Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

シベリア抑留絵画展 冬と夏を描く

2019年10月31日 | 美術
 「シベリア抑留絵画展 冬と夏を描く」という展覧会が開かれた。わたしも見に行き、感銘を受けた。会期はすでに終了しているが、主催者の平和祈念展示資料館(新宿の住友ビルに所在する)は、同様の展覧会を全国各地で開いているので、参考までに、わたしなりの感想を書いておきたい。

 本展は、同資料館の館外イベントとして、九段生涯学習館で開かれた。敗戦後、シベリア抑留を経験した人々が、帰国してからその記憶を描いた作品の展覧会。合計10名41点の作品が展示された。

 チラシ(↑)に使われている2点の作品は、わたしがとくに感銘を受けた作品だ。上の作品は関豊(1919‐2000)の「朔風」。朔風とは北風のこと。3人の男の姿が逞しいが、よく見ると、先頭の男の体は左に傾いている。輪郭線もおぼろげだ。わたしには、その男は疲れ切って、今にも倒れそうに見えた。

 男たちは雪の斜面を登っていく。先には樹林帯が見える。材木の伐採を行うのだろう。過酷な一日がまた始まる。空には灰色の雲が渦巻く。その一角に丸い薄明かりが見える。シベリアの頼りない朝日だろう。足元には雪の間から枯れ草が見える。

 本作の制作年は、作品リストには「制作年不明」となっているが、展示会場のキャプションには「1987年制作」と書かれていた。関豊の作品は合計7点展示されていたが、作品リストでは、その内5点は「制作年不明」、1点は「1982年」、1点は「1984年」となっている。正確な制作年は不明なのかもしれない。ともかく概ね1980年代と考えて差し支えなさそうだ。関豊が復員したのは1948年なので、それから40年近くたって、長い年月で蒸留されたシベリア体験が、作品に結実したと思われる。

 チラシ(↑)の下の作品は田中武一郎(1908‐1973)の「死骸を運ぶ」(1960年)。シベリアの短い夏。見渡す限りの畑(あるいは草原)が青々と広がる。真っ青な空。白い雲が浮かんでいる。悲しくなるほど美しい風景だ。どこまでも続く茶色い道。そこを荷車が通る。荷台には仲間の死骸を載せている。馬をひく男と、荷台に腰を下ろして、放心したように遠くを見る男。かれらは仲間を埋葬しに行くところだ。ペンで輪郭を描き、水彩で彩色した作品。透明な空気感が捉えられている。

 シベリア抑留体験の絵画というと、香月泰男(1911‐1974)が真っ先に思い浮かぶが、その他にも、わたしの知らない画家が沢山いそうだ。皆さんそれぞれに、かけがえのない体験を作品にとどめている。
(2019.9.30.九段生涯学習館)
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インキネン/日本フィル

2019年10月27日 | 音楽
 去る10月19日の夕方から腹痛を起こし、深夜に救急車で病院に搬送され、緊急入院となった。そのときは、週末の横浜定期に行かれるだろうかと、ベッドの中で考えた。結局、23日に一旦退院となり、横浜定期に行くことができた。その演奏を聴きながら、無事に来れてよかったと思った。

 1曲目はベートーヴェンの交響曲第1番。2曲目のピアノ協奏曲第1番もそうだが、交響曲第1番も、実演で聴く機会はめったにない。その意味では貴重な機会だが、交響曲第1番の演奏は少々荒っぽかった。管楽器(とくに木管楽器)と弦楽器とのバランスに違和感があり、木管楽器に比べて弦楽器の鳴りが悪いと感じた。久しぶりに聴くこの曲に意気込んでいたわたしは、満たされない思いがした。

 2曲目はピアノ協奏曲第1番。ピアノ独奏はアレクセイ・ヴォロディン。その独奏は圧巻だった。とくに第1楽章のカデンツァは、渦巻くような音の動きで、若きベートーヴェンが髪を振り乱して演奏しているような存在感があった。舩木篤也氏のプログラム・ノーツによると、カデンツァにはベートーヴェンの自作が3つあるそうだが(そのうち1つは未完)、そのどれかだろうか。長大な意欲作だった。

 この日のプログラムは長いので、ソリストのアンコールはないだろうと思っていたら、ショパンの「子犬のワルツ」が演奏された。子犬が遊んでいるというよりも、音の連なりがどこかに飛んで行ってしまうような超絶技巧の演奏。それにも驚いたが、もう一曲、ラフマニノフの前奏曲集作品32‐12が演奏されたときには、ヴォロディンの本領の一端に触れる思いがした。

