Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

チューリッヒ:パレストリーナ

2011年12月29日 | 音楽
 旅の最終日はチューリッヒに移動してプフィッツナーの「パレストリーナ」を観た。

 演出はイェンス・ダニエル・ヘルツォーク。パレストリーナはイタリア・ルネッサンスの大作曲家だが、ヘルツォークはこれを現代の老いた作曲家に置き換えた。第1幕はピアノが1台あるだけの質素な仕事部屋。パレストリーナは妻を亡くし、音楽的にも時代遅れになっている。ボロメーオ枢機卿が訪れてミサ曲の作曲を求める場面からは、リヴィングルームが舞台になる。

 面白かったのは第2幕だ。トレント宗教会議の場はなんとこのリヴィングルームがその場だ。回転舞台が使われて、キッチン、トイレ、物置、寝室などが現れる。ヨーロッパ諸国から集まった聖職者たちが我がもの顔で闊歩し、ワインを飲んだり、排便したり、男色にふけったりする。スペイン側の貴族が、対立するイタリア側の司教を買収するなど、芸が細かい。驚いたことには、この幕には登場しないはずのパレストリーナもそこにいて、なすすべもなく呆然と見ている。幕切れではイタリア側の従者とスペイン側の従者が喧嘩を始めて、マドルシュト枢機卿が鎮圧のために発砲するが、こともあろうに銃はパレストリーナに向けられ、撃ち殺される。

 第3幕は再びパレストリーナの仕事部屋。パレストリーナは床に倒れている。徹夜でミサ曲を作曲したため、疲れてそのまま眠ってしまったのだ。第2幕はそのとき見た悪夢だ。息子のシッラが男たちを引き連れて現れる。サンタ・マリア・マッジョーレ教会の聖歌隊も、法王ピオ4世も、みんなシッラが雇った男たちの変装だ。人生に悲観した父を励まそうと、シッラが仕組んだ芝居だ。男たちはそれぞれの役を果たし、シッラから小銭をもらって退出する。最後に一人になったパレストリーナは、ピストルで自殺しようとするが、果たせず、力なくうなだれて幕になる。

 パレストリーナに勝利は訪れないけれど、シッラの親思いの情が感じられて、温かい幕切れだった。

 指揮はインゴ・メッツマッハー。エネルギッシュな指揮は、ますます磨きがかかった感じだ。ドイツ的な骨太の演奏。ティーレマンの華やかさとは異なった、いぶし銀のような個性だ。

 パレストリーナ役はロベルト・サッカ。パレストリーナの悲哀を表現して感動的だった。当劇場の顔のアルフレート・ムフも、マドルシュト枢機卿と法王ピオ4世(に扮する男)役で健在だった。
(2011.12.21.チューリッヒ歌劇場)
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ウィーン:オルフェオ

2011年12月28日 | 音楽
 モンテヴェルディの「オルフェオ」の公演では、開演前に劇場責任者がマイクをもって現れた。オルフェオ役のジョン・マーク・エインズリJohn Mark Ainsleyが調子を崩したので、代わりにアポロ役のミルコ・グァダニーニMirko Guadagniniが歌うとのこと。ピットのなかには、黒い服装のオーケストラ団員に交じって、白い服装の人がいる。その人がグァダニーニだ。グァダニーニはピットのなかで歌い、エインズリは舞台で演技をするという段取りだ。

 指揮はアイヴォー・ボルトン。第1幕が始まってしばらくすると、オルフェオの出番になる。グァダニーニが立ち上がって歌い始める。張りがあり、感情のこもった、力強い歌唱だ。ボルトンもグァダニーニにかかりっきりで細かく表情をつけていく。グァダニーニも一心不乱にボルトンを見て、上半身を大きく揺らしながら、劇的に歌っていく。わたしの席は最前列だったので、2人の緊張したやりとりが目の前で飛び交い、圧倒された。

 最後にはアポロの出番がある。そのときはどうするのだろうと思った。劇場責任者はそれも説明したのだが、実はよくわからなかった。さてその場面になると、グァダニーニはピットを離れて舞台に現れ、アポロ役を歌った。代わりに4人の羊飼いのうちの一人がピットに入ってオルフェオ役を歌った。グァダニーニにくらべて非力だが、それは仕方がない。

