろうか。

 前半2曲はイギリスの音楽。1曲目はジェラルド・フィンジ(1901‐1956)の「クラリネットと弦楽のための協奏曲」。フィンジという作曲家は、数年前までは知らなかった。林田直樹氏のメルマガで初めて知った。

 1949年の作品。急進的な前衛音楽の時代だが、その時代にこういう作品が書かれていたのかと驚くほど、穏やかで、抒情的な作品だ。世界は広いと思う。時代はけっして一色には染まらないものだと思う。広い世界のどこかでは、時代に流されずに自分の世界を守っている人がいるのだなと――。

 クラリネット独奏は日本フィル首席奏者の伊藤寛隆。第1楽章ではヒヤリとすることがあったが、第2楽章からは安定した演奏になった。オーケストラは、イギリス音楽のスペシャリスト尾高忠明の指揮のもと、信頼に足る演奏を繰り広げた。

 緩徐楽章の第2楽章が、弱音が完璧にコントロールされ、抒情的な音の世界に沈潜するような、例えて言うならイギリスの美しい田園地方の黄昏を見るような、そんな雰囲気のある名演になった。

 2曲目はヴォーン・ウィリアムズの「バス・テューバと管弦楽のための協奏曲」。独奏は日本フィルのテューバ奏者、柳生和大。テューバの柔らかな、かつ存在感のある音を楽しんだ。

 プログラム後半はシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。これも名演だった。音がよく整理されていた。尾高忠明の力量だろうが、もう一つは、日本フィルの弦に軽やかさがあり、先月客演したインキネンの余韻のようなものが感じられた。

 オヤマダアツシ氏のプログラム・ノートに、第2楽章は「ベートーヴェンの交響曲第7番(第2楽章のアレグレット)を想起させる。」というくだりがあった。そう言えば、第1楽章のゆったりとした序奏は、ベートーヴェンの同曲の第1楽章の序奏を「想起させる」し、第3楽章の中間部(トリオ)は同曲の第3楽章のトリオを、また第4楽章の弾けるような開始は同曲の第4楽章の開始を「想起させる」。

 この曲はベートーヴェンの交響曲第7番がモデルになっているのかもしれない。この時期、大曲を書く作曲家に変身しようとしていたシューベルトの、努力の痕跡かもしれない。
(2015.12.11.サントリーホール)
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デュトワ/N響

2015年12月07日 | 音楽
 デュトワ/N響の「サロメ」。タイトルロールはグン・ブリット・バークミン。ウィーン国立歌劇場のサロメ歌手で、同歌劇場の日本公演でも同役を歌ったそうだ。まるでビアズリーの挿画から抜け出してきたかのような美しさ。サロメというよりもルルのような雰囲気だ。

 歌もとくに問題は感じなかったが、なによりもその容姿と、ちょっとした仕草が物語るドラマとに惹きつけられてしまった。

 歌にかんしていうと、わたしはシュトラウスがサロメのパートに付けた音楽の、遊戯性というか、軽やかに飛び回るような無邪気さに思い入れがあって、いつかはそのようなサロメを聴いてみたいと思っているのだが、実演ではなかなか出会えないでいる。今回も‘少女’サロメの軽やかさというよりも、肉感的な影のあるサロメだった。

 ヘロデ役のキム・ベグリーとヘロディアス役のジェーン・ヘンシェルは、ともに実力十分の大ヴェテランだけあって、文句なしの出来だ。「サロメ」は両者がサロメを支えて初めて成り立つオペラだと思った。

 ヨカナーン役のエギルス・シリンスは、幽閉された井戸から発する第一声を、舞台裏から歌った。これは効果抜群だった。遠くから響く声のイメージが目の前に浮かんだ。井戸から引き出されてくると、舞台上で歌う。そしてまた舞台裏に引っ込む。深々とした声が舞台裏から響いてくる。ゾクゾクするような声だ。

 日本人歌手もよかった。ナラボート役の望月哲也の実力はいうまでもないが、小姓役の中島郁子の安定した歌いぶりにも注目した。今後の活躍を楽しみにしたい。

 デュトワがN響を初めて振ったのは1987年9月だ。それから28年たった。壮年期の寸分の緩みもない演奏からは――当たり前かもしれないが――変化している。今は少しラフな部分を残しつつも、豪快さが加わった。加齢に伴う変化、生身の人間であるが故の変化、それを見守るのも聴衆の役目だ。