 3曲目はドヴォルジャークの交響曲第8番。クリアーな音でよく鳴るオーケストラは、名演というにふさわしい演奏だった。1曲目のベートーヴェンの交響曲第1番で覚えた不満はすっかり忘れた。堂々として、スケールが大きく、オーケストラが安定していた。舩木篤也氏はプログラムに寄稿した文章で、インキネンが「日本フィルとともに成長した」と書いているが、まさにそれを実感させる演奏だった。

 インキネンは1980年生まれだから、今39歳。そろそろ脂がのる時期だ。来年はバイロイトの「リング」の新演出を振るので、それも自信につながっているだろう。わたしたちはそのインキネンの30歳代を見守ってきた。想い出が多い。

 驚いたことには、オーケストラのアンコールがあった。ドヴォルジャークのスラヴ舞曲作品72‐6。定番のホ短調作品72‐2ではないところがいい。
(2019.10.26.横浜みなとみらいホール)
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ソヒエフ/N響

2019年10月24日 | 音楽
 先日、ソヒエフ指揮N響のCプロを聴いて、少し大げさな表現かもしれないが、この演奏は生涯忘れないだろうと思った。控えめにいっても、今年聴いたオーケストラの演奏の中で、声楽付きの作品を除くと、これがベストだと思った。そんな感慨に浸りながら、その足で新宿に向かい、友人と一杯やった。そのうち下腹部が痛くなったので、飲むのを切り上げて帰宅した。家に帰っても痛みが治まらず、じっと我慢していたが、妻が見かねて、深夜、救急車を呼んだ。近くの病院に受け入れてもらい、処置を受けた。処置がうまくいったからいいが、うまくいかなかったら、緊急手術だったらしい。そのまま入院して、昨日(10月23日)一旦退院した。

 そんな事情で、ソヒエフ/N響の記録を書くのが遅くなったが、上記の通り、たいへん感銘を受けたので、備忘的に書いておきたい――。1曲目のバラキレフの「東洋風の幻想曲『イスラメイ』」(リャプノーフ編曲)は、鮮やかな演奏だし、色彩も豊かだったが、勢いに任せる面もあった。

 2曲目のラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ピアノ独奏は二コラ・アンゲリッシュ)は、ピアノ独奏もオーケストラも、ともに見事な演奏で、見事という形容詞では物足りないくらい、各変奏の性格づけが際立ち、次元の異なる場面が次々に出てくるおもしろさがあった。正直言って、今までに数え切れないほど聴いたこの曲の、真の姿を見た思いがした。

 アンゲリッシュはアンコールにショパンの「マズルカ ヘ短調 作品63‐2」を弾いた。メランコリックな曲だが、アンゲリッシュの演奏はそのメランコリーに沈潜し、偶然かもしれないが、ラフマニノフに通じる情感を醸し出した。

 3曲目のチャイコフスキーの交響曲第4番は目をみはるような演奏だった。第1楽章の冒頭のファンファーレが、滑らかに、やわらかく、流れるように演奏され、まず意表を突かれた。悲劇的な身振りはない。その後の展開も言うに及ばず、既成概念を洗い流した新鮮な演奏が続いた。第2楽章は「エフゲニー・オネーギン」の第1幕のようなメランコリーが漂った。第3楽章のピチカートはまるでアニメを見るよう。第4楽章は歓喜の爆発という既成のプログラムから脱して、ずっしりした手応えがあった。

 全体を通して、ソヒエフとN響の一体感が印象的だった。ソヒエフの音楽は、がっしりした構成が揺るがず、しかもその中に柔軟なフレージングが躍動するものだが、そのような音楽をN響が信頼し、実力を存分に発揮していることが伝わった。ソヒエフとN響は今蜜月の時期にあるようだ。
(2019.10.19.NHKホール)
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インキネン/日本フィル

2019年10月19日 | 音楽
 インキネンと日本フィルのベートーヴェン・チクルスがスタートした。後述するアクシデントもあり、それを含めて印象的なスタートになった。

 当チクルスはドヴォルジャークの知られざる序曲を組み込んでいるのが特徴だ。今回は「アルミダ」序曲。演奏時間約6分(プログラム表記による)の簡潔な曲だが、途中に盛り上がる部分があり、オペラ序曲としては、このくらいの長さがちょうどいい。インキネン/日本フィルの演奏はボヘミアの香りもどこかに漂う好演だった。

