Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

小川典子のドビュッシー「12の練習曲」

2020年07月31日 | 音楽
 ピアニストの小川典子は、エッセイも巧みだ。そのエッセイ集「夢はピアノとともに」(時事通信社、2008年)を読んでいたら、次のような一節があった。

 「現在の私は、ドビュッシーがピアノ曲としては最後に書き上げた『練習曲集』に取り組んでいる。晩年のドビュッシー本人が、自ら「満足している」とした曲集である。ドビュッシー音楽世界の洗練の極致をいくこの曲集では、過去に書かれた曲を思わせるモチーフが水面にしょっちゅう顔を出すものの、すぐに、音の海の中に引っ込められてしまう。それまでの耳に馴染みやすい音楽から脱却を図り、実験的とも思われる技術的な題名で、音の動きの可能性を極限まで広げた。それが、この『練習曲集』である。」(「ドビュッシーのいる風景」より)

 小川典子の思い入れが伝わる文章だ。私事だが、わたしは2009年8月に小川典子の「ドビュッシーの日」と題する演奏会に行った。午後1時から夜の8時までの、ドビュッシーだけで構成するマラソン・コンサートだった。わたしはその中でも最後の「12の練習曲」の濃密な演奏に圧倒された。その演奏が始まると、会場の空気が一変した。

 上掲の文章を読んで、その演奏を想い出した。懐かしくなったので、ナクソス・ミュージックライブラリーで小川典子の同曲のCDを聴いてみた。滑らかな流れと仕上げのよさで高品質な演奏だが、わたしの記憶とは多少ニュアンスが違う。わたしの記憶違いかもしれないし、CDと実演との違いかもしれないが。

 わたしはその感想の当否を確かめるために、他のピアニストの演奏も聴いてみた。名曲中の名曲なので、CDは何種類もあるが、わたしがいままで慣れ親しんできたマウリツィオ・ポリーニとピエール=ロラン・エマールの演奏を選んだ。

 ポリーニの演奏で聴くと、小川典子とは別の曲のように聴こえた。ドビュッシーの詩情を削ぎ落した硬質の音響といったらよいか、あるいは20世紀の音楽から逆照射したドビュッシーといったらよいか。それに比べると、小川典子の演奏は19世紀末のロマンティシズムの延長線上にあると思った。

 「12の練習曲」は、前半6曲が運指に重点をおき、後半6曲が響きに重点をおくとよくいわれるが、ポリーニの演奏では、前半6曲は素っ気なく、後半6曲がおもしろかった。一方、エマールの演奏では、前半6曲がおもしろかった。端的な例は第1曲「5本の指のために」だ。エマールの演奏で聴くと、さまざまなパーツがいったん解体されて、バラバラになったパーツをもう一度組み立てたような、自由なアーティキュレーションとリズムが展開する。そのおもしろさに目を丸くした。
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大岡昇平「武蔵野夫人」

2020年07月27日 | 読書
 大岡昇平(1909‐1988)の「野火」(1952)を読み、文学らしい文学を読んだと感銘を受けたわたしは、引き続き「俘虜記」(1949)と「花影」(1961)を読んだ。隔月でわたしと読書会を開いている友人にその話をすると、友人は7月の読書会のテーマに「武蔵野夫人」(1950)を選んだ。

 「武蔵野夫人」は全14章からなる。登場する人物像が克明に描かれているので、退屈せずに読み通すことができる。登場人物は、宮地信三郎という老人の親族とその連れ合いが中心。それらの人物が第1章「「はけ」の人々」で紹介される。次から次へと紹介される登場人物は、まだ物語が動き始める前なので、だれが主人公なのか、よくつかめない。宮地老人は第1章の終わりで亡くなる。第2章「復員者」から物語は動き始める。

 わたしは復員者の勉(宮地老人の末弟の息子)が主人公になるのかと思ったが、その予想は外れた。物語の途中から道子(宮地老人の娘)の存在感が増す。道子は第2章の初めから叙述の中心にいたが、あまり目立たなかった。受け身で、自分を主張しないタイプなので、主人公になるとは思わなかった。だが、その道子の人物像が(受け身で、自分を主張しないが、繊細で、多くのことを感じている。だが、すべてをこらえている)、物語の半ばころからずっしりした実質をもってくる。

