Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ロペス=コボス/都響

2013年11月30日 | 音楽
 へスス・ロペス=コボスが振った都響の定期。1曲目はトゥリーナの「闘牛士の祈り」。スペインの名匠ロペス=コボスの名刺代わりの選曲か。あるいは都響の希望だったか。ともかくスペイン情緒いっぱいの曲だった。こういう機会でないと聴けない曲。スペインの光と影というと月並みな表現だが、そんな感覚をもった。

 2曲目はラヴェルの「スペイン狂詩曲」。1曲目とスペインつながりで選曲されたのか。1曲目と同じく明るく鮮やかな音色で演奏されたが、こちらの方は表面を整えた印象で、あまり積極的なモチベーションは感じられなかった。

 最後はショスタコーヴィチの交響曲第13番「バービイ・ヤール」。前曲とは打って変わって明確なモチベーションが感じられる演奏。やはりこうでなければいけない。

 昔話だが、高校時代にブラスバンドの友人がこの曲のレコードを買った。当時ショスタコーヴィチといえば第5番しか知らなかったわたしは、軽いショックを受けた。友人の家でそのレコードを聴かせてもらった。全然わからなかった。なんだか深遠な音楽だとは思ったが、その先に行けなかった。

 それ以来この曲はよくわからない曲だった。生でも何度か聴いたが、これでわかったという実感はなかった。でも、今回の演奏でその実感がもてた。

 なにがわかったかというと、この曲はオーケストラ伴奏つきの連作歌曲ではなく、交響曲だということだ。今までそのことに確信がもてなかった。今回の演奏でそう実感することができた。すべての部分が的確に演奏されたからだ。その結果、曲のかたちが明瞭に浮かび上がってきた。

 こういう演奏だったからだろう、エフトシェンコの詩に諧謔やアイロニーよりも、真摯な生き方を感じた。自らを迫害される側(=ユダヤ人)に置き、黙々と商店の列に並ぶ女たちをロシアの誇りとし、また地動説を唱えたガリレオのように生きたいというその真摯さにショスタコーヴィチは共感した――その共感が伝わってきた。ショスタコーヴィチの真摯さに今度はわたしが打たれた。

 バス独唱はニコライ・ディデンコ。当初予定のベテラン歌手が変更されたので心配したが、立派に演奏を支えた。男声合唱は二期会合唱団。ロシア語がそれらしく聞こえた。さすがだ。言語指導(および字幕)に一柳富美子氏の名前がクレジットされていたので、その力もあったのかもしれない。
(2013.11.28.サントリーホール)
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旅日記3:ある若い詩人のためのレクイエム

2013年11月29日 | 音楽
 「エツィオ」が終わってその足でアルテ・オパーに向かった。B.A.ツィンマーマンの「ある若い詩人のためのレクイエム」の演奏会を聴くためだ。じつはこれが今回の旅の最大の目的だった。

 新国立劇場の「軍人たち」に感動して、ツィンマーマンのその他の作品を探したときに購入したのがこの作品のCDだった(コンタルスキー盤)。だが、難曲だった。まして生で聴くとどう聴こえるか、想像もできなかった。今回アルテ・オパーの公演予定でこの演奏会を見つけたときには、千載一遇のチャンスだと思った。

 現代音楽であり、しかも硬派の音楽なので、会場はガラガラ、若い人だけだろうと思っていたが、満席だった。しかも初老の人たちが多かった。初老の人たちが夫婦で、あるいは単身で来ていた。日本ではあまり見かけない光景だ。

 まず合唱団が入ってくる。2階の両サイドと中央に着席する。次に別の合唱団が入ってきてステージ奥の正面に座る。1階平土間にいる聴衆を四方から囲むかたちだ。オーケストラが入ってくる。hr交響楽団(旧フランクフルト放送交響楽団)。ヴァイオリンとヴィオラがいない。これはストラヴィンスキーの「詩編交響曲」と同じ編成だ。最後にジャズ・コンボ5名、語り2名、ソプラノとバリトン各1名の独唱者そして指揮者が入ってくる。指揮者はマティアス・ピンチャー。気鋭の作曲家だ。本年9月からはパリのアンサンブル・アンテルコンタンポランの芸術監督に就任している。

 チェロとコントラバスが呟くように始まる。やがて‘声’が入ってくる。語りの声、録音された声、それらが音の波に浮き沈みする。CDとちがって明瞭なうねりがある。最初に来るクライマックス、ステージ正面の合唱団が発する‘レクイエム’の叫び。それは音楽というよりも人間の叫びそのものだ。