 舞台上のエインズリは熱演だった。声が出ない分、演技に最善を尽くしていた。

 カーテンコールでエインズリとグァダニーニが肩を組んで登場したとき、客席からは大きな拍手と歓声が起こった。感極まって抱擁する二人。ベテランのエインズリの急場を若いグァダニーニが救った構図が美しかった。

 演奏はフライブルク・バロックオーケストラ。わたしは初めて聴いたが、世評の高い団体だけあって、表情豊かな瑞々しい演奏をする。なるほど、今のピリオド楽器の演奏はこうなのかと瞠目させられた。通奏低音はモンテヴェルディ・コンティヌオ・アンサンブル。アイヴォー・ボルトンが主宰する団体だ。

 演出はクラウス・グート。2階建の屋敷のなかで物語が展開する。三途の川の渡し守カロンテと地獄の王プルトーネは同一人だ(エウリディーチェの父親のように見えた)。オルフェオは大量の薬物を飲んで自殺する。救済は訪れない。いかにもグートらしい演出だった。
(2011.12.20.アン・デア・ウィーン劇場)
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ウィーン:ダフネ

2011年12月27日 | 音楽
 リヒャルト・シュトラウスの「ダフネ」。演出はニコラ・ジョエル(現パリ・オペラ座総支配人)。これは2004年6月のプレミエだ。

 舞台は古色蒼然とした豪邸の室内。中央に寝椅子がある。ダフネがまどろんでいる。左にはアポロ像、右にはディオニソス像。アポロ像の下にはアポロその人(というか、神アポロ)がうずくまっている。どうやらいつもダフネを見ているうちに、恋わずらいをしてしまったらしい。寝椅子の向こうには巨大な窓がある。その窓からロイキッポスが現れ、ダフネに求愛する。心中穏やかではないアポロ。

 ドラマは主として窓の向こうで進行する。客席から観ると、舞台のプロセニアム・アーチと窓枠との二重の額縁が存在する。時々なにかの拍子に窓枠のこちら側にはみ出すことがあるが、基本的には二重の額縁のなかだ。これがだんだんまだるっこしくなった。

 最後のダフネの変容では、ダフネが窓の向こうの大木のなかに包み込まれ、姿が見えなくなる。アポロは空っぽの寝椅子を見て悄然とする。これは夢ではない。少なくともアポロにとっては現実に起こったことだ。

 けれども、だからどうなのだ、という気がしないでもなかった。

 わたしは東京二期会の「カプリッチョ」を思い出した(ジョエル・ローウェルス演出)。あの演出はその作品が作られた時代がどういう時代だったかを視覚化する演出だった。「ダフネ」も、「カプリッチョ」と同じように、時代にたいして反語的な性格をもつ作品だ。必ずしもそれをストレートに表現しなくてもよいが、まったく問題意識がないのも物足りなかった。

 アポロはヨハン・ボータ、ロイキッポスはミヒャエル・シャーデ。この二人の競演は世界最高クラスだ。ここまでいってしまうと、実は演出などどうでもよいという気になる。ダフネはミーガン・マリー。だんだん調子を上げていって、最後の長大なアリアでは聴衆を惹きつけた。ペナイオスのゲオルグ・ツッペンフェルト、ゲアのエリザベト・クルマンも申し分なかった。

 シモーネ・ヤングの指揮は初めて聴いた。オーケストラがよく鳴り、情熱的でドラマティックな、ドイツの巨匠風の指揮だ。いうまでもなく女性指揮者だが、音楽的なアイデンティティは男性だ。わたしはハンブルク・フィルを振った一連のブルックナーの交響曲の初稿のCDを愛聴しているが、生は印象が相当ちがった。
(2011.12.19.ウィーン国立歌劇場)
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ウィーン:死者の家から

2011年12月26日 | 音楽
 ペーター・コンヴィチュニー演出のヤナーチェクの「死者の家から」。これを観るのが今回の旅の目的のひとつだった。

 舞台はシベリアの流刑地から近代的なビルの一室に変わっている。白くて清潔な広い部屋だ。多数の椅子とテーブルが並んでいる。向かって左側には飲み物を提供するカウンターがある。囚人たちは黒いスーツを着た紳士たち。監獄所長だけは上着が白いので見分けがつく。

