Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

旅行予定

2018年04月23日 | 身辺雑記
4月23日から山好きの友人たちとオーストリアのチロル地方に行ってきます。オペラの予定は1回だけです。帰国は5月1日の予定です。
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ルドン展

2018年04月23日 | 美術
 フランスの特異な画家ルドン(1840‐1916)の作品は、岐阜県美術館に充実したコレクションがあり、また三菱一号館美術館が「グラン・ブーケ(大きな花束)」を所蔵したので、多様な企画展が可能になっている。

 「グラン・ブーケ」のお披露目は2012年の「ルドンとその周辺」展だった。三菱一号館美術館が何だかとんでもない作品を所蔵したと聞いて、わたしも見に行った。今まで見たこともない大作。縦248.3㎝×横162.9㎝のパステル画。その画面いっぱいに花瓶と無数の花が描かれている。美しいとは思うが、その巨大さゆえに、どう捉えたらよいのか、持て余し気味だった。

 「グラン・ブーケ」はドムシー男爵の城館の食堂を飾るために描かれた。そのときルドンが制作した作品は総計16点。「グラン・ブーケ」以外の15点は、今はオルセー美術館が所蔵する。それらの15点を借りてきて、ドムシー男爵の食堂を再現したのが本展。

 「グラン・ブーケ」と同じサイズの作品が他に3点あり、「グラン・ブーケ」を含めた4点が主要な作品。その他、詳述は避けるが、2点で一対をなす作品が3組(6点)、天井近くの狭いスペースを飾る小品が6点、合計で16点。それぞれの作品が壁面のどの部分を飾っていたか。本展はそれを説明する。

 他の15点の色調は、黄土色(またはベージュ)が基本で、落ち着いたトーンになっている。一方、「グラン・ブーケ」は、花瓶の青と花々の多彩な色とが鮮やかで、他の15点とは色調が異なる。その「グラン・ブーケ」はパステルで描かれているが、他の15点は木炭、油彩、デトランプ(膠を使った技法)で描かれ、くすんだ色面になっている。

 加えて、巨大な花瓶が圧倒的な存在感を示す「グラン・ブーケ」の、その花瓶の青色は、他の15点の黄土色(またはベージュ)の色調と補色の関係に接近するので、それも計算されているかもしれない。

 また描かれたテーマも、他の15点が自然の中の樹木や草花であるのに対して(例外的に幻想的な人物が登場する作品が2点あるが)、「グラン・ブーケ」は花瓶に活けられた(摘まれた)花々なので性格が異なる。

 結論的にいうと、「グラン・ブーケ」は、オペラでいえば、華やかなプリマドンナのような作品だ。わたしが感じた(持て余すような)突出性は、意図されたものだろう。全体の文脈の中に置くと、それがよく分かった。
(2018.4.20.三菱一号館美術館)

(※)本展のHP(「グラン・ブーケ」などの画像が載っています。)
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ブロムシュテット/N響&インキネン/日本フィル

2018年04月22日 | 音楽
 昨日はN響のC定期と日本フィルの横浜定期の連荘だった。渋谷から横浜への移動が億劫だが、両方とも定期会員なので仕方がない。

 N響はブロムシュテットの指揮でオール・ベートーヴェン・プロ。ピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏はピレシュ)と交響曲第4番。ブロムシュテットの指揮はもとよりだが、「2018年かぎりで演奏旅行と公開演奏から退くことが報じられた」(プログラムのプロフィール)ピレシュのピアノ独奏が注目の的だった。

 ピレシュはおいくつなんだろうと、プロフィールを読み直したら、1944年生まれとあった。まだ70代の半ば。お見かけしたところ、老け込んでもいないので、引退するには早すぎるように傍目には見えるが、それも人生の選択、むしろいかにもピレシュらしい潔い選択かもしれない。

 まったく飾り気のない容姿の、その通りの演奏。輪郭のはっきりした音楽が流れ出る。ブロムシュテット指揮のN響も、一本の絹糸のような、繊細な、細心の演奏でピレシュを支える。ブロムシュテットからすれば10歳以上も若い(正確には17歳若い)ピレシュだが、そのピレシュを尊重する気持ちが伝わる。