 やがてヒットラーの声やスターリンの声も入ってくる。巨大な声のコラージュ。2人の独唱者の音型は「軍人たち」と共通している。跳躍の大きい尖った音型。ソプラノのモンタルヴォMontalvoが艶のある声で少しの不自然さもなく歌っている。

 最後に到達する‘ドナ・ノビス・パーチェム(われらに平和を与えたまえ)’の叫び。それは行き止まりの場所に追い詰められた絶体絶命の叫びのように聴こえた。

 CDのライナーノートに「ある若い詩人」とはヨーロッパのことだと書いてあったが、それを実感できた。
(2013.11.24.アルテ・オパー)
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旅日記2:エツィオ

2013年11月28日 | 音楽
 ハンブルクからフランクフルトに移動した。着いたその日はモーツァルトの「魔笛」を観た。絵本のように美しく、穏やかで、上品な舞台。その上品さとは対照的に終演後の子どもたちの反応は熱狂的だった。その熱狂ぶりが羨ましかった。

 翌日はグルックの「エツィオEzio」を観た。改革オペラに取り組む前の作品なので、ダカーポ・アリアをレチタティーヴォ・セッコでつなぐバロック・オペラ形式だ。CDが出ているので予習して出かけた。今の耳で聴くと、改革オペラの前とはいえ、ヘンデルのオペラが面白いように、これも面白かった。

 だが、この上演の面白さはCDどころではなかった。面白いというレベルを超えて、刺激的だった。音楽面でも演出面でも、洗練の極み。あえていうなら、年に1度出会えるかどうかの公演だった。

 ローマの将軍エツィオを歌ったのはソーニャ・プリナSonia Prina。じつはCD もこの歌手だったが、生で聴くと、その迫力は見違えるようだった。パワーといい、感情表現といい、すごい歌手だ。幾分硬直したキャラクターを表現して十分説得力があった。

 ローマ皇帝バレンティニアーノはマックス・エマニュエル・チェンチッチMax Emanuel Cencici。この歌手もすばらしかった。今の世の中すぐれたカウンターテナーが多いが、この人もその一人だ。一癖あるこのキャラクターを見事に表現していた。

 エツィオの恋人フルヴィアを歌ったのはPaula Murrihy。ドラマの展開上もっとも重要といえるこの役を――細身の容姿とも相俟って――シャープに歌い、かつ演じて、これまた説得力があった。

 でも、なんといっても、もっとも感心したのはヴァンサン・ブッサールVincent Boussardの演出だ。幕開き早々、フン族のアッティラとの戦いに勝利したエツィオと、それを迎えるバレンティニアーノとのあいだに吹く隙間風が、さり気なく、かつ的確に表現されているので、これは並みの演出ではないと思った。その後も一貫して登場人物間の葛藤が表現され、しかもその表現がピタッと決まっていた。たとえていうなら、湖面に薄氷が張るように静かな緊張が広がった。

 舞台美術も洗練の極みだった。装置は巨大な2枚のパネルだけ。そのパネルに各登場人物の影が映り、またヴィデオが投影された。それらが完璧に計算されている。もう見事というほかない。

 最後には意外な展開が用意されていた。とても洒落ている。

 指揮はChristian Curnyn、演奏は当劇場のオーケストラ。ピリオド奏法がすっかり板についていた。
(2013.11.23~24.フランクフルト歌劇場)
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旅日記1:ヴェルディのマイナー作品

2013年11月27日 | 音楽
 ハンブルク州立歌劇場の公演予定でヴェルディのマイナー作品3本のチクルスを見て、若杉弘が懐かしくなった。びわ湖ホールでやっていた公演は毎年楽しみだった。若杉弘がもし存命ならやりそうな企画だと思った。追悼の想いもあって行ってみた。

 演目は「レニャーノの戦い」、「二人のフォスカリ」そして「第1回十字軍のロンバルディア人」。いずれも本年10月下旬から11月上旬にかけてプレミエを迎えた。指揮はシモーネ・ヤング、演出はデイヴィッド・オールデン。3本とも共通のスタッフで制作する試みだ。

 オールデンの演出は――わたしには意外だったが――暗い情念の世界を描いたもの。舞台装置も照明も暗かった。さすがにツボは外さないが、いつものシニカルさはなく、また猥雑さもなかった。オールデンの演出はけっこう観ているが、こういう演出は初めてだ。

