Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

追悼 小澤征爾

2024年02月11日 | 音楽
 小澤征爾が亡くなった。1951年生まれのわたしは、中学生のころからクラシック音楽に夢中になったが、小澤征爾は当時のわたしのアイドルだった。音楽雑誌に載った小澤征爾の写真を切り抜き、大切にしていた。

 小澤征爾の演奏は何度か聴いた。不思議と記憶に残るのは、分裂前の日本フィルを振ったシューベルトの「未完成」交響曲とバーンスタインの「ウエストサイド物語」からのシンフォニック・ダンスの演奏だ。「未完成」交響曲の、集中力のある、しなやかな演奏に魅了された。

 異様な体験だったのは、日本フィルの分裂直前のマーラーの「復活」交響曲の演奏だ。テンションが極限状態に高まり、音楽が崩壊する瀬戸際の演奏だった。日本フィルの分裂という異常事態を前にして、音楽以外の要素が諸々入りこんだ演奏だっただろう。しかしそれも人の営みとしての音楽のあり方のひとつだ。後にも先にも二度とない演奏だった。

 小澤征爾は若いころ、よく「日本人が西洋音楽をやれるかどうかの実験だ」と口にしていた。実験?わたしはその言葉が嫌いだった。インタビューや対談でその言葉を目にするとスルーした。だが今では、その言葉は正直な思いだったのだろうと納得する。戦時中に満州で生まれ、日本の戦後社会を生き、初めて海外に出たときには貨物船でマルセイユに渡り、そこからスクーターでパリを目指した。そんなガムシャラな生き方は「実験」という言葉につながった。言い換えれば、実験という言葉にはリアリティがあったのだ。

 実験は成功した。トロント→サンフランシスコ→ボストンと階段を駆け上るように出世した。だがわたしが感心するのは、ボストンでじっくり腰を据えたことだ。メジャーオーケストラの音楽監督を29年間も続けることは、神経をすり減らす仕事だっただろう。楽員との葛藤が本に書かれた。盟友との対立も伝えられた。それらを乗り越えたのは、強靭な神経を持っていたからだろう。

 小澤征爾と村上春樹の対談本「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮社)を読むとわかるが、小澤征爾は世界のトップクラスの演奏家と付き合った。スター演奏家のセレブともいえる人脈の一員になった。また若い人たちの教育にも熱心だった。年齢をこえ国籍をこえたコミュニケーション能力は抜群だった。またマネジャーにも恵まれた。

 あらゆることをやり尽くした感のある小澤征爾だが、やり残したことがあるとすれば、それはドイツ音楽だったかもしれない。蒸留水のように流れの良い演奏だったが、あえていえば、えぐみがなかった。それはズービン・メータのドイツ音楽にも感じる。小澤征爾もズービン・メータもクラシック音楽界の東洋人の第一世代だった。
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2 コメント

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Unknown (猫またぎなリスナー)
2024-02-11 13:24:36
訃報に接して最初、私にとってはあまり思い入れがない方かな、と思いながらも初めてLPで全容を知ることになった「グレの歌」や「アッシジの聖フランチェスコ」の録音、松本での公演をBSで観た「エディプス王」、「利口な女狐の物語」「火刑台上のジャンヌ・ダルク」等々、記念碑的と呼ぶに相応しい数々の業績を思い出して、今更ながら偉大な人であったと感じ入っています。
Unknown (Eno)
2024-02-11 15:17:18
猫またぎなリスナー様
私も最初に訃報に接したときには、それほど感じなかったのですが、じわじわときいてきました。
あれこれ考えると、語弊がありますが、小澤征爾は昭和の人だったんだなと思います。ガムシャラな生き方を認められた時代の人だったような気がします。もちろんそんな生き方を完遂した立派さは、だれにでもできることではありませんが。

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