 感銘深かったのは第2楽章。ピレシュの奏でる音楽の、静まり返った、冒しがたい孤独感は、今のピレシュの心象風景そのものではないか。わたしにはピレシュに掛けるべき言葉はなく、そっとピレシュを見守るだけ。そんなピレシュの姿がそこにあった。

 アンコールを弾いてくれた。子どもが無心にピアノを弾くような曲。だれの曲だろうと、休憩中にロビーの掲示を見に行くと、ベートーヴェンの「6つのバガテル」作品126から第5番ト長調とのこと。ベートーヴェンとは思わなかった。

 交響曲第4番は、ブロムシュテットらしいドライヴ感があり、勢いのよい、骨格のしっかりした演奏だった。随所でファゴットの妙技が光った。第2楽章でのクラリネットのソロも見事だった。

 短いプログラムだったので、余裕をもって横浜に行けた。日本フィルはインキネンの指揮で没後100周年のドビュッシー・プロ。「小組曲」(ビュッセル編曲)、「クラリネットのための第1狂詩曲」、「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」、交響詩「海」。インキネンが、軽く、フレッシュな音を求め、日本フィルもそれに応えた演奏。「海」ではドビュッシーのオーケストレーションが明瞭に表れた。
(2018.4.21.NHKホール&横浜みなとみらいホール)
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カンブルラン/読響

2018年04月21日 | 音楽
 カンブルランの読響常任指揮者としての最後のシーズンが始まった。来年3月の最後の定期ではシェーンベルクの「グレの歌」が予定されている。2010年4月の最初の定期ではシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」を取り上げた。それと対応するプログラムだろう。

 今月の定期はマーラーの交響曲第9番がメインだが、その前にアイヴズの「ニューイングランドの3つの場所」を置くところがカンブルランらしい。第1曲では真綿のような柔らかい音、第2曲ではコラージュのように浮き上がるリズム、第3曲では夢幻の世界に溶け込むような音色と、聴きどころに事欠かなかった。

 それを聴きながら、読響がカンブルランの下で手に入れた“抽斗”の多さを、今更のように感じた。読響は大きく成長した。思えばアルブレヒトが堅固な土台を築き、スクロヴァチェフスキが豊かな音楽性を注ぎ、カンブルランが柔軟性と多様性を付加した。読響は3代続けて常任指揮者に恵まれた。

 カンブルランのほうでも、読響との9年間は幸せだったろう。昨年の「アッシジの聖フランチェスコ」のような演奏は、どこのオーケストラとでもできるという代物ではない。今ではすっかりカンブルランのオーケストラになった読響。そういうオーケストラを持てたことは、生涯の中でそんなにあることではないだろう。

 メインのマーラーの交響曲第9番は、カンブルラン渾身の指揮。読響もそれに応えて、集中力の途切れない、筋肉質の演奏になった。それはカンブルランの音楽そのもの。荘厳な夕日を眺めて人生の黄昏を感じる、という演奏ではない。

 最後に弦楽器だけが残り、息が絶えるように切れ切れに、休止をはさみながら、一音一音をつぶやく箇所では、音楽が止まりそうな、一種の限界まで行った演奏だった。マーラーという作曲家を超えて、音が“音楽”として成り立つギリギリの演奏。

 息をつめて聴いていたが、そのときわたしは、いつか、どこかで、これと同じような経験をした気がした。それが気になっていたが、帰宅後、ふっと想い出した。カンブルランが読響を振ったリゲティの「ロンターノ」。日記を見たら2013年12月の定期だった。そのときの経験と似ていた。

 「ロンターノ」からの連想で、ウストヴォーリスカヤの「怒りの日」を想い出した。カンブルランが読響とともに挑戦したことは多彩だったと、あらためて思う。
(2018.4.20.サントリーホール)
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ジョージ・オーウェル「1984」