 アリイエイヤがズボン役ではなく、男声歌手(テノール)によって歌われることが、重要な変更点だ。これによって、ほんとうに男だけの世界になる。ヤナーチェクがこの役にカミラ・ステッスロヴァーの面影を投影したことなど、あっさり放棄されている。

 第1幕ではゴリャンチコフのむち打ちの刑が、監獄所長の命令による集団リンチに変わっている。叩きのめされてテーブルにうつ伏せになり、両腕をだらりと下げたその姿が、羽の折れた鷲の代わりだ。ドストエフスキーの原作ではあの鷲は「自由」の象徴ではなく、たんに監獄で見かけた動物のひとつにすぎない。そこに「自由」の意味を込めたのはヤナーチェクだ。コンヴィチュニーの演出はその象徴性を剥奪したものだ。

 休憩なしで第2幕に入る。例の劇中劇は、囚人たちの素人芝居ではなく、外から招いたエロティックショー。最後のアリイエイヤの怪我の場面は、全員の乱闘になり、全員が怪我をする。

 休憩なしで第3幕。ここでも重要な変更があった。このオペラの最大の山場、シシュコフのモノローグの場面で、シシュコフの人生を台無しにした男が、実は同じ監獄にいるルカにほかならないと気付くくだりが、ルカとは特定されず、どの男かわからなくなっている点だ。このくだりもドストエフスキーの原作にはなく、ヤナーチェクの創作だ。

 幕切れのゴリャンチコフの解放の場面では、巨大なロシア人形マトリョーシカのなかに入れられたゴリャンチコフが、監獄所長によって頭を撃ち抜かれる。解放とは死のことだ。きわめてペスミスティックな終わりかた。同じように閉塞状況を描いた東京二期会の「サロメ」のときとは逆の終結だ。これがコンヴィチュニーの今なのだろうか。

 ウェルザー=メストが指揮するオーケストラはものすごく気合いが入っていた。コンサートマスターはライナー・キュッヒル、その隣にライナー・ホーネック。歌手では、群像劇というこのオペラの性格上、とくにだれが目立つということはないが、スクラトフ役のヘルベルト・リッペルトがさすがの存在感だった。
(2011.12.18.ウィーン国立歌劇場)
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ウィーン雑感

2011年12月24日 | 身辺雑記
 オペラの感想の前に、雑感を。

 往きの飛行機はガラガラだったので、ゆっくり眠れました。お陰でウィーンに着いた時には元気だったので、ホテルにチュックインしたその足でコンサートに出かけました。ムジークフェラインの大ホールでバッハの「クリスマス・オラトリオ」(第1部~第3部と第6部)の演奏会です。演奏はシュテファン大聖堂のオーケストラと合唱団。これが思いがけずよかった! 合唱団はプロではないかもしれませんが、身体を波のように揺らして、音楽する喜びに溢れていました。音程もリズムもバランスも立派なもの。オーケストラはピリオド楽器で、歯切れがよく、こちらはプロかもしれません。指揮はシュテファン大聖堂のカペルマイスターのMarkus Landerer。

 この演奏には、バッハの音楽は自分たちのもの、という雰囲気がありました。言葉がドイツ語、つまり自分たちの言語であることもその一因だと思います。それが羨ましかった、というのが率直な感想です。

 翌日からは、午前中は美術館に行って、昼食後、早めにホテルに戻り、身体を休めて夜のオペラに備える、といういつものパターンを繰り返しました。なので、訪れた美術館は3か所だけ。これが実に辛いところです。今回行ったのは、美術史美術館とレオポルド美術館とベルヴェデーレ宮殿。ほかにも行きたい美術館があったので、夜のオペラがなければ、はしごをしたいところでした。