 このオペラを演奏会形式で聴くと、「7つのヴェールの踊り」が少しも浮いていないことが面白かった。舞台公演ではドラマの進行が止まってしまうが、演奏会形式だとむしろ音楽的なピークを迎えたように感じた。プッチーニの「トスカ」で「歌に生き、愛に生き」が出てくるタイミング、また「蝶々夫人」で「ある晴れた日に」が出てくるタイミングと同じようなものを感じた。ドラマトゥルギーが共通しているのかもしれない。
(2015.12.6.NHKホール)
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黛敏郎「金閣寺」

2015年12月06日 | 音楽
 黛敏郎のオペラ「金閣寺」の上演は16年ぶりだそうだ。今回その上演(蘇演といってもいいかもしれない)にこぎつけた関係者の努力と熱意にまずは敬意を表したい。わたしのような単なるオペラ・ファンにとっても、これは大きな出来事だった。

 いうまでもないが、原作は三島由紀夫の同名の小説だ。ベルリン・ドイツ・オペラの委嘱によりオペラ化された。台本はクラウス・H・ヘンネベルク。そのような由来を持つ作品なので、ドイツ語で書かれている。

 でも、ドイツ語で書かれたことが、今となっては幸いしていると思う。このオペラは、20世紀後半から台頭して今や一つの潮流となっている文芸オペラ(文学作品を原作として、そのエッセンスを損なうことなくオペラ化した作品)の一つに位置付けることができる。文芸オペラの一角を占める作品になったと思う。

 黛敏郎がこのオペラに付けた音楽は、ひじょうに分かりやすい。むしろサービス精神が旺盛だ。「涅槃交響曲」でお馴染みの仏教の声明を取り入れたり、思えば若いころから使っているジャズのイディオムを挿入したりしている。難解なところはまったくない。

 テクストは三島由紀夫の原作を反映して、観念的な要素を含むが、それはオペラの場合あまり問題にはならない。音楽がそれをカヴァーするからだ。

 今回の上演は、音楽面でも、舞台美術を含む演出の面でも、十分に準備されたものであることがよく分かった。まずそのことを称賛したい。その上で、いくつかの問題を感じたので、率直に申し上げたい。

 大きくいって3点あるが、第一に合唱を舞台裏に配置したこと。音楽的にはひじょうにマイナスになった。正直なところ、聴いていてイライラすることがあった。端的な例がフィナーレの声明の部分だ。PAを使ってもカヴァーし切れるものではなかった。

 第二に尺八の場面をカットしたことだ。終演後プログラムを読んだら、演出の田尾下哲の苦渋の選択だったことがよく分かった。その苦渋の大きさを、わたしは受け止めなければならないが、でも、あの尺八はフィナーレの声明と同じくらいのインパクトがあるので、演出上の工夫(たとえば主人公の空想の出来事にするとか)がほしかった。

 第三に休憩を入れる箇所が、いかにも中途半端だったことだ。尻切れトンボで休憩に入ってしまった。米兵の場面の後ではなく、前だったらまだよかったかもしれない。
(2015.12.5.神奈川県民ホール)
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ヴァンスカ/読響

2015年12月05日 | 音楽
 アークヒルズに着いたらクリスマスツリーのイルミネーションが輝いていた。もう年末だ。年末恒例のこのイルミネーション。今年はミラーボールを使っている。例年とは趣向が変わって新鮮だ。最初はギョッとしたが、慣れるときれいだと思うようになった。

 読響の今年最後の定期。オスモ・ヴァンスカの指揮でシベリウスの交響曲第5番、第6番そして第7番。シベリウス・イヤーを締めくくるに相応しいプログラムだ。

 第5番の冒頭、ホルンのハーモニーが美しい。柔らかく溶けあったハーモニー。朗々と響かせるのではなく、薄い一枚のヴェールのようなハーモニーだ。じつはこの音がその後の演奏を予告していた。