2018年04月19日 | 演劇
 高校2年か3年のときに、英語の副読本でジョージ・オーウェル(1903‐1950)の「アニマル・ファーム」を読んだ。最後までは行かなかったが、半分くらいは読んだ。おもしろくない本だと思った。だれかが「あれは革命後のソ連社会を風刺しているんだってね」といったが、そういわれても、ピンとこなかった。

 そのオーウェルのディストピア(反ユートピア)小説「1984年」が演劇化され、まずロンドンで上演された後、ニューヨークでも上演されたとき、観客の中に失神する人が出て騒動になったという記事を(たしか昨年)見かけた。その演劇版「1984」が今、新国立劇場で上演されている。

 原作は1948年の執筆(出版は翌年)。近未来の1984年の全体主義国家を描いた長編小説で、巻末に数ページの「附録」が付いている。「附録」では全体主義国家が言葉の管理をいかに徹底的に行ったか、それが一種学術的な文体で書かれている。それは今の我が国を想起させるようで恐ろしい。

 演劇は「2050年以降のいつか」(2050年とは言葉の管理が完了する予定だった年)に人々が原作の主人公ウィンストンが書き残した日記(=オーウェルの原作)を読む場面から始まる。1984年にはそんなことがあったのか、と。人々から離れたところに、ウィンストン本人がいる。人々の今=“2050年以降”とウィンストンの今=“1984年”とが同時に存在する。そしていつしか1984年に移行する。

 1984年に起きたことは何だったか。オーウェルが1948年に(今から70年前に)想像したディストピアは何だったか。それを2018年に生きるわたしたちはどう捉えるか、それが本作。

 わたしは、オーウェルの想像が杞憂だったのか、それとも現実はオーウェルの想像を(部分的にせよ)超えてしまったのか、それが一番気になる点だったが、今回の上演では、残念ながら、その点に関する明確な視点は見出せなかった。

 それは演出の小川絵梨子のためなのか、それとも国立の劇場でやる場合の限界なのか。もし後者なら、それこそ「1984」のメタシアターのようだ。

 登場人物たちの造形は、抽象的で、ソフトフォーカスというか、確かな実体に突き当たらないもどかしさがあった。その中にあって、ウィンストンを演じた井上芳雄が、おそらく持ち前の素質だろうが、みずみずしい感性を感じさせた。
(2018.4.17.新国立劇場小劇場)
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ブロムシュテット/N響

2018年04月16日 | 音楽
 ブロムシュテットは「2017年7月に90歳の誕生日を迎えた」(プログラムのプロフィール)そうだ。お元気な様子に驚く。今回Aプロでは、両親の祖国スェーデンの知られざる作曲家ベルワルドBerwald(1796‐1868)の交響曲第3番「風変わりな交響曲」をプログラムに組んだ。

 ベルワルドはシューベルト(1797‐1828)と同時代人。ただし、わずか31歳で亡くなったシューベルトと違って長命だった。プログラムノートによると、生前は作曲家としてなかなか認められず、ベルリンで「整形外科と理学療法の診療所を開業」したり、スェーデン帰国後は「ガラス器工場を経営」したりしたそうだ。

 交響曲第3番「風変わりな交響曲」は1845年の作品だが、初演は1905年。作曲者の没後50年ほどたっていた。どのような経緯で初演されたか、詳細は書いてなかったが、作品は大層おもしろかった。基本的には初期ロマン派風だが、緩徐楽章とスケルツォ楽章とが合体された第2楽章のスケルツォ部分とか、最後の第3楽章に、意表をつく動きが出てくる。

 弦は16型で演奏されたが、この曲の場合、そのような大編成が正解かどうか、疑問が残った。もっと小編成で演奏されるべき曲のように思えた。それをあえて大編成で演奏したのは、ブロムシュテットが次のベルリオーズ「幻想交響曲」に通じる要素を意識したからではないかと思った。

 「幻想交響曲」は、ブロムシュテットのレパートリーとしては、比較的珍しい部類に入ると思うが、暗譜で指揮したところを見ると、手の内に入っている曲かもしれない。がっしりした骨格を持つ堂々とした演奏。目の覚めるような美しい音が鳴っていることも再三あった。