 正直にいって、オールデンにしては大人しいと思った。独自の視点が感じられなかった。なぜこうなるのかはわからなかった。聴衆に馴染みのない作品だからという理由は、少なくとも当地では通用しそうもないし、まさか作品に興味をもてなかったということでもないだろう。

 一方、シモーネ・ヤングの指揮は、がっちり構築された、遊びのないものだった。その力量はさすがだが、こういう演奏を聞いていると、この人は――ドイツ人ではないけれども――ほんとうにドイツ的なDNAをもった人なのだと痛感した。押しの強い演奏だ。

 こういう演奏とオールデンの演出とは、お互いに呼応している、ということもできる。これは十分に計算されたものかもしれない。そこに立ち上がってくる世界はきわめてドイツ的なヴェルディだ。ローカルなヴェルディ。それを嫌う人もいるかもしれない。でも、嫌って済ますのはちょっと単純すぎないか、そもそもヨーロッパとはローカルなものの集合体ではないかと思った。

 歌手では「第1回十字軍のロンバルディア人」のジゼルダを歌ったElza van den Heeverに注目した。声といい、表現の陰影といい、すばらしかった。一方、「レニャーノの戦い」のリーダで代役に立った歌手はまったく非力だった。

 個々の作品では圧倒的に「二人のフォスカリ」が面白かった。ごく若い頃の作品だが、バリトンが歌う父親のフォスカリには中期以降の傑作を書く条件がもうすべて整っていることが感じられた。
(2013.11.20~22.ハンブルク州立歌劇場)
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帰国報告

2013年11月26日 | 身辺雑記
本日、予定どおり帰国しました。今回観た(聴いた)オペラと演奏会は次のとおりです。
11月20日ヴェルディ「レニャーノの戦い」(ハンブルク州立歌劇場)
11月21日ヴェルディ「二人のフォスカリ」(〃)
11月22日ヴェルディ「第1回十字軍のロンバルディア人」(〃)
11月23日モーツァルト「魔笛」(フランクフルト歌劇場)
11月24日グルック「エツィオ」(〃)
 〃    B.A.ツィンマーマン「ある若い詩人のためのレクイエム」(アルテ・オパー)
感想は後日また報告します。
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旅行予定

2013年11月18日 | 身辺雑記
11月19日から旅行に出ます。ハンブルク4泊、フランクフルト2泊で、26日に帰国予定です。帰ったらまた報告します。
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ソヒエフ/N響

2013年11月17日 | 音楽
 トゥガン・ソヒエフ指揮のN響定期。今をときめく30代の指揮者の一人ソヒエフ(1977年‐)を聴くのは初めてだ。ナクソス・ミュージック・ライブラリーを覗くと何枚かのCDが登録されていたが、あえて聴かないでおいた。新たな才能との出会いを楽しみたかったから。

 1曲目はボロディンの交響詩「中央アジアの草原で」。名曲コンサートみたいな選曲だなと思ったが、演奏はそんなレベルではなかった。冒頭の弦の最弱音は緊張感にとみ、続いて出てくるクラリネットの旋律にはニュアンス豊かな起伏がほどこされていた。全体的に真剣勝負の――というと変な表現かもしれないが、要するにこの一曲でパッと聴衆の心をつかむに足る――演奏だった。

 2曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。これも気合の入った演奏。オーケストラのほうから先にいうと、身ぶりの大きい、大波が打ち寄せるような演奏だった。ピアノ独奏のボリス・ベレゾフスキーも歯切れのいい、バリバリ弾く演奏スタイルだったので、目が覚めるようなスケールの大きさが現前した。

 アンコールが演奏された。ラフマニノフの「10の前奏曲作品23」から第5番ト短調。これがまたスケールの大きい演奏。NHKホールのあの巨大な空間にピアノの音がガンガン鳴り響いた。それを聴いて、ピアノ協奏曲第2番の演奏がどういうものであったか、よくわかった次第だ。

 最後はプロコフィエフの交響曲第5番。第1楽章では緻密なアンサンブル、しなやかな旋律線、一気に駆け上る最強音といった諸点に耳をそばだて、第2楽章では――今まで気づいていなかった――細かな音型の出現に息を呑み、スリル満点の終結部に手に汗を握った。第3楽章以下もその路線上にあった。

 以上3曲のいずれにもそれぞれ異なるこの指揮者の側面を見出した観がある。そして全体としては、この指揮者が音楽とじっくり向き合っている――音楽と自分とのあいだに隙間がない――という感じをもった。