 本作のエピグラフにはレイモン・ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」から「ドルジェル伯爵夫人のような心の動きは時代おくれであろうか」という言葉が掲げられている。それが道子の人物像を指していることは明らかだが、ラディゲも大岡昇平もその人物像を「時代おくれ」と思っている(そして、わたしもそう思う)ことがおもしろい。時代おくれではあるが、ラディゲの時代も大岡昇平の時代も、そしていまも、どの時代にも道子のような人物がいる。一種の普遍性がある人物像だ。そのような人物像を造形した大岡昇平を称賛したいと思う。

 物語の時と場所を述べると、時は1947年6月から11月まで。敗戦後の混乱期を背景とする。物語の最後で前述の勉が(物語が終わった後で)「一種の怪物」に変貌する可能性が示唆される。それも敗戦後の混乱期にあってはリアリティをもつ。

 場所は東京の武蔵野の「はけ」。「はけ」とは小金井近辺の野川に沿った段丘をいう。物語の書き出しが印象的だ。「土地の人はなぜそこが「はけ」と呼ばれるかを知らない。」と。緑豊かなその「はけ」は、道子と同じくらいの質量をもって描かれる。以下は(本作から離れて)現実的な話になるが、その「はけ」に都の道路計画があるそうだ。それが実施されると「はけ」が道路で分断される。そのため地元の人々が反対運動を起こしている(「はけの自然と文化をまもる会」という)。
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新常態のオーケストラ

2020年07月23日 | 音楽
 各オーケストラが演奏活動を再開しているが、客席は前後左右を空けているので、最大でも定員の半分しか入らない。わたしのような聴衆には、コロナ禍でないと味わえない贅沢なのだが、オーケストラの経営者には厳しい条件だろう。いったいぜんたい、それでも演奏会を開いたほうがいいのか、それとも演奏会を開けば開くほど赤字が増えるのか、素人には見当がつかない。

 計算上では、チケット代金を2倍にするか、昼夜2公演にするかして、収入を確保する道はあるが、どちらも現実的には難しいだろう(昼夜2公演は人気公演なら可能だろうが)。そうだとすると、歯を食いしばって、いまの方式を続けるしかないのか。

 そもそも、コロナ禍はいつまで続くのか。先日、日本循環器学会学術集会でおこなわれた山中伸弥教授と西浦博教授の対談では、西浦教授は、明確な言い方を避けながらも、少なくとも数年のスパンで見なければならないことを示唆した。そうだとすると、早くても来年の今頃までは、ひょっとするともっと先まで、オーケストラはいまの状態を覚悟しなければならないことになる。

 そうなった場合、聴衆の募金だけでオーケストラを維持することは難しい。では、他の業界のように、税金を使った「Go To」キャンペーンをやったり、(こちらは立ち消えになったが)「〇〇券」を配ったりできるのか。クラシック音楽業界にそんな政治力があるとは(残念ながら)思えないが。先般、超党派の国会議員が国に要望した「文化芸術復興基金」の創設は、その後どうなったか。かりに近いうちに創設されるとしても、それが各オーケストラを維持するに足るかどうかは予断を許さない。

 一方、オーケストラの楽員は、ソーシャルディスタンスの配置でのアンサンブルの難しさに直面しているのではないか。楽員は自分のパートの音を聴くだけではなく、全体の音を全身で感じながら演奏している。それが弦楽器の場合で1.5メートル、管楽器の場合で2メートルの間隔を空けた場合、勝手が違うのではないか。それを克服するには時間が必要だろう。

 プログラミングの問題もある。新常態がこれから1年、またはそれ以上続くとしたら、いつまでもリハビリ・プログラムを続けることはできない。各オーケストラがあまりやってこなかった前期古典派の音楽とか、第一次世界大戦後に盛んに書かれた小編成のオーケストラ曲とか、またはマーラー、ブルックナーとか。わたしはフィンランドのタピオラ・シンフォニエッタがマリオ・ヴェンツァーゴの指揮で録音したブルックナーの交響曲第0番、第1番、第5番のCDが好きなのだが、室内オーケストラでブルックナーを聴くと、和声の進行が大編成のオーケストラよりも明瞭に聴こえるときがある。
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ヴィトマンのオラトリオ「箱舟」