 だが、わたしの心は離れていった。この曲の演奏には、若者の自己中心的なところが必要ではないかと思い始めた。そのような“ジコチュー”がないと、どういう演奏になるか、その一例を見ているような気がした。物理的なテンポ以上に心理的なテンポが遅く感じられた。

 コンサートマスターはライナー・キュッヒルが務めた。その効果は大きかった。N響の弦から熱い音が鳴った。それはコンセルトヘボウ管のヴェスコ・エシュケナージがコンサートマスターを務めるときにも感じること。N響が欧米の音楽マーケットで真のメジャー・オーケストラになるための鍵は、そこにあるかもしれない。
(2018.4.15.NHKホール)
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クラウス・フロリアン・フォークト

2018年04月15日 | 音楽
 先日、半休を取って、午後は国立西洋美術館で「プラド美術館展」を見て、夜は同美術館の向かいの東京文化会館でクラウス・フロリアン・フォークトのリサイタルを聴いた。

 フォークトのリサイタルは3月26日に引き続き2回目。今回はシルヴィア・クルーガーというソプラノ歌手とのデュオ・リサイタル。クルーガーという歌手は知らなかったので、事前にインターネットで検索したり、ナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗いたりしたが、出てこなかった。

 先に種明かしをすると、フォークトの奥様だった。事情に疎いわたしは、リサイタルが始まってからも分からず、途中の休憩でトイレに行ったら、だれかが「ずいぶん可愛らしい奥さんだね」と言っている声が聞こえたので、えっと思った。事務局の方に尋ねると、「そうです」とのこと。たしかにそんな(自然な)雰囲気があったと、言われて初めて気がついた。

 プログラム前半は、まずブラームスの歌曲4曲。内訳は「49のドイツ民謡」から2曲と有名曲「日曜日」そして「子どもの民謡集」から1曲。「日曜日」を除いて、民謡からの編曲もの。

 芸術歌曲よりも民謡に比重を置いたプログラミングが、このリサイタルの性格を表している。ドイツの家庭で歌われるような素朴な歌。フォークトと(その奥様の)クルーガーとが、自宅で友人知人を招いて家庭音楽会を開くような、そんなリラックスした雰囲気があった。

 次にシューベルトの「美しき水車屋の娘」から3曲。正直言って、3曲では物足りなかった。フォークトの軽い声は、傷ついた若者の心を歌うにふさわしい声なので、全曲か、あるいはいっそのこと「冬の旅」を聴いてみたいと思った。

 再び「49のドイツ民謡」に戻って2曲と「甲斐なきセレナーデ」という軽い曲。前半の最後はカールマンのオペレッタから1曲。貴公子然としたフォークトでオペレッタを聴く贅沢! デュエットの相手が奥様なので、男の色気は自粛気味だった。

 後半はモーツァルトとプッチーニを各1曲、レハールのオペレッタから3曲、そしてロイド=ウェバーとバーンスタインのミュージカルから3曲。じつはこれらのオペレッタとミュージカルに期待していたのだが、フォークトは本気を出さなかったようだ。なお、アンコールの3曲は楽しかった。

 ピアノ伴奏はイェンドリック・シュプリンガー。積極的な表現に目を見張った。
(2018.4.11.東京文化会館小ホール)
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プラド美術館展

2018年04月14日 | 美術
 今年の春のシーズンの展覧会は、見ておきたいものがいくつかあるので、早め、早めを心掛けなければならないと思いつつ、例によってぐずぐずしているが、先日、まずは大物からと「プラド美術館展」に行った。なにしろベラスケスの作品が7点も来ている。この時期、世界中からプラド美術館を訪れた人々は、さぞやがっかりしているのではないか‥と心配になる。

 ベラスケスの代表作の一つ「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」(1635年頃)が目に飛び込んできたとき、その清澄な空気感に打たれた。画集で何度も見た作品だが、その空気感は実物を見ないと分からない。王太子が跨っている馬の胴体が、不自然なくらいに堂々としているのは、本作が戸口の上に掛けられ、それを見る者は低い位置から見上げることを考慮したためとか。なるほど、と納得。