 2曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。ピアノ独奏はロシアの名手アレクセイ・ヴォロディン。わたしは以前N響で聴いているのだが、ある事情で、そのときの演奏は記憶に残っていない。今回が初めてのようなもの。高音が輝くようにきれいなことが特徴だと思った。第1楽章のカデンツァは、あまり聴きなれないものだったが、そう感じたのはわたしの勘違いか。

 アンコールにショパンのノクターン第5番が弾かれた。やわらかい響きの中にすべての音がつながる、夢見るような、甘美な演奏。ベートーヴェンとはまったく違うスタイルなので驚いた。

 ヴォロディンの話が先になったが、インキネン/日本フィルの演奏もよかった。弦の音がリフレッシュしていることが印象的だった。インキネンの求める音が日本フィルに浸透しているのだろうが、今回はもう一つ、コンサートマスターが新任の田野倉雅秋だったことも一因かもしれない。入念に神経の行き届いた音だった。

 3曲目はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」。重厚長大とか、巨匠風とか、そんなスタイルではなく、軽やかで、風通しがよく、しかも不思議なくらいに手応えのある演奏。インキネンがベートーヴェンのスコアと対話しているような親密な演奏といってもいい。日本フィルもそれによくついていった。

 アクシデントが起きたのは第2楽章後半だった。ホルンの2番奏者が大きな音を立てて椅子から転げ落ちた。両サイドのホルン奏者が助け起こして、本人も「大丈夫」といった仕草をしたが、その直後にまた倒れた。すぐにスタッフが出てきて、舞台裏に担ぎ込んだ。わたしは「もう演奏継続は困難だろう」と思った。ところが第2楽章が終わると、代替えのホルン奏者が出てきて、第3楽章が始まり、トリオのホルン3重奏を乗り切った。これには驚いた。2番奏者が倒れたときにも驚いたが、それ以上に驚いた。カーテンコールでは代替えの奏者にも大きな拍手がおくられた。
(2019.10.18.サントリーホール)
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関根正二展

2019年10月16日 | 美術
 関根正二展が福島県立美術館で開かれている(会期は11月10日まで)。今後、三重県立美術館(11月23日~2020年1月19日)、神奈川県立近代美術館鎌倉別館(2020年2月1日~3月22日)へ巡回する。

 関根正二(1899‐1919)は20歳と2か月で亡くなった。典型的な夭逝の画家だ。現在の福島県白河市で生まれ、1907年、家族は東京の深川に転居するが、正二だけは白河に残る(理由は不明)。翌年、正二も深川に移る。小学校卒業後、印刷会社で働いたり、信州へ放浪の旅に出たりする。その旅の途中で画家・河野通勢に出会う。1915年、通勢の影響のもとで描いた「死を思う日」が二科展に入選。翌年以降も入選を続ける。1918年には「信仰の悲しみ」、「姉弟」、「自画像」の3点が入選し、樗牛賞を受ける。同年、スペイン風邪にかかり、翌年亡くなった。

 略歴が少々長くなってしまったが、要するに、関根正二はほとんど独学で絵を習得し、10歳代後半にみずみずしく個性的な感性を開花させ、その直後に世を去った画家だ。

 今年は関根正二の生誕120年・没後100年に当たるので、大規模な回顧展として本展が企画された。かりに関根正二の代表作を3点選ぶとしたら、「信仰の悲しみ」(大原美術館所蔵)、「三星」(東京国立近代美術館所蔵)、「子供」(石橋財団アーティゾン美術館所蔵)になると思うが、それらの3点をはじめ、国内各地の美術館から主要作品を集め、また関連資料、さらには上記の河野通勢などの作品も集めている。

 心に触れる作品がいくつかあったが、その内「信仰の悲しみ」(※)について感じたことを記すと――。5人の女性が、果実を持って、画面の左方向へ歩いている。中央の赤い服の女性が目立つのはいうまでもないが、その後ろの、一人だけ正面を向いている女性が、妙に気になる。なぜその女性は正面を向いているのか。顔立ちも他の4人とは違う。

 その女性を見ているうちに、「三星」(チラシ↑)の画面右の女性を思い出した。中央の男性は正二自身、左の女性は姉とされ、右の女性は、正二が恋心を寄せたが、東郷青児に奪われた田口真咲ではないかという説がある(確定はしていないが)。その女性と「信仰の悲しみ」のその女性は、ともに正面を向き、下膨れの顔立ちをしている点が、共通するように感じられる。