2020年07月18日 | 音楽
 7月4日に予定されていたイェルク・ヴィトマン(1973‐)のオラトリオ「箱舟」(2017)の日本初演は、コロナ禍のために中止になったが、どんな曲なのか、気になるので、ナクソス・ミュージックライブラリー(以下「NML」)で聴いてみた。ハンブルクでの世界初演の録音。ケント・ナガノ指揮ハンブルク・フィル、(以下、名前は省略するが)ソプラノ独唱、バリトン独唱、ボーイソプラノ独唱、混声合唱、児童合唱および語り2名(少年と少女)の編成(同音源はユーチューブにもアップされている)。

 全5部からなり、演奏時間は約100分。演奏時間といい、上記の編成といい、とてつもない大曲だ。歌詞は、旧約聖書、新約聖書、ミサ典礼文、「子どもの魔法の角笛」、その他12人の詩人・哲学者・作家などの言葉による。NMLに収められたブックレットには歌詞が載っていない。音を聴いただけでは、50%の理解にとどまるのが残念だ。今回の公演(ケント・ナガノ指揮N響その他)は中止になったが、公演用に対訳が用意されていたなら、その対訳が日の目を見ないのは惜しい。

 どんな音楽か。第1部「ヒカリアレ/光あれ」(原題はカタカナ部分がラテン語、漢字とひらがな部分がドイツ語)を例にとると、冒頭は無音の中から、打楽器の擦音がかすかに聴こえ、やがて子どもが「創世記」を語り始める。楽器の数が増し、合唱が加わり、「光あれ!」のピークを形成する。荘厳な瞬間だ。その直後に(こういっては何だが)場違いなワルツがバリトン独唱で始まる。さらにバリトン独唱は抒情的な歌曲を歌う。もう何が何だがわからない。最後は合唱の穏やかなコラールで終わる。

 第1部の演奏時間は約18分。普通なら約18分は長いが、それを長いと感じない。次から次へと音楽が変わるからだろう。その音楽は、多様式というよりも、多様式という「様式」をこえた「何でもあり」の音楽のように感じる。

 以下、簡略に記すと、第2部「洪水」はカオスの世界。最後に心安らぐバリトン独唱となる。第3部「愛」は男女の世俗的な愛憎劇。第4部「怒りの日」はスリリングなレクイエム。ディエス・イレ(怒りの日)からラクリモサ(涙の日)までをたどる。その直後に突如としてベートーヴェンの「合唱幻想曲」が始まる。それは神の厳しさからの解放のように聴こえる。第5部「ドナ・ノビス・パーチェム(我らに平和を与えたまえ)」は、冒頭、児童合唱が勢いよく「aはアップルのa、ブックマーク、ブルーレイ、ビーイング、バイアウト、コピー、クラッシュ、キャッシュフロー、キャンセル(以下略)」と言葉遊びを始める。次いでボーイソプラノ独唱となり、大合唱が続く。最後は明確な終止形をとらない。

 全体を通して、明るい笑いとポジティブな気分が横溢している。元気がでる曲だ。実演で聴くと、圧倒的な音響に飲みこまれるだろう。
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広上淳一/日本フィル

2020年07月12日 | 音楽
 各オーケストラが演奏会を再開(一部は予定)しているが、その方式には少しずつ違いがある。7月10日に定期演奏会を再開した日本フィルは、当初予定のプログラムのうちの1曲をカットして、休憩なしの約1時間とし(それは今では一般的だが)、指揮者の広上淳一も楽員もマスクなしで臨んだ。この方式は(少なくともわたしには)歓迎だ。マスクをつけたオーケストラは、やむを得ないこととはいえ、ゾッとするから。

 開場は開演の1時間前だった(これも今は一般的)。ロビーには上掲(↑)の「公演再開のお礼」が掲示されていた。他のオーケストラと同様に、2月下旬以降活動自粛を余儀なくされた日本フィルにとっては、(曲がりなりにも)活動再開にこぎつけたこの日は、待ちに待った日だったろう。

 ロビーにいると、ホールから楽員の音出しが聞こえる。「う~ん、いい音だ」と思った。いつもなら何も感じない音出しが、こんなに新鮮なのは、生音をまったく聞かない異常事態を経験したからだろう。その意味では、4か月あまりの異常事態は、人生で二度とない(とは言い切れないのが恐ろしいが)得難い経験だったのかもしれない。