 ヴァンスカは本質的には(体質的にはというべきかもしれないが)速いテンポを持っている指揮者だが――そしてこの演奏でも目まぐるしく進む速いテンポは登場したが――、ぐっとテンポを抑えて動きを止める部分があった。その部分での音の薄さ(弱音のコントロール)が徹底していた。

 全体として、この第5番は、解放感、明朗さ、輝かしさといった性格が薄れて、むしろ抑制された渋さが滲み出た。これはたぶん意図的なものだ。第6番、第7番とセットで演奏するコンセプトに基づいたものだろうと思った。

 第6番は名演になった。冒頭の第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンのゆったりとした絡み合いが、明瞭に分離して聴きとれた。第5番よりもよく鳴るようになった。第1楽章のやや唐突な終わり方も手加減なし。曲の在りようを信頼した演奏だと感じた。第2楽章以下も、この曲の深い部分に触れていると、そんな実感を持てる演奏が続いた。

 インキネンが日本フィルを振ってこの曲を演奏したときは、第7番とつなげて演奏したので――その効果は絶大だった――、ヴァンスカはどうするのだろうと、固唾をのんで最後の音に聴き入ったが、普通に終わった。これもまたよし。

 第7番は、ヴァンスカの速いテンポが戻り、流動性の高い演奏になった。なるほど、ヴァンスカはこの曲をこう感じているのかと、わたしは納得した。

 当夜はコンサートマスターに荻原尚子という方がゲストで入っていた。どういう方だろう。敏捷でエネルギッシュな演奏だったように思う。第1フルートも(首席の倉田優さんではなく)別な人だった。丸みを帯びた柔らかい音を出していた。
(2015.12.4.サントリーホール)
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ファルスタッフ

2015年12月04日 | 音楽
 「ファルスタッフ」を12月にやるのは、――歌手の皆さんのスケジュールの関係だったろうが――じつにいいと思う。「世の中すべて冗談だ」と笑い飛ばすこのオペラほど年末に相応しいオペラはないと思う。年末の定番の「こうもり」のシャンパンの飲み過ぎで二日酔いのオペラよりもいいのではないだろうか。

 ジョナサン・ミラーが演出したこのプロダクションは、今回で3度目の上演だ。わたしは2004年のプレミエは観ることができなかったが、2007年の再演は観た。中村恵理のナンネッタに感心した。すごい素質の持ち主が現れたと思った。中村恵理は今やバイエルン州立歌劇場の専属歌手として活躍中だ。

 2度目だが、約8年の間隔があいたので、忘れていることが多く、今回、こんなに細かいことをやっていたのかと驚いた。一例をあげると、第2幕第2場でフォード率いる男たちがファルスタッフを探す場面で、当のファルスタッフは洗濯かごの中に隠れるが、あまりの暑さでヒー、ヒー言う。それを男の一人が耳にする。でも、自分の耳を疑うだけで、ファルスタッフが隠れているとは気づかない。でも、不審に思う。そんな具合に細かく作り込まれていた。

 今回の上演で最大の聴きものは、ファルスタッフ役のゲオルグ・ガグニーゼだった。幕開き冒頭の第一声から、他を圧するものすごい声だ。ファルスタッフ役は、一声で存在感を持つ歌手でないと務まらないと心底思った。

 ガグニーゼは今回がファルスタッフのロールデビューだそうだ。将来は当代きってのファルスタッフ歌いになるかもしれない。そのときは、ロールデビューの初日を聴いて、ブラヴォーを捧げたことを誇りにしようと思った。

 でも、今後のために、一つ注文をしておこう。第3幕冒頭の「ひどい世の中だ」のモノローグが、今一つ存在感に欠けた。さらなる陰影と老いの孤独をお願いしたい。

 フォード役のマッシモ・カヴァレッティもよかった。第2幕第1場の「夢かまことか」が迫力満点。このモノローグが「オテロ」のパロディーであることを実感させた。

 指揮のイヴ・アベルはテンポ設定が的確だ。第1幕第2場の9重唱のアンサンブルが快適なテンポで進み、そこにオーケストラが加わって、まるでもう一つの声部のようだった。また最後のフーガも目の覚めるような快速テンポで切れ味のいい演奏になった。歌手のみなさんも健闘した。
(2015.12.3.新国立劇場)
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