 本作と向かい合わせに「バリェーカスの少年」(1635‐45年)が展示されている。少年は小人で、脳に障害があった。ヴェルディのオペラ「リゴレット」を持ち出すまでもなく、当時の宮廷には、身体に障害を持つ人々が“道化”として仕えていた。少年は王太子の遊び相手。その二人が向かい合って展示されている。わたしはその中間に立って、二人を交互に見比べた。

 美しく盛装した王太子が、遥か遠くの山並みを背に、凛とした風情で馬に跨っているのとは対照的に、少年は粗末な身なりで、岩陰に腰を下ろしている。だが、人間らしい表情は、むしろ少年のほうにある。わたしが共感できるのは少年のほう‥、いや、控えめにいっても、少年には王太子に劣らないくらいの人間性が感じられる。少年は王太子とともに、永遠の存在になったと思う。

 展示方法に一工夫あったことも見逃せない。「バリェーカスの少年」の両横に、他の画家の作品で、同じく小人の“道化”を描いた作品が展示されている。それらの作品には宮廷人の“上から目線”が感じられる。

 一方、「バリェーカスの少年」にはそれがなく、一人の人間を見る画家の視線がある。それが傑作である所以だと、本展は分かりやすく説明している。

 ベラスケス以外にも、スルバラン、ムリーリョ、リベーラなどのスペインの画家、またティツィアーノ、ルーベンスなどの大家の作品が来ている。また、これは見てのお楽しみだが、「巨大な男性頭部」(1634年頃)という異形の作品がある。一見、現代アートかと見紛う作品だ。
(2018.4.11.国立西洋美術館)

(※)本展のHP(ベラスケスの上記2作品の画像が載っています)
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大野和士/都響

2018年04月11日 | 音楽
 大野和士指揮都響のマーラーの交響曲第3番。大野和士は都響の音楽監督就任以来、都響のベースにはマーラーがあるものの、その周辺にもレパートリーを広げたいとの意思のもとで、自らはツェムリンスキーやフランツ・シュミットなどを手掛ける一方、マーラーはフルシャなどの客演指揮者に委ねることがあったが、今回は自らの指揮。

 第1楽章は、明暗のコントラストというか、光と影とがくっきり描かれた演奏。その対照が長大な楽章を一気に聴かせた。音楽の流れが錯綜することは皆無。つねに明晰な意識が働いている。フレージングは“しなる”よう。鞭がしなるような、そんな強靭な“しなり”がある。また、重心が低いので、音楽に安定感がある。

 第2楽章が、他の人たちの演奏と比べた場合、もっとも特徴的だった。むせかえるような芳香を放つ演奏。あまりの熱量に目を見張った。長大な第1楽章が終わった後のほっとするような、一息つく楽章ではなかった。

 帰宅後、プログラムを読んだら、奥田佳道の大野和士へのインタビュー記事が載っていた。奥田氏の「マーラーの交響曲第3番、知将大野和士、解釈のキモは?」との問いに、大野和士はこう答えている。

 「第2楽章です。力強く、決然とした楽章――ベートーヴェンの頃だったら交響曲ひとつ分のような第1楽章から、テンポ・ディ・メヌエット(の楽章)へ移るわけですが、あの間と、イ長調の第2楽章が第3番のキモですね。」と。第2楽章の重要性に着目する大野和士の見方が興味深い。

 第4楽章のニーチェによる「ツァラトゥストラの真夜中の歌」を歌ったのは、フィンランドの歌手リリ・パーシキヴィ。声の存在感はさほどないが、艶のある声でオーケストラに溶け込んでいた。矢部達哉のヴァイオリン、広田智之のオーボエ、それぞれのソロが光った。

 最後の第6楽章では、前述した光と影のコントラスト、明晰な意識、フレージングの“しなり”、重心の低さという特徴が表れ、これまた一気に聴かせた。神の愛に到達しようとして2度挫折し、しかしその2度目の挫折の直後に、天啓のように光が射す、そのフルートの音が、今回ほど意義深く聴こえたことはない。精霊の鳩が舞い降りるようだった。