 美術史美術館の層の厚さはあらためていうまでもないですね。今回も圧倒されました。

 レオポルド美術館ではリヒャルト・ゲルストル(1883~1908)の作品に出会いました。遠い彼方から蘇ってきた記憶によると――シェーンベルクの若い友人で画家だったゲルストルは、シェーンベルクの妻マティルデと深い関係になって、シェーンベルクは苦悩し、ゲルストルは自殺しました。展示室では、その頃作曲された弦楽四重奏曲第2番が、ヘッドフォンで聴けるようになっていました。ゲルストルの自画像を観ながら聴いていると、息詰まるような気がしました。パネルには、シェーンベルクが書いたもっともエモーショナルな曲、と書いてありました。

 ベルヴェデーレ宮殿の帰りに乗ったトラムはハイリゲンシュタット方面行きでした。そういえば、ハイリゲンシュタットには行ったことがありません。せっかく何度かウィーンに来ているのに、行ったことがないとは、なんと怠慢なことでしょう。
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帰国報告

2011年12月23日 | 身辺雑記
予定どおり本日帰国しました。今回観てきたオペラは次の4本です。
12月18日(日)ヤナーチェク「死者の家から」(ウィーン国立歌劇場)
19日(月)シュトラウス「ダフネ」(ウィーン国立歌劇場)
20日(火)モンテヴェルディ「オルフェオ」(アン・デア・ウィーン劇場)
21日(水)プフィッツナー「パレストリーナ」(チューリッヒ歌劇場)
後日また感想を書かせていただきます。
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旅行予定

2011年12月16日 | 身辺雑記
明日から旅行に行ってきます。ウィーン4泊、チューリヒ1泊で、23日(金)に帰国予定です。帰国したらまた報告します。
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サティアグラハ

2011年12月14日 | 音楽
 METライブビューイングでフィリップ・グラスのオペラ「サティアグラハ」を観た。今年11月19日のメトロポリタン歌劇場における公演。

 このオペラはインド独立の父マハトマ・ガンディーの青年時代を描いている。ガンディー(1869~1948)は、ロンドンで法律を学んだ後、1893年に南アフリカで弁護士の仕事に就いた。当地で経験したインド人への差別と、それにたいする抵抗運動が、ガンディーの思想の核となった。このオペラはその時期のガンディーを描いたもの。

 サティアグラハSatyagrahaとはサンスクリット語で「真理の把握」を意味する(メトロポリタン歌劇場のホームページ上の日本語版「あらすじ」による。英語版では“truth force”or“holding onto the truth”と説明されている。)。ガンディーの思想の根幹をなすものだ。

 全3幕。第1幕と第2幕はそれぞれ3場に分かれる。第3幕は1場。各幕各場が当時のガンディーの重要な出来事を描いている。

 ユニークな点は、物語の展開と、歌手によって歌われる歌詞とが、各々独立していることだ。物語の展開はホームページ上の「あらすじ」で周知され、さらに舞台上でも字幕によって紹介される。一方、歌詞はヒンドゥー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」の言葉がそのまま使われる。つまりサンスクリット語だ。ホームページには英訳が載っているし、舞台上でも字幕が出る。その内容は興味深い。でも聞いただけでわかる人はほとんどいない。それでよいのだ。サンスクリット語がフィリップ・グラスの音楽に乗っているのを聴けばよいという趣向だ。

 グラスの音楽は美しかった。小さなフレーズが無限に繰り返される下地の上に、息の長い抒情的なラインが伸びていく。フレーズの繰り返しには時々小さな変化が生じるが、繰り返しの波は乱れない。どこまでも続くその波に乗っているうちに、一種のトランス状態になる。この音楽は冒頭からわたしの琴線にふれた。

 ガンディー役はリチャード・クロフト。テノールの澄んだ声がガンディーの心情を表現し、またグラスの音楽の美しさを伝えていた。合唱団の圧倒的な迫力も特筆ものだった。

 特徴的なことは、The Skills Ensembleという即興的なパフォーマンス集団が参加していることだ。巨大な人形によるパフォーマンスや、大量の新聞紙(当時のインディアン・オピニオン紙)によるパフォーマンスで楽しませてくれた。
(2011.12.13.東劇)
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インバル/都響