 これは同世代のアンドリス・ネルソンスや、――ソヒエフよりは少しだけ若い――山田和樹にも感じることだ。別の言い方をするなら、無理に個性を売り物にしない世代のように感じる。もっと自然体というか、おそらく幼いころから音楽に浸ってきたであろうその環境から自然に出てくる音楽性が感じられる。

 この日は自由席をふくめて全席完売だった。さすがに皆さんよく心得ている。
(2013.11.16.NHKホール)
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ピグマリオン

2013年11月15日 | 演劇
 新国立劇場でバーナード・ショーの「ピグマリオン」が始まった。ミュージカル「マイ・フェア・レディ」の原作となった芝居。高校生のころに観たその映画の記憶は薄れてしまったが、音楽は覚えている。I could have danced all nightとか。

 ロマンティック・コメディーの印象が強いミュージカルだが、芝居を観た印象は少しちがった。コメディーにはちがいないのだが、なんともいえない苦みがあった。そう感じたのはこちらが年をとったからかもしれない――と、少々ひねくれたい気分になったが、これは作者ショーの影響かもしれない。

 苦みを感じた主因は幕切れにあると思う。イライザは今後どうなるのか。ヒギンズ教授との愛に気付くのか(「マイ・フェア・レディ」のように)、フレディとの愛を選ぶのか(ショーが後日談として書いているように)、あるいはヒギンズ教授、ピカリング大佐とともに自立した独身主義者の一人として生きるのか(ヒギンズ教授の台詞のように)――だが、そのどれにも疑問が残る。

 では、イライザはどうなるのか――どうするのか――と考えるとき、わたしたちの思考は多少なりともショーの色に染まってくる。ショーのシニカルな視線というか、現実にたいする洞察力の影響を受ける。苦みはそこからくるのではないだろうか。

 そこが面白いのだ、ともいえる。これはもっと本質的な点だが、ショーの階級社会への視線もシニカルだ。当時(1912年執筆)のロンドンの厳然たる階級社会がこの芝居の根底にあり、わたしなどは圧倒されてしまうのだが、ショーはヒギンズ教授の姿を借りて冷笑を浴びせ、またイライザの姿を借りてそれを破壊する。

 また当時大国にのし上がってきたアメリカをやんわり揶揄するくだりがあり、旧世界たるイギリスからの視線というか、今から見ると時代性というか、やや屈折した心情が感じられる。

 これらのショー的なシニカルさはあるものの、ロマンティック・コメディーとしての側面はもちろんあり、むしろその方が主体だ。苦みは隠し味といったほうがいい。

 ロマンティック・コメディーとしては、イライザ役の石原さとみがその魅力全開だ。好感度抜群とはこのことだ。ヒギンズ教授役の平岳大も好演。イライザの父役の小堺一機は前半の出番がやや冗長に感じられたが、台詞のせいかもしれない。後半の出番ではそうは感じなかった。
(2013.11.13.新国立劇場中劇場)
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「リア」随想

2013年11月11日 | 音楽
 日生劇場の「リア」。当日ざっとプログラムを読んだが、長木誠司氏の「解説」が気になって、今日あらためて読み返してみた。さすがに過不足のない的確な解説だ。そのなかにヴェルディの「リア王」(未完のオペラ)について触れたくだりがあるので、それをご紹介したい。

 周知のとおりヴェルディにとって「リア王」のオペラ化は悲願だった。結局未完に終わったけれども、一時は本気になって取り組んだ。その頃だろう、ヴェルディが台本作家のカンマラーノに宛てた手紙の要旨が「解説」で紹介されている。

 それによると、主役は5名(リア王、コーディリア、道化、エドマンド、エドガー)で、2人の姉妹(ゴネリル、リーガン)とグロスター伯、ケント伯は脇役に留めるよう提案しているそうだ(1850年2月28日付けの手紙)。

 これを読んで、考えてしまった。このような構成だと、コーディリアだけが前面に出て、リア王の悲運を想うメロドラマに単純化されてしまうおそれがある。またリア王の鏡像ともいえるグロスター伯の影が薄くなり、厚みに欠ける可能性がある。なるほどヴェルディの発想はそうなのだな――当時のオペラはそうだったのだな――と思った。

 その点、ライマンの「リア」で使われたヘンネベルクの台本は、ゴネリル、リーガン、コーディリアの3姉妹が均衡している。リアをめぐる力のダイナミズムが働いている。またグロスター伯の悲劇もきちんと描かれ、エドガーとエドマンドの対立のダイナミズムが生きている。

