Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ケント・ナガノ

2011年05月27日 | 身辺雑記
 3.11の直後から、(多少大袈裟にいえば)それこそ世界中で、日本のためのチャリティー・コンサートが開かれています。なかでも話題性が高かったのは、ズービン・メータ指揮N響の「第九」公演でした。当日の感動的な演奏は、今でも余韻さめやらず、といったところでしょうか。わたしは残念ながら聴きに行くことはできませんでしたが、東条先生をはじめ多くのかたのブログで、その感想を共有しました。

 それにくらべると地味かもしれませんが、来たる6月5日(日)にはケント・ナガノが青山学院大学の学生オーケストラを振って、チャリティー・コンサートを開くそうです。チケットは昨日から発売されています。メータ&N響は高額なチケット代でしたが、こちらは1,500円(!)だそうです。

 曲目は渋くて、思わず唸ってしまいました。
(1)バッハ:フーガの技法(野平一郎編曲)
(2)ベンテュス編曲:3つの日本歌曲(ソプラノ:中村恵理)
(3)ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

 中村恵理さんはバイエルン国立歌劇場で歌っているので、その縁で出演するのでしょう。

 念のため、ケント・ナガノの公式ホームページを見てみました。たしかに5月下旬から6月上旬まではスケジュールが空いています。そこを使って、今秋のバイエルン国立歌劇場の来日公演のプロモーションのために来日し、あわせてチャリティー・コンサートを開くようです。

 スケジュールを見て、圧倒されました。欧米各地を飛び回っているのは当たり前として、驚異的だと思うのは、演奏曲目が多岐にわたり、しかも大曲が並んでいることです。これだけの曲目をレパートリーに入れ、しかも短時間で仕上げていくのは、(月並みな表現ですが)たいしたものです。

 Wikipediaによると、ケント・ナガノは日系4世(※)だそうです。昔、日本語は話せないという記事を読んだことがあります。もっとも、奥さまが日本人なので、今では話せるかもしれません。ともかく、英語で育った人です。けれどもその演奏には、意外なほどに日本的な繊細さが感じられます。

 わたしはケント・ナガノと同い年です。そのせいもあって、このような感性の持ち主が、西洋音楽の世界で(あるいは、押しが強くて、タフな神経が必要な音楽ビジネスの世界で)どこまで成功するかを、興味深く見守っています。

(※)「チケットぴあ」の紹介記事によると日系3世。
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ヴロンスキー&読響

2011年05月24日 | 音楽
 読響の5月定期。予定されていたズデニェク・マーツァルが来日しなくなり、ペトル・ヴロンスキーが代演した。プロフィールによると、ヴロンスキーは1946年生まれ。ビエロフラーヴェクと同年齢だ。ビエロフラーヴェクは若いころからチェコ期待の星として日本での知名度が高かった。ビロード革命の直後にチェコ・フィルのシェフに就任したが、どういう事情があったのか、短命に終わった。2012年のシーズンから復帰するそうで喜ばしい。

 一方、ヴロンスキーは、チェコ第2の都市ブルノなどの国内の活動を中心としていたようだ。だから、というわけでもないだろうが、同年齢でありながら、ビエロフラーヴェクとはそうとう個性がちがう。一言でいって、ビエロフラーヴェクは、巨匠となった今でも、清新な抒情をただよわせて、ストレートな演奏をするが、ヴロンスキーは重量級の演奏をする。なるほど、こういう指揮者が、インターナショナルな面ではない、(よい意味で)ローカルな面のチェコの音楽界を支えているのかと思った。

 プログラム1曲目は、モーツァルトのピアノ協奏曲第24番。先ほど「重量級」といったが、この曲では柔らかく、けっして大声にならないオーケストラが快かった。第1楽章の再現部の入りで小さな事故があったが、あれはどういうわけか。もちろんすぐに立ち直ったが。第1楽章では他にも木管のミスが散見された。第2楽章からは安定した。