 もし二人が同一人物をモデルとするなら、「信仰の悲しみ」のその女性は田口真咲である可能性が出てくる。青木繁が「海の幸」に恋人・福田たねを描き込んだことを連想するが‥。
(2019.10.14.福島県立美術館)

(※)「信仰の悲しみ」の画像
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テミルカーノフ/読響

2019年10月10日 | 音楽
 テミルカーノフが読響を振ってショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」をやるというので、期待は高まる一方だった。そんなときにかぎって、「?」という結果になることがあるので、要注意だと自分をいさめながら出かけた。

 1曲目はハイドンの交響曲第94番「驚愕」。14型のオーケストラがよく鳴る。というより、ホールの鳴らし方をよく心得ている。暖色系の柔らかい音がホールを満たした。第2楽章の「びっくり」の強奏も手応えがあった。

 次はショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」。ステージを埋め尽くすオーケストラを見ると、ハープ4台が目をひく。プログラムに掲載された楽器編成を見ると、ハープ2台になっているので、増強しているようだ。先走っていうと、4台のハープはとくに第3楽章「商店にて」で威力を発揮した。沈鬱なアダージョの音楽の中で、ハープの重い足取りが耳に残った。

 話を戻すと、第1楽章「バビ・ヤール」が始まってすぐに、男声合唱のハーモニーの純度が足りないのが意外だった。新国立劇場合唱団だが、先日観た「エウゲニ・オネーギン」の初日では澄んだハーモニーを聴かせていたのに、そのレベルに達しない。実はこの日、同じ時間帯に新国立劇場では「エウゲニ・オネーギン」の4回目の公演をやっているので、合唱団は二手に分かれた形だ。さては格落ちかと、考えなくてもいいことを考えた。

 バス独唱はピョートル・ミグノフという歌手。この人にも期待していたのだが、2階席正面の後方で聴いているわたしには、声が届いてこなかった。もちろん全然聴こえないわけではないのだが、声の強さと存在感に欠けた。

 オーケストラは彫りの深い演奏を展開した。「彫りの深い」という表現が物足りないくらい、音楽を知り尽くし、緩急・強弱・陰影に隙がなく、音楽と一体化した演奏だった。それはもちろんテミルカーノフの功績だろう。すっかり手中に収めたこの曲への、テミルカーノフの共感、尊敬、信念、そんな思いが伝わってきた。

 そういう演奏で聴いていると、第4楽章「恐怖」は、スターリンの粛清時代のショスタコーヴィチ自身の恐怖だと感じられた。全5楽章のうち、この楽章でもっとも表現が深まるのは、ショスタコーヴィチ自身の過去の経験の投影だからだろうと思った。

 第1楽章「バビ・ヤール」で「ロシア民族同盟」という反ユダヤ団体が出てくるところでは、今の日本の危うさを思った。今でもリアルな曲だ。
(2019.10.9.サントリーホール)
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ミンコフスキ/都響

2019年10月09日 | 音楽
 ミンコフスキが都響を振るのは今回で5度目だそうだ。わたしはそのほとんどを聴いているが、どれもおもしろかった。今回はシューマンとチャイコフスキーの名曲プログラムだったが(ただし、後述するように、一捻りしている)、今回もおもしろかった。

 1曲目はシューマンの交響曲第4番(1841年初稿版)。2003年に出版された厳密なクリティカルエディションのフィンソン版による演奏。どこかで聴いたことがあるような気もするが、ともかく新鮮な感覚で聴けた。耳慣れた1851年第2稿と比べると、オーケストレーションがすっきりしていて、シューベルトの初期の交響曲につながる。語弊があるかもしれないが、正気だった頃のシューマンの面影が窺える。

 オーケストラは14型の対抗配置。指揮者の左側から第1ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ+コントラバス、第2ヴァイオリンと配置され、各々のパートが明瞭に分離して聴こえた。

 2曲目はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。冒頭のファゴットが太く豊かな音で鳴った(フレーズの最後に小さな瑕があった)。ファゴットの音はその後も、全編を通して、目立った。女性奏者だったが、だれだろう。都響では見慣れない人だった。