 1曲目はバッハのブランデンブルク協奏曲第3番。編成はヴァイオリン3、ヴィオラ3、チェロ3、コントラバス1、チェンバロ1。ヴァイオリンとヴィオラは立奏。ヴィオラのトップに安達真理さんが入っている。さすがに大活躍だ。安達さんの参加が他のメンバーにあたえた影響もあったのではないか。第1楽章の出だしは硬かったが、第3楽章には躍動感があった。

 休憩なしに2曲目へ。曲目はブラームスの交響曲第1番。弦の編成は12‐10‐8‐6‐5の12型で、つまり通常編成だ。室内オーケストラ仕様でないのがいい。弦で2名マスクを使用している楽員がいたが、あとは(上記のように)マスクなしの普段の演奏風景。

 第1楽章の序奏では弦が薄く感じられたが、主部に入ると厚みが出て、音の帯のような弦のサウンドが生まれた。それはCDではけっして聴けないもの、生音でないと得られないもので、生音の情報量の多さに今更ながら驚嘆した。管楽器では杉原由希子さんのエスプレッシーヴォなオーボエが光った。その音が懐かしかった。

 第1楽章の展開部の終わりから再現部に入るところで、内燃的な高まりが生まれた。それがこの演奏の白眉だった。第2楽章と第3楽章は淡々と進んだが、第4楽章はテンポの変化にメリハリがあり、コーダで燃え上がった。だが、あえて正直にいえば、そのコーダではもう少し内燃的な要素がほしかった。
(2020.7.10.サントリーホール)
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METライブビューイング「アグリッピーナ」

2020年07月10日 | 音楽
 ヘンデルのオペラは好きなので、外国に行った折に、機会があると観ていたが、「アグリッピーナ」は観たことがなかった。そこで今回のMETライブビューイングを楽しみにしていた。さすがにMETというか、歌手の力量、演出の冴え、オーケストラの躍動感、三拍子そろった名舞台だった。

 歌手では、タイトルロールのジョイス・ディドナートのパワーあふれる歌唱が圧倒的なのはいうまでもない。それと並んで、ポッペアを歌ったブレンダ・レイ(レイはRaeと綴る)の若いエネルギーも要注目だ。CDを調べると、フランクフルト歌劇場でリヒャルト・シュトラウスやワーグナーを歌っている。そういう歌手がヘンデルのようなバロック・オペラで大活躍するとは――明らかに時代が変わったような気がする。

 もう一人、ネローネを歌ったケイト・リンジーも注目だ。ズボン役だが、たとえばケルビーノやオクタヴィアンのような両性具有的な役柄ではなく、キレた、ワルの役柄を演じる人が現れたと、目を丸くした。幕間のインタビューで、(演出プランを見て)エアロビクスに通ったと笑っていたが、床に片手をついて、それで体を支えて歌う姿に驚嘆した。

 以上の3人は女性陣だが、男性陣もオットーネを歌ったカウンターテナーのイェスティン・デイヴィーズ、皇帝クラウディオを歌ったバスのマシュー・ローズ、ともに文句なしのできだ。また、演出ともかかわるが、2人の使用人(解放奴隷)のパッランテ(バス)は軍人と設定され、ナルチゾ(カウンターテナー)は召使と設定されて、ともに歌唱だけではなく、演技でも大活躍した(歌手の名前は省略するが)。

 演出はデイヴィッド・マクヴィカー。明るく、ポップで、スピード感あふれる舞台を作りあげた。そこに展開する権力への欲望と愛(それは精神的な愛よりも、むしろ性愛に傾きがちだ)をめぐるドラマは、現代社会の寓意のように見えた。わたしはこのオペラを昔からニコラス・マギガン指揮カペラ・サヴァリアのCD(1991年録音)で聴いてきたが、そのCDのイメージと今回の舞台とでは、白黒テレビと4Kテレビくらいの違いがあった。

 いうまでもないが、このオペラのストーリーはモンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」の前史に当たる。このオペラは(アグリッピーナの策略にもかかわらず)ポッペアとオットーネが結ばれるまでを描くが、「ポッペアの戴冠」はポッペアがオットーネを捨てて皇帝ネローネと結ばれるまでを描く。今回の上演では幕切れで、今後の展開としての「ポッペアの戴冠」を示唆する演出が施されていた。ともかく、そのような観点からは、このオペラはポッペアが「ポッペア」になる過程を描いたものと見ることができる。台本を書いたグリマーニ枢機卿がそれを意図していたとはちょっと思えないが。
(2020.7.9.109シネマズ二子玉川)
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大岡昇平「花影」