 ピアノ独奏は清水和音さん。昔は、豪快に、ばりばり弾くイメージが(少なくともわたしには)あったが、そのイメージを一新する繊細な演奏だった。オーケストラともども、温かい音で、滑らかに進行する演奏。楽々と息づいたモ―ツァルトだった。

 2曲目はマーラーの交響曲第5番。近年は国内、国外いずれのオーケストラも、この曲を演奏することが多く、いささか演奏され過ぎの観もあるが、今回の演奏はそういう日常的なレベルをこえたもの、いわば、本気になった演奏だった。だからというべきか、この曲がどれほど凄い曲なのかを、あらためて教えられた気がする。こういう演奏で聴いていると、この曲はそんなに頻繁に演奏すべき曲ではない、なにか特別の機会に演奏すべきだと思った。

 ヴロンスキーは冒頭のソロ・トランペットのファンファーレから、容赦なく最強奏で吹かせていた。ミスもあったけれども、それは二の次。凄まじい音が鳴り渡った。これは第3楽章のソロ・ホルンも同じ。太い音がホールに響いた。しかも安定感があった。奏者はだれだったのだろう。ステージの山台の最後方で立奏するその姿は、実に頼もしかった。
(2011.5.23.サントリーホール)
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皇后陛下ご臨席

2011年05月22日 | 音楽
 小林研一郎さん(以下、コバケンさん)と日本フィルのハンガリー・プロ。盛り沢山の曲目なので、これは長くなるなと思ったら、案の定、長くなった。おまけに各首席奏者、各パートを、曲の終わるごとに立たせるから、なおさら長くなる。

 1曲目はバルトークの「管弦楽のための協奏曲」。コバケンさんのこの曲の演奏は、あまりいじり回さず、ストレートな表現になる。もっとも、昔はもう少しニュアンス豊かだった気がするが、今回は単調だった。オーケストラの反応も今一つだ。全5楽章をアタッカで続けていた。昔もそうだったろうか。

 休憩後、客席に報道陣が入って、カメラを回し始めた。どなたがみえるのかと思ったら、皇后陛下だった。自然とわき起こる拍手。皇后陛下も会場に軽く会釈をされた。会場は温かい空気につつまれた。

 休憩後の1曲目はリストのピアノ協奏曲第1番。ピアニストは小山実稚恵さん。皇后陛下ご臨席だけあって、目のさめるような華麗な演奏だった。長年このピアニストを聴いてきたが、これほど気合が入って、パワフルで、音色の鮮やかな演奏は初めてだ。

 次はコダーイの「ガランタ舞曲」。オーケストラは見違えるようにシャープになった。東欧のロマ(ジプシー)の音楽が情感豊かに、それでいて必要以上に粘らずに演奏された。またテンポを追いあげる部分はスリリングに、しかも破綻なく演奏された。この演奏はこの夜の白眉だった。

 最後はリストの交響詩「レ・プレリュード」。どういうわけか「ガランタ舞曲」に比べるとオーケストラの反応が鈍り、シャープさが失われた。大きく構えた演奏だが、外側からアプローチしている感じがした。

 演奏会終了後は、コバケンさんのスピーチ。スピーチは恒例だが、今回は皇后陛下がご臨席なので、いつもとは意味合いが異なる。被災地への慰問にたいする感謝をこめたその言葉に、(申し訳ないが、アドリブであるので)少しハラハラしてしまった。皇后陛下は、ご自分にむけられた言葉なので、途中から立ち上がって耳を傾けられた。

 コバケンさんによると、事前の打ち合わせでは、オーケストラが去ってから、退席される予定になっていたそうだが、「それでは申し訳ない」ので、オーケストラがお見送りするかたちになった。皇后陛下は、少し戸惑われたようだが、コバケンさんの申し出にしたがって、退席された。会場からは拍手が起こり、皇后陛下は手を振られた。
(2011.5.20.サントリーホール)
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インバル&都響(Aシリーズ)

2011年05月19日 | 音楽
 インバル&都響の5月定期Aシリーズ。1曲目はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏はアメリカの若い奏者ブラッハ・マルキン。もう少し朗々と鳴るとよいと思った。演奏も、きっちり弾いてはいるが、おとなしめだった。残念ながら、楽章を追うにしたがって、気持ちが離れてしまった。