2011年12月13日 | 音楽
 インバル/都響の12月定期Aシリーズ。今シーズンのインバルはショスタコーヴィチを集中的に取り上げている。来シーズンはマーラーに戻るから、ショスタコーヴィチは今シーズンかぎり。今回はチェロ協奏曲第2番と交響曲第5番が演奏された。

 チェロ協奏曲第2番はイスラエルの若手ガブリエル・リプキンの独奏。ロストロポーヴィチの旧盤(スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立響との実況録音)が耳にこびりついている身としては、なるほど新世代の奏者はこう弾くのかと新鮮に映った。一見淡々と、軽く、滑らかに弾き進んでいく。これはこれで作品と一体化している。しかも最後の瞬間には思いがけない深淵に到達した。ロストロポーヴィチの熱い思い入れをこめた、神経を極限まで張り詰めた演奏とは対照的な道をいきながら、最後に到達する地点は同レベルだった。

 本作は1966年の作曲・初演。ショスタコーヴィチの作品は、アンファン・テリブルの時代(交響曲でいえば第4番まで)、二重言語の時代(第5番から第12番まで)そして晩年の時代(第13番以降)に分かれると思うが、本作はその晩年の時代に属する。

 その演奏を聴きながら、これは音楽のスフィンクスだと思った。なにかを語っているのだが、それがなにかはわからない。なにかのわだかまりがそこにあるのだが、なにかはわからない。謎のまま在る音楽。わからないままに、暗い深淵をのぞく音楽。

 最後の打楽器による機械仕掛けのおもちゃの音型にはハッとした。そうだった、この曲にはこの音型が出てくるのだと思い出した。わたしの知っているかぎりでは、交響曲第4番に出てきて、本作で思い出したようにまた出てきて、人生にピリオドを打つように第15番でも出てくる音型。これはいったいなんだろう。

 チェロの音が消えたとき、間髪を入れずに拍手をした人がいた。これにはがっかりした。演奏後の緊張を保てないのだろうか。なお、ついでながら、都響では毎回ブラヴォーを叫ぶ人がいる。同じ人のように聞こえるが、どうなのだろう。

 次の交響曲第5番は、緊張感のある音、大きく弧を描く旋律線、壮麗なトゥッティ、どっしりした構築感等々、いかにもインバルらしい演奏だった。けれどもわたしは、インバルがどのような問題意識をもって演奏しているのか、途中からわからなくなった。

 終演後、盛大な拍手とブラヴォーが起こったときには、なにか取り残されたような気がした。
(2011.12.12.東京文化会館)
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山田和樹/日本フィル

2011年12月11日 | 音楽
 日本フィルの12月定期は、今年4月に来日をキャンセルした指揮者に代わって日本フィルを振った山田和樹さんの再登場。4月にはマーラー2曲とモーツァルトを好演して鮮烈な印象を残した。今回はヴァラエティに富むプログラム。山田さんの「今」を窺い知る興味深い機会だった。

 1曲目はドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」。温かくて甘美な音色は4月のマーラー以来だが、それに加えてここには濃密なドラマがあった。わずか10分程度のこの曲にこれほどのドラマを見出すとは、驚くべき才能だ。山田さんはヨーロッパでの活動が目覚ましいが、それはほかでもない、このような才能が認められているからだろう。

 2曲目はモーツァルトの交響曲第31番「パリ」。率直にいって、これはあまり印象に残らなかった。おのずから湧き起こる音楽の愉悦、といったものが不足していた。この曲は練習量が少なかったのではないか。山田さんならもっと愉悦にとんだモーツァルトが期待できるはずだ。

 3曲目のベルクの「ルル」組曲は、この日一番の聴きものだった。甘美な音色と濃密なドラマは1曲目のドビュッシーの路線上にあり、これがベルクの官能的な音楽と相俟って、壮大なドラマを形成していた。正直にいって、日本フィルがベルクの音楽をこれほど表現できるとは、嬉しい驚きだった。

 ソプラノ独唱は林正子さん。起伏の大きな、思い入れたっぷりの歌唱だった。わたしの好みでは、もう少し軽さがあってもよいと思うが、考えてみると、この曲でそういう歌唱を聴いたことがない。オペラ全曲でならともかく、単独で取り出すと、どうしても力が入ってしまうのかもしれない。なおこの日は、最後のゲシュヴィッツ伯爵令嬢の絶命の部分にも歌が入った。

