へスス・ロペス=コボスが振った都響の定期。1曲目はトゥリーナの「闘牛士の祈り」。スペインの名匠ロペス=コボスの名刺代わりの選曲か。あるいは都響の希望だったか。ともかくスペイン情緒いっぱいの曲だった。こういう機会でないと聴けない曲。スペインの光と影というと月並みな表現だが、そんな感覚をもった。
2曲目はラヴェルの「スペイン狂詩曲」。1曲目とスペインつながりで選曲されたのか。1曲目と同じく明るく鮮やかな音色で演奏されたが、こちらの方は表面を整えた印象で、あまり積極的なモチベーションは感じられなかった。
最後はショスタコーヴィチの交響曲第13番「バービイ・ヤール」。前曲とは打って変わって明確なモチベーションが感じられる演奏。やはりこうでなければいけない。
昔話だが、高校時代にブラスバンドの友人がこの曲のレコードを買った。当時ショスタコーヴィチといえば第5番しか知らなかったわたしは、軽いショックを受けた。友人の家でそのレコードを聴かせてもらった。全然わからなかった。なんだか深遠な音楽だとは思ったが、その先に行けなかった。
それ以来この曲はよくわからない曲だった。生でも何度か聴いたが、これでわかったという実感はなかった。でも、今回の演奏でその実感がもてた。
なにがわかったかというと、この曲はオーケストラ伴奏つきの連作歌曲ではなく、交響曲だということだ。今までそのことに確信がもてなかった。今回の演奏でそう実感することができた。すべての部分が的確に演奏されたからだ。その結果、曲のかたちが明瞭に浮かび上がってきた。
こういう演奏だったからだろう、エフトシェンコの詩に諧謔やアイロニーよりも、真摯な生き方を感じた。自らを迫害される側(=ユダヤ人)に置き、黙々と商店の列に並ぶ女たちをロシアの誇りとし、また地動説を唱えたガリレオのように生きたいというその真摯さにショスタコーヴィチは共感した――その共感が伝わってきた。ショスタコーヴィチの真摯さに今度はわたしが打たれた。
バス独唱はニコライ・ディデンコ。当初予定のベテラン歌手が変更されたので心配したが、立派に演奏を支えた。男声合唱は二期会合唱団。ロシア語がそれらしく聞こえた。さすがだ。言語指導(および字幕)に一柳富美子氏の名前がクレジットされていたので、その力もあったのかもしれない。
(2013.11.28.サントリーホール)
2曲目はラヴェルの「スペイン狂詩曲」。1曲目とスペインつながりで選曲されたのか。1曲目と同じく明るく鮮やかな音色で演奏されたが、こちらの方は表面を整えた印象で、あまり積極的なモチベーションは感じられなかった。
最後はショスタコーヴィチの交響曲第13番「バービイ・ヤール」。前曲とは打って変わって明確なモチベーションが感じられる演奏。やはりこうでなければいけない。
昔話だが、高校時代にブラスバンドの友人がこの曲のレコードを買った。当時ショスタコーヴィチといえば第5番しか知らなかったわたしは、軽いショックを受けた。友人の家でそのレコードを聴かせてもらった。全然わからなかった。なんだか深遠な音楽だとは思ったが、その先に行けなかった。
それ以来この曲はよくわからない曲だった。生でも何度か聴いたが、これでわかったという実感はなかった。でも、今回の演奏でその実感がもてた。
なにがわかったかというと、この曲はオーケストラ伴奏つきの連作歌曲ではなく、交響曲だということだ。今までそのことに確信がもてなかった。今回の演奏でそう実感することができた。すべての部分が的確に演奏されたからだ。その結果、曲のかたちが明瞭に浮かび上がってきた。
こういう演奏だったからだろう、エフトシェンコの詩に諧謔やアイロニーよりも、真摯な生き方を感じた。自らを迫害される側(=ユダヤ人)に置き、黙々と商店の列に並ぶ女たちをロシアの誇りとし、また地動説を唱えたガリレオのように生きたいというその真摯さにショスタコーヴィチは共感した――その共感が伝わってきた。ショスタコーヴィチの真摯さに今度はわたしが打たれた。
バス独唱はニコライ・ディデンコ。当初予定のベテラン歌手が変更されたので心配したが、立派に演奏を支えた。男声合唱は二期会合唱団。ロシア語がそれらしく聞こえた。さすがだ。言語指導(および字幕)に一柳富美子氏の名前がクレジットされていたので、その力もあったのかもしれない。
(2013.11.28.サントリーホール)