 オーケストラは面白かった。くすんだ色合いの、地味なオーケストラ伴奏部だが、そこになんともいえない面白さがあった。なんといったらよいだろう。地味ななかにも意外に変化がある、といったらよいか。あるいは、巧まざるユーモアが醸し出される、といったらよいか。

 その色合い、あるいは面白さは、2曲目のブルックナーでも同じだった。交響曲第2番。冒頭のチェロによる第1主題が、くっきりとクレッシェンドが付けられ、いかにもインバルらしく感じられた。そのメロディーラインが、全体のなかにしっくり収まっているのが注目された。

 今までは、インバルのブルックナーは、アクセントを強く付け、アグレッシヴな印象があったが、今回は穏やかな味わいを保っていた。ブルックナーの演奏についての、インバルとオーケストラの相互理解が進んだのか。もう一つ考えられることは、今までは初稿を使うことがあったので、(初稿の)尖った部分を強調していた、という要因があったかもしれない。

 今回はノヴァーク/第2稿・1877年版。わたしなどがいうまでもないことだが、第2番の場合は、一筋縄ではいかない。第2稿といっても、初稿(1872年版が初稿と呼ばれている。では、楽章構成をふくめて、大きく改訂された1873年版は、どういう位置付けになるのだろう。)の一部が「省略可能」記号付きで残されていて、事実上、演奏するか否かは、指揮者に委ねられている。今回は、第4楽章末尾の、第1楽章第1主題などの回想は演奏されていた。もちろんこれは一般的なやり方。

 それにしても第2番は、ブルックナーのやりたいことが、この曲で全部出揃ったという意味で、ひじょうに聴き応えがある。ブルックナーは以後、大家としての雄弁な話法を究めていくわけだ。もちろんその道は(改訂につぐ改訂で)平坦ではなかったが。

 インバル&都響は、マーラーでは色彩豊かな演奏を聴かせるが、ブルックナーではモノトーンな音色で演奏するのが面白い。ドイツのどこかのオーケストラが演奏しているような感じがした。
(2011.5.18.東京文化会館)
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ETV特集「放射能汚染地図」

2011年05月16日 | 身辺雑記
 わたしは、普段、テレビを見ないのですが、昨日(5月15日)は興味をひかれる番組があったので、押し入れからテレビを引っ張りだしました。ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図~福島原発事故から2か月~」という番組です。ご覧になったかたも多いのではないでしょうか。NHKの公式ツイッターを見たら、再放送を望む声が多数よせられていました。

 この番組は、国の機関(独立行政法人)の元研究員、木村真三氏が、放射能汚染を計測する姿を追っています。同氏は、原発事故直後、所属の機関から「独自調査をしないように」といわれたそうです。いかにもありそうな話です。同氏は辞表を出しました。

 同氏の動機は、東海村の事故のときに、初動調査が遅れたという反省でした。今回は同じ失敗をしてはならない、現場に行って、しっかり計測しなくてはならない、というのがその動機でした。

 木村氏の車が福島原発に近づくにつれて、放射線量が上がっていきます。息詰まるような瞬間です。放射線量は、直線的に上がるのではなく、ときどき下がることがあります。場所によってムラがあるのが特徴だそうです。

 放射線量がとくに高い場所を「ホットスポット」というそうです。同氏の計測中にそれが見つかりました。浪江町の赤宇木(あこうぎ)という地区です。そこは30キロ圏からわずかに外れているにもかかわらず、異常値を示しました。同地区には避難民がいました。木村氏は計測結果を話しました。戸惑いを隠せない避難民たち。やがて退去を決めました。国からも、東電からも、そして自治体からも、なんの情報もないなかで、同氏だけがその地区の危険性を伝えたわけです。

 全体は、静かな、抑えたトーンで一貫しています。けっして声高に主張することはありません。まるで息をひそめるようにして、生活を破壊された多くの人々の無念さを、淡々と描きます。