 このような台本があってこその音楽だったわけだ。でも、それにしても、この音楽はすごかった。微分音とクラスターの駆使は、不協和音などという生易しいものではなかった。打楽器の炸裂や金管の咆哮などはむしろ古典的に感じられた。そんなものは通り越してしまって、なにかこの音楽に賭ける一回限りのものがあった。

 こういう音楽が生まれることがあるのだ。たとえば、音楽の性質はまったくちがうが、プーランクの「カルメル派修道女の対話」、そして村松禎三の「沈黙」。これらの音楽は作曲者が精神の極限までいった軌跡なのだ。プーランクの場合は「死」と向き合い、松村禎三の場合は「信仰」と向き合ったその軌跡だ。

 ライマンの「リア」にも同じものを感じる。では、ライマンはなにと向き合ったのか。たんに「老い」ではないだろう。むしろ人間存在の不確かさ――存在の基盤の不確かさ――といったものではないだろうか。
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リア

2013年11月09日 | 音楽
 アリベルト・ライマン(1936‐)のオペラ「リア」。今年一番の注目公演だ。CDはもう何度聴いたことだろう。初めて聴いたときから、これは傑作だと思った。シェイクスピアの原作に真っ向から取り組んでいるからだ。2012年のハンブルク州立歌劇場での公演は観に行くことができた。カロリーネ・グルーバーの演出に圧倒された。そして今度の公演。さて、どうなるか。

 一番感心したのはオーケストラだ。ピットが狭いので、ピットには弦楽器だけ。木管楽器と打楽器は舞台の下手側、金管楽器は上手側に配置されていた。指揮者との距離はかなり離れている。それはモニターでカバーすると同時に、副指揮者が(舞台の袖で)ペンライトで補助していた。

 こういう配置だと客席ではどう聴こえるか――。まず弦楽器が細かい音まではっきりと聴こえる。その点が新鮮だった。一番感銘を受けた箇所は幕切れの部分だ。弦楽器がフラジオレットで最弱音を続ける。そのとき各奏者の弓の上げ下げが奏者ごとに異なり、その都度ポツンポツンとアクセントが付く。それがリアの心象風景のように感じられた。

 また打楽器がひじょうに遠くから聴こえてくるので、耳を聾さずに、かえってはっきりと聴こえた。同じことは金管楽器にもいえた。細かい音は聴こえにくくなっているかもしれないが、ここぞというときの衝撃力があった。

 このような配置上の効果もさることながら、下野竜也指揮の読響の演奏も神経の行き届いた、引き締まった演奏だった。ハンブルクで観たときは、もっと粗っぽかった(指揮はシモーネ・ヤング)。今回こんなに鮮明にその音楽が聴こえるとは驚きだった。

 タイトルロールは小森輝彦。狂気に陥った第2部での、惨めで弱々しいリアに説得力があった。まだ力を残している第1部のリアよりもリアリティがあった。他の歌手もそれぞれ見事な役作りだった。瞠目したのはカウンターテナーの藤木大地だ。白痴のトムを装って登場したときのその声にはゾクゾクした。

 道化はダンサーの三枝宏次。これは大成功だった。この役を――役者ではなく――ダンサーが演じるとは、だれの発案だったのだろう。炯眼だ。ドイツ語の台詞もがんばっていた。癖のあるドイツ語だが、道化の役柄なので許される。

 演出は栗山民也。いつもながらの丁寧な演出で、なんの文句もないが、ここまでくると、さらに一段上のインパクトがほしかった。
(2013.11.8.日生劇場)
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ハンナ・アーレント

2013年11月06日 | 映画
 映画「ハンナ・アーレント」を観た。平日の夜間に行ったけれども、けっこう人が入っていた。それだけ皆さんの関心が高いのだろう。

 ハンナ・アーレント(1906‐1975)はドイツ生まれのユダヤ人女性。ナチスに追われてフランスの強制収容所に入れられたが、そこを脱出して、アメリカに逃れた。戦後、執筆活動を精力的に行い、今では20世紀の傑出した政治哲学者といわれている。

 この映画はアーレントが1961年のルドルフ・アイヒマン裁判の傍聴記を書いた前後を描いている。アイヒマン(1906‐1962)はナチスのなかでユダヤ人の強制収容所への移送の責任者だった。戦後、アルゼンチンに潜伏したが、1960年にイスラエルの情報機関(モサド)に捕えられ、1961年に裁判にかけられ、翌年絞首刑になった。