 第1楽章の展開部の入りが劇的だった。どんな指揮者でも、居眠りしている聴衆を驚かすような強烈な音を出すが、それとは質的に違い、「なにか取り返しのつかないことが起こった」と感じさせるような音だった。物理的な音響という以上に、精神的なショックを感じさせる音。なぜそうなるのか。その直前のファゴットをバスクラで代用せずに、ファゴットで吹かせたためか。言い換えれば、チャイコフスキーの意図通りの音が鳴ったからか。

 その辺りから、わたしは身を入れて聴き始めた。そうすると、そこに展開されている演奏が、一般的な「型」から離れて、ミンコフスキがスコアから読み取ったそのままの形で、ナイーヴに、初々しく提示されていることに気付いた。

 そのような演奏でこの曲を聴くと、たとえば第4楽章は「謎」の音楽のように聴こえた。一般的にプログラムされている「死」の音楽とか、自分自身への「追悼」とか、そんな物語性で聴くのではなく、「いったいなぜチャイコフスキーはこんな音楽を書いたのだろう」という戸惑いを感じた。

 ミンコフスキを聴く意味はそこにあるのかもしれない。手垢のついていない解釈という、言うは易く行うは難い事柄を、ミンコフスキは経験させてくれる。
(2019.10.7.東京文化会館)
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井上道義/N響

2019年10月07日 | 音楽
 井上道義指揮N響の定期。1曲目はフィリップ・グラス(1937‐)の「2人のティンパニストと管弦楽のための協奏的幻想曲」(2000年)。2人のティンパニ奏者を独奏者とする協奏曲という珍しい曲。独奏者はN響の2人の首席ティンパニ奏者、植松透さんと久保昌一さん。

 ステージの前面に、指揮者を挟んで、ずらっとティンパニが並ぶ。下手(客席から見て左側)に植松さん、上手に久保さん。植松さんは立奏、久保さんは腰かけて演奏。比喩として適当ではないと思うが、あえて漫才のボケとツッコミに例えると、植松さんのパートはツッコミ的に、久保さんのパートはボケ的に書かれている。リズムを先導する植松さんと、それを受ける久保さん。

 全3楽章からなり(プログラム表記では演奏時間約27分)、第2楽章と第3楽章の間にカデンツァが入る。そのカデンツァは、2人のティパニ奏者だけでなく、オーケストラの中の打楽器奏者たちも加わり、打楽器アンサンブルになる。わたしは高校時代まで打楽器をやっていたので、昔の血が騒いだ。

 オーケストラの音は「抜けるような青空」的な明るく乾いた音。その音でグラス特有の小刻みなリズムが続く。ノリのいい曲、ゴキゲンな曲、そんな曲を演奏するN響は見事だった。なおコンサートマスターにはキュッヒルさんが入った。グラスの曲を弾くキュッヒルさんも見ものだった。

 プログラム後半はショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」。これも見事な演奏だった。弦は18型の大編成だったが、その弦が重くならず、また3管編成を基本とする管楽器と多数の打楽器という巨大なオーケストラ編成にもかかわらず、トゥッティでも音が濁らず、アンサンブルも雑にならなかった。どんなにスピードを出しても安定走行を続ける高級車のようなもので、そのハンドルを握る井上道義の棒も冴えていた。

 聴きどころは沢山あったが、一つだけあげると、第3楽章でのヴィオラの旋律が、豊かな音で情感たっぷりに歌われた。ヴィオラのトップには首席客演奏者の川本嘉子さんが入った。川本さんが入るとヴィオラの音が変わるようだ。

 仮にこの演奏がCD化されたら、名演だと思うだろう。だが、会場で聴いていると、気になることがあった。それはどこか楽天的なことだ。たとえば第1楽章冒頭の弦は、美しくはあるが、緊迫感とか不穏さには欠ける。そんな楽天性が最後まであった。それは音響とか技術とかを超えた、指揮者の全人格の反映と思われた。
(2019.10.6.NHKホール)
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「エウゲニ・オネーギン」雑感

2019年10月05日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「エウゲニ・オネーギン」の感想は先日書いたが、それに付随して、このオペラについて考えていることを書いておきたい。

 それはこのオペラとワーグナーの「さまよえるオランダ人」との関連はあるのか、ないのか、ということだ。「エウゲニ・オネーギン」では、タチヤーナはロマン的な小説を読み耽り、オネーギンを夢見るようになっている。そこに現実のオネーギンが現れるので、タチヤーナは一気に恋に落ちる。というよりもむしろ、タチヤーナは現実のオネーギンが現れる前からすでに恋に落ちている。