 番組の最後、ある夫婦が、飼い犬と飼い猫に餌をやるために、避難所から自宅に戻ります。しっぽを振って大喜びの犬。夫婦は、長居はできないので、すぐに立ち去ろうとします。犬は、鎖をはずして、追ってきます。車は、それを振り払おうと、スピードを上げます。全力で走る犬。わたしはもう見ていられませんでした。

 この番組を通して、福島の「今」がよくわかりました。原発事故を考える原点のようなものが(わたしのなかに)できた気がします。
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鳥瞰図

2011年05月15日 | 演劇
 新国立劇場で上演中の芝居「鳥瞰図」。2008年6月に初演され、今回は再演。初演のときは観ていないので、わたしにとっては初めてだ。作者は早船聡(はやふね・さとし)さん。まだ若いかたで、本作は5作目のようだ(もちろんこれは、プロの公演で舞台化された作品としては、という意味だろう)。

 初演がおこなわれた2008年ころ(つまり当時の「今」)の浦安を舞台にした芝居。浦安は1964年(昭和39年)から始まった埋め立て事業で飛躍的に拡大した。今の面積のうちの4分の3は埋め立て地。そこは東日本大震災で液状化が起き、大きな被害をうけた。本作が舞台にしているのは旧来の浦安(埋め立て地ではないほう)だ。

 浦安はもともと江戸、あるいは東京の賑わいから離れた漁村だった。人々は魚や貝をとって生活していた。戦後も、埋め立て事業が始まるまでは、まだその名残を残していた。当時の浦安を面白おかしく描いたのが山本周五郎の「青ベか物語」だ。1960年(昭和35年)に執筆され、翌年刊行された。

 わたしは今年4月に、液状化とはどのようなものかと、浦安に行ってみた。一言でいうと、街中ガタガタになっていた。ショックをうけて、昔の浦安を知りたくなり、「青ベか物語」を読んでみた。軽妙な筆致のなかに、人間への洞察、四季の美しさ、思いがけない迫力などがちりばめられていて、さすがは名作だと思った。

 このように、浦安の歴史、あるいは浦安を舞台にした人間の営みを考えるなかで出会った芝居「鳥瞰図」。

 浦安には今でも細々と釣り客のための船宿を営んでいる人たちがいる。本作はそのような船宿が舞台だ。船宿を経営する年老いた母とその息子(※)、そこに集まる個性的な面々。いずれも訳ありの人生を歩んでいるが、今を明るく生きている。

 途中休憩なしの2時間5分の上演時間が、あっという間に過ぎた。大きな事件が起きるわけではない。笑いながら、わたしも船宿の常連のような気分になっているうちに幕がおりた。淡い光に満たされた透明感、といったものが舞台にあった。

 演出の松本祐子さんは、早船聡さんとの対談で、本作を「とても幸せなファンタジー」と呼んでいる。そのとおりだ。登場人物たちは、みんななにかを失っている。それはもう取り戻せない。けれども今の生活に、喜びを見つける。それは今のわたしたちの状況には、切ないほどやさしく感じられた。
(2011.5.13.新国立劇場小劇場)

(※)煩瑣になるので根拠は省くが、息子(といってももう中年だ)は、「青べか物語」の登場人物の少年「長」(ちょう)が長じた姿かもしれない。
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インバル&都響(Bシリーズ)

2011年05月12日 | 音楽
 都響の5月定期はプリンシパル・コンダクター(常任指揮者)のインバルの指揮。インバルは3月定期にも予定されていたが、都響の側で演奏会を中止した。事情は知らないが、なにしろ当時は、上野の山のお花見についても、いかがなものかと自粛を求める某知事がいた。都響はその意向を汲んだものと、傍目には見えた。

 昨日のBシリーズのプログラムは次のとおりだった。
(1)シューベルト:交響曲第5番
(2)R.シュトラウス:交響詩「英雄の生涯」

 こういうプログラムだと、1曲目のシューベルトは「風にそよぐ羽毛のような」軽い音で演奏し、2曲目のシュトラウスはボリューム感たっぷりの音で重厚な演奏をするのではないかと予想してしまう。