2020年07月07日 | 読書
 大岡昇平(1909‐1988)の「野火」(1952)と「俘虜記」(1949)を読んだわたしは、もう一作読んでみようと思ったが、では、どれにしようかと迷っていたとき、吉田秀和の次のような文章を目にした。

 「私は大岡さんの小説では、『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』という一連の戦記ものにも大きな尊敬を払っている人間だけれど、それとならぶくらい『花影』を尊重し、大好きで、何度もくり返し読んでいる人間である(ついでにいえば新古典主義的な『武蔵野夫人』より『花影』のほうがずっと好きである)。」(「大岡さんの許しと愛」より)

 これを読んで、次は「花影」(1961)にしようと思ったが、それにしても、吉田秀和はなぜそんなに「花影」が好きなのか。上記の引用文の少し後に、次のような文章があるが、

「これも同じく『花影』の大好きな私の家内が、「これは母親に対する愛に源をもっているものかしらね」といいだした。私は途端に、そうかもしれないと思った。」(同)

 これを読んでもまだ「花影」が好きな理由ははっきりしない。「母親に対する愛に源をもっている」という指摘が、わたしには唐突な感じがした。だが、それにしても、吉田秀和とバルバラ夫人が「花影」について語り合い、それが好きな理由に大岡昇平の母親に対する愛を見出して頷く。その過程が、何となく微笑ましく、また二人の「花影」に対する想いが伝わってくるように感じた。吉田秀和が「花影」が好きな理由は、わたし自身が「花影」を読み、自分で考えなければならない。それがわかっただけで十分だと思った。

 そこで「花影」を読んだわけだが、その感想を一言でいえば、これは追憶の文学だ、というものだった。追憶という言葉にわたしがこめた内容と、吉田秀和とバルバラ夫人が感じたこととが通じ合うかどうかはわからないが。

「花影」の主人公は、戦前、戦後を通じて銀座のバーで女給をしていた「葉子」だ(女給という言葉はいまでは死語かもしれないが、ホステスという言葉では置き換えられない時代的な背景をイメージさせる)。葉子のさまざまな男性関係が描かれる(それを興味本位に読めば、この作品は風俗小説のように読める)。葉子の実の母は、葉子が幼い頃に去り、葉子は「てつ」という継母に育てられた。葉子はてつに馴染めなかった。今ではてつを「母」とは呼ばずに「あなた」と呼んでいる。そんな葉子とてつとの関係がサブストーリーとして描かれる。人形浄瑠璃の心中の道行を思わせる最終章で、てつが印象的に登場する。それは葉子のてつに宛てた手紙の中で。そこにこめられた葉子のてつへの想いと、大岡昇平の葉子への想いが重なり(というのは、葉子のモデルは大岡昇平の愛人だからだ。二人は別れたが、その翌年にその人は自殺した)、その重なり合いに追憶の陰影が生まれるように感じる。
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METライブビューイング「ポーギ―とベス」(2)

2020年07月02日 | 音楽
(承前)次に印象に残った歌手を何人かあげると、まずポーギーを歌ったエリック・オーウェンズが圧倒的だった。深みのある堂々とした声だ。METでは他にワーグナーの「リング」チクルスでアルベリッヒを歌っている。愚直にベスを愛し続けるポーギーと、愛を断念し、愛を呪うアルベリッヒとは、対照的な役柄のようにも見えるが、じつはアルベリッヒも愛に憧れている。だからこそ、叶えられない愛を呪う。アルベリッヒとポーギーとはコインの裏表の関係なのかもしれない。

 また、すでに書いたように、マライア、セリーナ、クララの3人はみんなよかったが、とくにマライアに存在感があったのは、その役を歌ったデニーズ・グレイヴズのためだろう。マライアの独唱は短くて、あまり印象に残らないが、それにもかかわらず、マライアの存在はつねにステージ上にあった。グレイヴズはMETでは他にカルメンを歌っている。主役をはる歌手の貫禄だろう。