 本作の曲名は、今では「ルル」組曲が定着しているが、昔は「ルル」交響曲という名称も使われた。第3楽章の「ルルの歌」を扇のかなめにして、第2楽章と第4楽章、第1楽章と第5楽章がそれぞれ対応するシンメトリック構造なので、マーラーのような交響曲と考えることにも一理あると思った。なお原題はSymphonische Stuecke aus der Oper“Lulu”(オペラ「ルル」からの交響的断章)。

 4曲目はラヴェルの「ラ・ヴァルス」。1曲目のドビュッシーのモードに立ち返り、そこにダイナミックさを加えた演奏。甘美で容赦のないドラマが渦巻いた。
(2011.12.9.サントリーホール)
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ロートレック展

2011年12月09日 | 美術
 三菱一号館美術館で開催中の「トゥールーズ=ロートレック展」は、思いがけず、ほのぼのとした気分になれる展覧会だった。一夜明けた今日もまだその余韻が残っている。年末にこのような気分になるのはよいものだ。

 ロートレックというと、「蕩児の帰郷」というイメージがある。貴族の生まれだが、パリのモンマルトルで放蕩の生活を送り、そのあまり体を壊して、母のもとに帰って36歳の短い生涯を終えた。子どもの頃の骨折がもとで両脚の発育が止まり、畸形だったことが、そのイメージを彩っている。

 ところが本展から感じられるニュアンスは、少しちがっていた。

 本展は三菱一号館美術館が保有する「モーリス・ジョワイヤン・コレクション」を主体とするもの。同コレクションは、ロートレックが手元に保管していた250点あまりのポスターと版画(リトグラフ)を、ロートレックの死後、学生時代からの親友であったジョワイヤンが一括して保管したものだ。三菱一号館美術館が、オープンに当たり、これを購入した。

 同コレクションを初公開するのが本展なので、本展はそもそも二人の友情から成り立っている。全体に温かさが感じられる。最後のコーナーで1900年(ロートレックが亡くなる前年)の写真を見たとき、熱いものがこみ上げてきた。これは、衰弱したロートレックを慰めようと、友人たちが海辺で鵜狩りを催したときの写真だ。ボートを降りて、ジョワイヤンに背負われるロートレック。ロートレックは子どものように楽しそうだ。

 この時期に描かれた油彩画「モーリス・ジョワイヤン」は、ロートレックによる友情のあかしだ。衰弱にもかかわらず、精一杯の輝きが感じられる。本作は、三菱一号館美術館の姉妹館の、ロートレックの生地アルビのトゥールーズ=ロートレック美術館から来ている。同館の設立に尽力したのもジョワイヤンだ。

 もう一枚、気持ちのよさそうな木陰のテーブルで、母とくつろぐ写真があった。場所はマルメロ城。ロートレックの実家はお城だった。上品で美しい母。ロートレックも満ち足りて見える。撮影は1892年。エッと驚いた。ムーラン・ルージュのポスターが大ヒットして、一躍売れっ子になった翌年だ。当時はモンマルトルに入り浸っていると思っていたが、そうではなかった。モンマルトルの喧騒を離れて、実家で静かに過ごすこともあったようだ。
(2011.12.8.三菱一号館美術館)
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セガンティーニ展

2011年12月05日 | 美術
 損保ジャパン美術館で開催中の「アルプスの画家セガンティーニ ―光と山―」展。本来は4月に開会予定だったが、原発事故のために見送りになった。7月以降、滋賀県と静岡県の巡回展が開催され、このたび東京にも来てくれた。関係者の理解と努力のたまものだ。

 セガンティーニというと、代表作のひとつ「アルプスの真昼」が大原美術館にあるので、わたしたちにも馴染みの画家だ。独特の分割技法によってアルプスの光と空気をとらえたその絵は、セガンティーニのイメージを決定づけた。わたしなどは、すっかりわかった気になってしまい、その生涯を考えることは怠っていた。