 けれどもインバルはちがっていた。シューベルトから、全力投球の演奏。太い音で、インバルらしい強いアクセントをつけ、手加減しない演奏。編成は小さいが、低弦もずしんと入ってくる。わたしは第2楽章でA-B-A-B-AのBの部分、転調して陰りをおびる部分の濃い表現に、ことさら惹かれた。

 シュトラウスは、これはもう予想どおりというか、大編成で巨大な音がした。都響の音の大きさは、在京のオーケストラのなかでも屈指だが(これは意識してそう努めているのかもしれない)、先々代のベルティーニの時代には、濁ることもあった。インバルの時代になって、そういうことはなくなった。

 押しも押されもせぬ堂々とした演奏。こわもての演奏、といってもよいくらいだ。艶麗な表現に事欠くものではないが、しなやかな柔構造できかせる演奏ではなく、剛直な演奏。プロフィールによれば、インバルは今年75歳だ。これがインバル晩年の様式かもしれない。マーラーの第2番「復活」のときにも少し感じた要素だ。もっとも第3番や第4番では感じなかったけれども。

 ヴァイオリン・ソロは矢部達哉さん。これも見事なものだった。よく鳴る音と、もたつかず、多彩な表現による演奏。長大なソロがあっという間に終わった。

 いつもそうだが、今回も「英雄の戦場」の部分では、笑ってしまった。あの戦いの描写は、まったくもってカリカチュア的だ。これはシュトラウス一流の諧謔性かもしれない。そして、この部分があるからこそ、最後の「英雄の引退と完成」のシリアスな音楽が、意外感をもって迫ってくる。今回もこの部分の演奏はひじょうに集中度が高かった。
(2011.5.11.サントリーホール)
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被災地

2011年05月09日 | 身辺雑記
 週末には宮城県大崎市に行ってきました。親せきの家が東日本大震災で被害をうけ、建て替えが必要なため、仮の住居に引っ越すことになりましたが、昔からの農家なので、物があふれ、義理の妹が悲鳴を上げてしまったからです。連休前半には義理の兄が手伝いに行き、後半の週末にはわたしが行ったというわけです。

 実際に行ってみると、古い母屋は大震災(当地は震度6強)と液状化のため、ガタガタになり、廃屋同然になっていました。増築部分は、2階を支えるコンクリートの柱(1階は米の倉庫と作業スペースで、2階は住居)がへし折れていました。また納屋の壁のブロックが崩れていました。蔵は土台がはずれて傾いていました。

 土曜日の午前中に着いて、夕方まで片付けの手伝い。お風呂は使えないので省略。夕食後、義理の弟と飲み始めました。宮城の銘酒を2種。その美味しかったこと! 夜はぐっすり眠りました。

 翌日の早朝には、被災地に連れて行ってくれました。被災地は、日中は車両が多く、忙しいとのことで、朝5時に出発。海岸に近づくと、田んぼには小舟が横転し、家の屋根が漂着し、がれきが点在していました。義理の弟は救援活動をしているので、何度か来たことがあり、「これでもずいぶん片付いたんだ」と言っていました。

 海岸沿いを行くと、集落はいずれも壊滅していました。そのなかのひとつに、がれきの撤去に手が付けられていない集落がありました。道だけは開けられていましたが、その両側はがれきの山でした。がれきの上には、波の上の船のように、家が乗り上げていました。横倒しになった家もありました。まるで津波の瞬間のようでした。

 がれきの山を見ていると、その下にはまだ人がいるのではないか、という気になりました。大震災の直後に、懸命に生存者を捜索し、あるいは遺体の収容につとめた人たちの気持ちがわかる気がしました。生き残った方々が、位牌や写真をさがす気持ちも、わかる気がしました。

 こういう惨状にもかかわらず、どこも新緑がきれいでした。桜も咲いていました。驚くべきことには、根こそぎ倒れた桜の木から、花が咲いているのが何本もありました。最後のご奉公でしょう、満開といってもよいくらいです。感動的な光景でした。