 セリーナを歌ったラトニア・ムーアにも感心した。セリーナの夫ロビンズがクラウンと喧嘩をして殺されたとき、その葬儀で歌う「うちの人は逝ってしまった」は、その哀切さでこの公演のシリアスな面での白眉だった。ムーアは2012年に「アイーダ」のタイトルロールでMETにデビューし、その翌年に新国立劇場でも同役を歌った。わたしはそれを観たが、そのときのメモを見ると、「アイーダ(ラトニア・ムーア)とラダメス(カルロ・ヴェントレ)が破格のすばらしさ」とある。

 指揮はディヴィッド・ロバートソン。幕開けの序奏の細かな音の動きが、ぴったり揃っていて、明瞭に聴こえた。オーケストラも優秀だ。

 カーテンコールでおもしろい出来事があった。白人の刑事、検屍官と巡査(2名)が出てきたとき、ブーイングが飛んだのだ。黒人たちをいじめる悪い奴という意味だろう。もちろんジョークだが、そんなジョークを楽しむ余裕が観客と俳優(刑事と検屍官は台詞のみ。巡査は黙役)の双方にあった。最近のジョージ・フロイドさんの白人警官による殺害、そしてそれに抗議する白人をまじえたBlack Lives Matterの運動を思い出す。アメリカには根強い黒人差別がある一方で、それに抵抗する人々もいることを示すブーイングだった。

 今回の上演ではアークデールの場面がカットされた。アークデールは白人だが、ある黒人が警察に連行されたとき、その黒人の昔の雇用主としてキャットフィッシュ・ロウに現れ、「私が救い出すから安心しろ」という。いわば善玉の白人だ。その場面がカットされたので、黒人対白人の対立が一層際立った。意図したことかどうかはわからないが。(了)
(2020.6.29.109シネマズ二子玉川)
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METライブビューイング「ポーギ―とベス」(1)

2020年07月01日 | 音楽
 METライブビューイングの「ポーギ―とベス」はぜひ観たかったが、4月上旬の上映のときは新型コロナウイルスの感染拡大の真最中だったので、やむを得ず見送った。ところがこの度、追加上映が行われたので、無事に観ることができた。

 映像は2月1日の公演のもの。この頃はまだオペラが上演できたのだなと思う。メトロポリタン歌劇場(「MET」)はその後、3月20日から公演を中止し、今では12月末までのすべての公演の中止を発表している。

 映像を観ると、舞台上には大勢の歌手がひしめき、全身で黒人たちの喜怒哀楽を表現している。オーケストラボックスは楽員でいっぱい。客席は満員だ。今では遠い昔のような光景。こんな光景がいつ戻ってくるのか‥。

 「ポーギ―とベス」は好きなオペラの一つだ。マゼール指揮クリーヴランド管弦楽団のCDを何度聴いたことか。また、あれはいつだったか、外来のオペラ団が東急文化村で公演したことがあった。わたしも観にいったが、かならずしも満足できる水準ではなかった。また、もう一つ思い出すのは、2009年にアーノンクールがグラーツのシュティリアルテ・フェスティヴァルでこのオペラを上演したことだ。わたしはアーノンクールが「ポーギ―とベス」を振ることに驚き、できれば観にいきたいと思ったが、休暇を取れずに断念した。その頃から、いつかはMETで観たいと思っていた。

 このオペラの主人公はポーギ―とベスだが、むしろ南部アメリカの町チャールストンの黒人街キャットフィッシュ・ロウ(「なまず通り」)の黒人社会が主人公といったほうがいいだろう。貧しく、荒くれて、白人から見下されているが、黒人たちには愛があり、いたわりがあり、涙がある。濃密なその人間関係が描かれる。

 なので、一種の群像劇ともいえるが、音楽的にはポーギ―とベスの比重が大きく、その他の登場人物には1つか2つの独唱が与えられているだけなので(それはオペラの時間的な制約からくるのだろう)、CDで聴くと(あるいは演出が弱い上演では)、各登場人物のキャラクターが立ってこないうらみがある。

 その点、今回のジェイムズ・ロビンソンの演出では、各登場人物のキャラクターが明確に描かれていた。なかでも、マライア、セリナ、クララの3人の女性たちの個性の違いがよくでていた。とくにマライアには存在感があった。マライアの独唱は短く、あまり印象に残らないのだが、ステージ上での存在は大きいことに気がついた。男性では、クラウン、スポーティング・ライフの2人の悪役の描き方が鮮明だった。一方、赤ん坊が生まれたばかりのクララの夫のジェイクは、もっとうぶな青年ではないかと思った。(続く)
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