 本展を観るにあたって、セガンティーニの生涯を調べてみた(といっても、Wikipediaで調べたくらいだが)。一読して驚いたことは、恐ろしく悲惨な少年時代をすごしていたことだ。幼くして母と死別し、異母姉(セガンティーニの母は後妻。この姉は先妻の娘)に預けられた。異母姉も貧しく、セガンティーニを顧みることはなかった。12歳のときに少年院に収容されたが、それは浮浪児同然だったからだ。

 普通だったら破滅するか、悪の道に入るしかないだろうが、17歳のときに画家兼室内装飾家の助手として雇われたことが転機になった。美術学校の夜学に通うようになった。同校とは衝突を繰り返し、ついには退学になったが、才能は着実に伸びていった。

 セガンティーニにとっては、絵は貧しさから脱け出す唯一の手段だった。いくつかの作風の変遷の末にたどり着いた分割技法による、アルプスの陽光が燦々と降り注ぐ絵には、そのような背景があったのだ。

 本展には数点の自画像が来ている。1882年頃の自画像では、暗闇からいかにも癖のありそうな顔が浮き上がっている。首には剣の柄のようなものが刺さっている。当時のセガンティーニは24歳頃。すでに結婚して、その年には長男が生まれたが、内面には不安が渦巻いていたようだ。

 もうひとつの自画像、木炭で描かれた1895年の自画像も、暗い画面だ。遠い背景にはアルプスの山並みのシルエットが見える。これは画家として成功した署名のようなものかもしれない。こちらに向けられた顔はどこか虚ろで、不安な内面を見つめているように感じられる。生活は豊かになったが、内面の不安は癒されなかったのだろうか。
(2011.12.2.損保ジャパン東郷青児美術館)
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カンブルラン/読響

2011年12月01日 | 音楽
 カンブルランが振った読響の定期はチャイコフスキーの「悲愴」交響曲がメイン・プロ。カンブルランの「悲愴」?と一瞬戸惑ったが、当日の演奏を聴いて、その意味がよくわかった。カンブルランにははっきりした目的意識があったのだ。

 1曲目はベルリオーズの序曲「リア王」。カンブルランのベルリオーズなら名演が約束されたようなものだが、実際に聴くと、想像以上のものだった。弦楽器には張りがあり、金管楽器はけっして混濁しない。オーケストラ全体はどんな局面でも統制がとれている。しかも奔放さには事欠かない。事欠かないというよりも、どこかに飛んで行ってしまいそうな奔放さだ。これだけのベルリオーズを生で聴く機会はめったにない。

 2曲目はチャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」。カンブルラン/読響の今シーズンのテーマ「ロミオとジュリエット」の一環だが、同時に1曲目の「リア王」とはシェイクスピアつながりがあり、次の「悲愴」交響曲につなぐためのギア・チェンジの役割もある。こういう巧妙なプログラムには思わず微笑んでしまうが、こちらのギア・チェンジがうまくいかずに、チャイコフスキー・モードになれなかった。まあ仕方がない、次の「悲愴」のための準備と割り切ろう、と思った。

 3曲目の「悲愴」交響曲は気迫みなぎる演奏だった。ベルリオーズとは異なるが、これもまた張りのある音で、けっして混濁せず、しかも奔放な演奏だった。カンブルランのようなすぐれた指揮者が、はっきりした目的意識をもって演奏すると、この曲が傑作中の傑作であり、しかもプロ中のプロが書いた傑作であることがよくわかる。言い換えるなら、この演奏は感情で聴かせる演奏ではなく、これがどれほどの天才の筆による作品であるかを示す演奏だった。

 終楽章の最後の一音が消え入るように終わったとき、ホールには張りつめた静寂が広がった。だれもフライング・ブラヴォーを発することはなかった。カンブルランが指揮棒を下ろすまで、長い緊張が続いた。当日は全席完売だったが、満員の聴衆はこの演奏の意味がよくわかっていた。わたしもそこにいたことを嬉しく思う。

 「悲愴」のようなスタンダードなレパートリーのブラッシュアップは、常任指揮者の重要な仕事だが、これはその域を超えていた。カンブルランには未知の可能性が他にもまだありそうだ。
(2011.11.30.サントリーホール)
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