 邪魔になってはいけないので、早めに引き上げました。まだ7時前でしたが、被災地に向かう、「災害派遣」と書かれた自衛隊の車両に何台もすれちがいました。
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ラ・フォル・ジュルネ

2011年05月06日 | 音楽
 今年のラ・フォル・ジュルネは、東日本大震災と原発事故のために大揺れに揺れたが、ともかく規模を縮小して開催することができた。

 わたしは当初の発売で3公演のチケットを入手したが、そのうちの2公演はキャンセルになった。その後の仕切り直しの発売で1公演のチケットを入手した。

 仕切り直しで入手できたのは、北村朋幹(きたむら・ともき)さんのピアノ・リサイタル。

 北村さんは、わたしにとっては未知の人だった。チケットを買ったのはプログラムに惹かれたから。実に凝ったプログラムだ。冒頭のバッハのカンタータからのコラールは、アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲に引用されている曲。次はそのベルクのピアノ・ソナタ。3曲目がシェーンベルクの6つのピアノ小品。その第6曲はマーラーの死と関連付けられている。ここまでは死が背景にあるプログラム構成。

 4曲目はブラームスの晩年の作品、6つのピアノ小品。クララとのエピソードで知られている曲だ。次が武満徹の「遮られない休息」より第3曲「愛の歌」。上記のベルクのヴァイオリン協奏曲の冒頭部分が引用されている曲。最後がブルックナーの幻想曲。初めてきく曲だった。黙って聴かせられたら、シューマンかショパンの曲と思うだろう。ということで、後半は愛がテーマのプログラム構成。

 こういうプログラムを組む人はどういう人だろうと思ったら、今年20歳の東京藝術大学の在学生だった。演奏は、若者らしく、思い入れたっぷりの濃い演奏だった。武満徹の冒頭、最弱音で音楽が始まったときに、一人の女性が(どうしたのか)パタンとドアを開けて退出した。ハッとしたが、北村さんは動揺せず、演奏を続けた。

 もう1公演は、イギリスの声楽アンサンブル、ヴォーチェス8(エイト)によるブラームス、ブルックナー、レーガーの合唱作品の演奏会。ブラームスもブルックナーも、合唱に深くかかわったが、今までその作品に触れる機会がなかったので、この演奏会はぜひとも聴きたかった。

 小編成(8人)で、しかもノンヴィブラート唱法なので、どの曲も軽く、透明な演奏。音の線が美しく出た。しかもアンコール2曲が楽しかった。1曲目はブラームスの「子守唄」、2曲目はなんと「となりのトトロ」(!)。ジャズ風にアレンジしてあり、声でスネアドラムやマラカスの模倣をするのが面白かった。
(2011.5.5.東京国際フォーラム&よみうりホール)
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横山幸雄ショパン全212曲

2011年05月04日 | 音楽
 横山幸雄さんの「ショパン・ピアノソロ全212曲完全奏破コンサート」。去年も同様のコンサートが開かれたが、曲数は166曲だった。今年は、遺作をふくめて、印刷譜として入手できるすべての曲を演奏する企画。スケールアップしての再挑戦だ。去年はパスしたが、今年は行ってみた。

 開演は朝8時(!)。冒頭に大震災の犠牲になった人々のために、横山さんの自作曲が演奏された。ショパン的な甘美な曲だ。そしていよいよ212曲にむかっての挑戦が始まった。

 プログラムは作曲年代順に組まれていた。最初はショパン7歳のときの作品。6歳のときに音楽の勉強を始めたというから、その1年後だ。モーツァルトの幼いころの作品のように、可愛らしい曲だが、はっきり発音しているのが印象的だ。

 最初の演奏はピアノ・ソナタ第1番で締めくくられた。第4楽章の情熱ほとばしる演奏が圧倒的だ。なにしろ長丁場なので、スタミナ配分を考えて、最初はセーブするのではないかと思っていたが、そんなことはなかった。いつ、いかなる場合でも、手を抜かないプロ根性、あるいは良心のあらわれだろう。