 全曲を通してトロンボーンのソロが特筆ものだった。また第3楽章で舞台裏から聴こえるポストホルン(トランペットで代用)も安定していた。
(2018.4.10.サントリーホール)
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須賀敦子「ユルスナールの靴」

2018年04月08日 | 読書
 須賀敦子(1929‐1998)の「ユルスナールの靴」(1996)を読んだ。ユルスナール(1903‐1987)はフランスの作家。その生涯と作品を辿りながら、そこに須賀敦子の人生を織り込む作品。

 わたしはユルスナールという作家を知らなかった。そんなわたしが本書を読んで何が分かるのかと、読む前はためらったが、読んでみると、須賀敦子のいつもの滑らかな語り口がそこにあり、また須賀敦子の人生の出来事、そしてユルスナールへの興味が募り、あっという間に読み終えた。

 須賀敦子の第1作「ミラノ 霧の風景」は、20年ほど前のイタリアでの生活の、その切り取り方の鮮やかさが印象的だった。第2作の「コルシア書店の仲間たち」と第3作の「ヴェネツィアの宿」も、基本的には同じ趣向だが、そこに挿入される須賀敦子の人生は、イタリア時代から徐々に離れて、幼年期から60歳代を迎えた「今」にまで広がった。

 第5作に当たる本書は、先ほども触れたように、自身の人生と、ユルスナールの人生と作品とが、2本の糸のように縒り合わされているが、そのユルスナールの部分が、真正面からユルスナールと向き合い、その人生を捉えようとしている点に、以前の作品にはないものを感じた。

 話は時々脱線気味になり、ギリシャの遺跡テセイオンの話になったり、18世紀イタリアの画家・版画家ピラネージの話になったりするが、それらを含めて、須賀敦子が触れたヨーロッパを総体的に語ろうとする姿勢が現れている。その意味で、本書は須賀敦子のヨーロッパ体験のまとめの第一歩のように感じる。

 友人との読書会のために、3月中は須賀敦子の作品を集中的に読んだが、その中でわたしは、須賀敦子がイタリア人ペッピーノと結婚したのは、ペッピーノが体現しているイタリア文化を総体として捉えようとしたのではないかと思った。それは音楽評論家の吉田秀和(1913‐2012)がドイツ人バルバラと結婚したのと似ているのではないか、と。

 読書会で友人にそのことを話したら、友人も首肯して、こう言った、「須賀さんの文体は吉田さんのと似ているね。きっちりしていて、感性も豊か」。わたしはそれを聞いて、自分がなぜ須賀敦子に惹かれたのか、その理由が分かった。

 気になったので調べてみたら、須賀敦子がパリ留学に旅立ったのが1953年、吉田秀和がアメリカ経由でヨーロッパに旅立ったのも1953年、二人は同じ頃にパリにいた。
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「須賀敦子の手紙」

2018年04月05日 | 読書
 須賀敦子(1929‐1998)の全集には手紙や日記も収録されているが、全集刊行後に出てきた手紙55通があり、それは「須賀敦子の手紙」として出版されている。手紙のあて先は日本文学研究者のアメリカ人、ジョエル・コーン(1949‐)とその妻の日本人、スマ・コーン(1942‐)。手紙が書かれた時期は、夫のペッピーノが亡くなって日本に帰り、しばらくたった時期の1975年から、須賀敦子が亡くなる前年の1997年まで。

 本書にはそれらの手紙が収められているが、驚いたことには、便箋、絵葉書、原稿用紙などに書かれた手紙が、封筒をふくめて、すべて写真で掲載されている。須賀敦子が書いた手紙を、手書きのまま読めることは、興味が尽きない。丸みを帯びた字体から、須賀敦子の人柄が伝わってくるから。

 須賀敦子の妹の北村良子氏が、「姉があんなにのびのびと書いている手紙は読んだことがありませんでした。構えないで書いていて、しかも姉らしさが全体にあふれていて。」と語っている通りの文面。