 アーレントはその裁判の傍聴記を書いた。邦訳も出ているので(「イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」みすず書房)、できれば事前に読んでから行きたかったが、残念ながらそれはできなかった。

 でも、本を読んでいなくても、この映画は十分楽しめた。アーレントはまず雑誌ザ・ニューヨーカーに傍聴記を連載し、さらに単行本にした。当時それがユダヤ人社会にどのような騒動を巻き起こしたか――を描いた映画が本作だ。

 今では歴史的事実として知られているユダヤ人評議会(ユーデンラート)の存在、そしてその役割(ナチスへの協力)は、アイヒマン裁判で明らかになったようだ(当然、知る人ぞ知る存在だったのだろうが、アイヒマン裁判で一般に知られるところとなった)。その事実に衝撃を受けたアーレントは傍聴記に書いた。これがユダヤ人社会の反感を買った。

 もう一つはアイヒマンを「悪の凡庸さ(陳腐さ)」と捉えたことだ。アイヒマンは上層部の命令に従っただけで、自らの意思で行ったのではない、自ら思考することを止め、命令のままに動くことが、過去に例のない巨大な悪を生んだと。でも、これもユダヤ人社会の反感を買った。アイヒマンを悪魔、怪物として描くことを期待していたからだ。

 命令に従っただけだ――そうだとすると、わたし自身も同じことをやりかねない、そんな危うさがある。アイヒマンを批判すれば済む話ではない。

 わたしは、自ら思考することによって、踏みとどまることができるか――、そう考えさせられる映画だ。
(2013.11.5.岩波ホール)

↓予告編
http://www.youtube.com/watch?v=WOZ1JglJL78
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ターナー展

2013年11月01日 | 美術
 ターナー展。金曜日の夜間開館のときに行こうと思っていたが、当面、金曜日は予定が入っているので、さて、どうしたものかと思っていた。たまたま手にしたチラシに10月31日(木曜日)も夜間開館と書いてあったので、急遽出かけた。

 一番観たいと思っていた作品は「平和―水葬」。どんな画集にも載っているといってもいいくらいで、本展のホームページにも載っている作品だ。2艘の艦船の黒が異様だが、それが実物ではどう観えるのか、一度この目で確かめてみたかった。

 それは本展の最後のセクションにあった。そこにたどり着いて一目見るなり、美しいと思った。これは傑作だと思った。洋上に浮かぶ2艘の艦船。その黒色が少しも異様ではなかった。輪郭がぼやけているので――それはいかにもターナーらしい――、黒色が存在感を主張しながらも、しっくり画面に収まっていた。

 同時に空の青が美しかった。水平線には白い月が出ていて、日が落ち、夜に移ろうとする時間だろうが、空のうろこ雲はまだ見え、青い空も残っている。その空が透き通るように美しいのだ。

 海面も美しかった。鏡のように静かな海面。そこに空のうろこ雲が映り、また白い月光が映っている。2艘の艦船の黒い影が映り、水葬のかがり火も映っている。すべてを映す鏡のような海面。海の中まで透けて見えそうな海面だ。

 本作はターナーの友人が船上で亡くなり、水葬に付されたことを悼んで描かれた作品だ。その対作品として「戦争―流刑者とカサ貝」があることを本展で初めて知った。流刑者とはナポレオンのこと。「平和―水葬」が冷たい色調であるのにたいして、「戦争―流刑者とカサ貝」は燃えるように赤い夕陽が描かれている。その暖色系の色調が美しい作品だ。だが、海辺にたたずむナポレオンの姿が類型的に感じられる点に違和感があった。

 もう一つ圧倒的な印象を受けた作品は「レグルス」(↑チラシ)だ。入江のむこうから恐ろしいくらいの強い光が射している。この世のものとは思えない光だ。この光はどこかで見たことがあると思った。でも、絵ではない、では、なんだったか――。ふっと思い出した。メシアンのオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」だ。聖フランチェスコが亡くなる最後の場面で、この世ならぬ光が射してくる、その光に似ていた。

 本展は日本にいながらターナーをまとめて観ることができる――ターナーを概観できる――ありがたい機会だ。
(2013.10.31.東京都美術館)

↓「平和―水葬」と「レグルス」は本展のホームページで観ることができます。
http://www.turner2013-14.jp/index.html
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