 ここまでが第一部のパート1。所要時間は1時間10分。休憩が15分あって、パート2が同じく1時間10分。もう一度休憩が15分。パート3も1時間10分。これで第1部が終了した。時刻は12時ちょうど。30分の休憩の後、12時30分から第二部が始まった。以降、同じペースが続いた(例外は第二部の後の休憩が1時間あったことだけ。)。

 第四部は22時ちょうどから開演。わたしは、このときはまだ気合を入れて聴いていたが、演奏が進むにつれて、情けないことに、睡魔とのたたかいになった。けれども横山さんはますます好調。次々に出てくる大曲、名曲を、気迫をこめて、鮮やかに弾いていった。

 横山さんはすべて暗譜。ハプニングがあったとすれば、1箇所だけ。第三部のパート1で1曲とばしてしまった。休憩のときに、聴衆は多少ざわついた。この曲はパート2の冒頭で演奏された。スケルツォ第2番。その演奏がまた見事だった。どうだ!と言わんばかりの名演。さすがは百戦錬磨の演奏家だ。

 終演は26時(深夜2時)。こうして全作品と向き合ったことで、ショパンが(若すぎる)晩年には、音楽史のなかでも数人しかいない、真の大音楽家になったことが、よくわかった。
(2011.5.3~4.東京オペラシティ)
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ナチス、偽りの楽園

2011年05月02日 | 映画
 ドキュメンタリー映画「ナチス、偽りの楽園」をみた。すぐれた俳優であり、映画監督でもあったクルト・ゲロンの、ユダヤ人であるがために、ナチスに翻弄された人生を描く映画。不条理な力によって悲劇の人生を強いられたゲロンを通して、当時の社会が浮き上がってくる。

 ゲロンは俳優として、さらには映画監督として、成功した人生を歩んでいた。ベルリン郊外の、湖に面した高級住宅地に豪邸をかまえた。当時はナチスの台頭期だった。ユダヤ人への迫害は日増しに激しくなり、ゲロンはパリに逃れた。やがてオランダに移り、アムステルダムで捕えられた。テレージエンシュタット(ドイツ語の地名。元々は、そして現在でも、チェコのテレジン)の強制収容所に送られた。

 テレージエンシュタットの強制収容所は、ナチスが第二次世界大戦中に建てた各地の強制収容所のなかでも、特異な存在として知られている。そこにはオーケストラがあり、作曲もおこなわれていた。もちろん人道的な理解があったわけではない。連合国側をあざむくプロパガンダだった。

 よく知られているエピソードだが、1944年に国際赤十字社とデンマーク赤十字社の査察があった。ドイツおよびその支配地域から姿を消したユダヤ人たちの運命について、疑問の声が高まったからだ。ナチスはユダヤ人たちに、査察官を笑顔で迎えさせ、サッカーの試合をさせ、オペラを上演させた。査察官たちはだまされた。

 驚くべきことには、本作にはその映像が出てくる。書物でしか知らなかった史実。しかも、当時26歳だったという査察官が、後年、インタビューに答える映像も出てくる。わたしは今まで、査察官が気付かなかったとは、信じられなかった。しかしインタビューでは、気付かなかったと言っている。ほんとうだろうか。嘘かもしれない。が、自らそう信じこまないと、生きていけないのは確かだろう。国際社会とは、なんと無力なことか。

 合唱の練習風景も出てくる。断片的なので、曲名はわからないが、美しいハーモニーがきこえる。生殺与奪の権をにぎられ、明日(アウシュヴィッツなどの)絶滅収容所に送られるかもしれない人々は、たとえ偽装の練習風景であろうと、そのハーモニーのなかに「神」を感じなかったろうか、ほんの一時であれ、「永遠」を感じなかったろうか、と思った。すべての人々がそうだったとは言えないにしても、何人かの人々は――。

 わたしは、なにかの天啓のように、音楽の力を感じた。
(2011.5.1.新宿K’s cinema)
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