 意外な事実がいくつかあった。一つは、須賀敦子が恋をしたらしいこと。1977年5月17日の手紙には、「もう私の恋は終わりました。その人をみてもなんでもなくなってしまった。これでイチ上り。一寸淋しいきもちだけどしずかで明るいかんじも戻ってきました。」というくだりがある。

 相手はだれだろう、という気持ちを抑えきれないが、ともかく1977年というと、ペッピーノが亡くなってから10年、須賀敦子はまだ48歳なので、恋があってもおかしくない。

 もう一つは、コーン夫妻を訪ねて、1983年、84年、87年と3回ボストンへ旅行し(83年のときはニューヨークも訪れた)、また89年にはハワイへ旅行していること。須賀敦子とアメリカとはイメージが結びつかないが、アメリカも気に入ったらしい。1984年1月5日の手紙には「アメリカを一寸知ったことは、本当に大きなショックでした。」とある。

 巻末でコーン夫妻が、須賀敦子の「おすまさんのこと」というエッセイに触れて、「須賀さんは上手にフィクションを入れて書くところがありますから、そう書いたんでしょう。」と語っている箇所がある。

 その箇所は、須賀敦子自身、記憶違いの可能性を考えて、慎重な書き方をしているようだが、別のエッセイでは一部「フィクション」の可能性はあるのだろうか。須賀敦子の筆致の鮮やかさゆえに、妙に気になった。
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須賀敦子詩集「主よ 一羽の鳩のために」

2018年04月03日 | 読書
 須賀敦子(1929‐1998)の作品を読み続けていた3月中旬に、某新聞の文化欄に、若き日の須賀敦子の詩が見つかり、出版されるという記事が載った。須賀敦子に没頭しているまさにそのときの記事なので、これにはびっくりした。翌日さっそく書店に行ったら、新刊本のコーナーにその詩集はあった。

 今年は須賀敦子の没後20年。それを契機に、須賀敦子の全集を担当した編集者が、遺族から預かっていた遺品を整理したところ、ノートやタイプ用紙、和紙に書かれた詩が44編見つかった。須賀敦子は生前、自作の詩について語ったことはなく、また遺族もその存在を知らなかったという。

 書名になった「主よ 一羽の鳩のために」の詩句をふくむ詩は、「同情」というタイトルの詩(多くの詩にはタイトルが付いていないが、本作をふくめて何作かにはタイトルがある。同情という言葉は「共苦」という意味で解すべきと思われる)。

 場所はロンドンのヴィクトリア駅。つめたい秋の朝のラッシュアワーに、鳩の群れがパン屑をついばんでいる。青、灰、緑の鳩たち。その群れからはずれて、セピア色の一羽の鳩が、背に首をうずめて、じっとしている。

 須賀敦子はその鳩に呼びかける。「あァ/わらっておくれ/うたっておくれ/せめて みなにまじって/わたしを安心させておくれ。」そして、こういう、「いろがちがふからといって/なにも おそれずとよいのだ。」と。

 一羽だけ色の違う鳩は、須賀敦子自身のメタファーだろう。本作には1959年9月7日の日付がある。当時の須賀敦子の心象風景が投影されていると考えていい。須賀敦子にはいつも多くの友人がいたが、そのことと「一人でゐるといふこと」(本詩集の巻頭に掲げられた言葉)とは矛盾しなかった。

 今回発見された44編にはすべて日付が付いている。それは1959年1月19日から同年12月までの間。須賀敦子は1958年8月末に日本を発ち、パリを経由して、ローマの大学で聴講を始めた。1959年8月にはロンドンへ旅行し、エジンバラまで足を延ばした後、10月にローマへ戻っている。1960年1月にはペッピーノと出会い、9月にミラノに転居(同月にペッピーノと婚約し、翌年11月に結婚)。

 44編の詩はペッピーノと出会う前の須賀敦子の姿を、その詩句にとどめている。上に引用した詩もそうだが、どの詩も平明で透明な言葉で書かれ、そこに須賀敦子の若い感性がふるえている。
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