 同じように「さまよえるオランダ人」では、ゼンタは日々、呪われたオランダ人の絵を見つめ、そのオランダ人を救済するのは自分だと思い詰めている。そこに現実のオランダ人が現れるので、一気に恋に落ちる。夢想が現実になる。

 双方のプロットはそっくりだ。もっとも、その後の展開は、「エウゲニ・オネーギン」では、タチヤーナはオネーギンにふられ、数年後にはオネーギンがタチヤーナにふられるという展開になる(それはもちろんプーシキンの原作に沿っている)。一方、「さまよえるオランダ人」では、ゼンタはオランダ人を救うために自己犠牲をするという(劇的ではあるが)ワーグナーの願望に満ちた展開になる。そのように、前者は現実的な展開、後者はヒロイックな展開と対照的だが、その発端は似ている。

 音楽面を見ると、「エウゲニ・オネーギン」では、全体はタチヤーナの手紙の場を中心に構成され、「さまよえるオランダ人」ではゼンタのバラードを中心に構成されている点が似ている。そのゼンタのバラードは、マルシュナーのオペラ「吸血鬼」での吸血鬼のバラードに範をとっているので、マルシュナーからワーグナーへ、ワーグナーからチャイコフスキーへと受け継がれた構成方法だ。

 ワーグナーとチャイコフスキーということでは、もう一つ、「ローエングリン」の禁問の動機と「白鳥の湖」の白鳥のテーマとの類似性がある。その類似性は偶然とは思えない。だが、文字通り「動機」にすぎない禁問の動機と、それを「旋律」に発展させた白鳥のテーマとは、性格が異なる。「発端」は同じだが「その後の展開」が異なるというパターンが、ここでも見られる。

 ワーグナーとチャイコフスキーとは面識があったのだろうか。調べればわかることなのだが‥。少なくとも第1回バイロイト音楽祭で「ニーベルングの指輪」全体が初演されたとき、チャイコフスキーはその場にいた。そのときチャイコフスキーがワーグナーを表敬訪問したことはあり得るだろう。
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新国立劇場「エウゲニ・オネーギン」

2019年10月02日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「エウゲニ・オネーギン」は、歌手もオーケストラも演出もよかった。歌手はオネーギン(ワシリー・ラデューク)、タチヤーナ(エフゲニア・ムラーヴェワ)、レンスキー(パーヴェル・コルガーティン)、グレーミン公爵(アレクセイ・ティホミーロフ)をロシア勢が占め、その他は日本勢で固める布陣。

 そのロシア勢がよかった。オネーギン役は、厭世的な気分には欠けるが、歌はしっかりしていた。タチヤーナ役のムラーヴェワは、わたしには想い出の歌手だ。2017年のザルツブルク音楽祭で「ムツェンスク郡のマクベス夫人」を観たとき、タイトルロールに予定されていた歌手が降板し、ムラーヴェワが代役に立った。そのときの見事な歌唱に、客席は沸きに沸いた。マリス・ヤンソンス指揮ウィーン・フィルの快演とともに、わたしの脳裏に焼き付いている。

 そのときのムラーヴェワは、体当たり的な熱唱だったと記憶するが、今回は余裕をもって声をコントロールしていた。ステージマナーにも落ち着きがあり、社交界の貴婦人となったタチヤーナを見るオネーギンの心境を(わたしも)味わった。

 レンスキー役のコルガーティンは、声に独特の細さがあるが、情熱的に歌った。グレーミン公爵役のティホミーロフは、深々としたロシアのバスで堂々と歌った。それを聴いていると、下降音型が網の目のように張り巡らされたこのオペラの中で、唯一上昇音型で書かれたこの役の異質性が印象づけられた。

 それに対して、日本勢は分が悪かった。オリガ、ラーリナ、乳母の3役は、乳母の竹本節子を除いて、ロシア勢と比べて声にギャップがあり、またコミカルな役柄として演出されたそれらの演技が、わざとらしく、底が浅かった。一方、合唱の澄んだハーモニーは特筆ものだった。

 指揮のアンドリー・ユルケヴィチは有能な指揮者のようだ。通り一遍の指揮ではなく、活きのいい音楽づくりをする。オーケストラ(東京フィル)もそれによく応えていたが、今一つ重かった。

 演出のドミトリー・ベルトマンは、基本的にはオーセンティックな演出を見せた。細かい点に工夫があり(第1幕の手紙の場でのオリガとラーリナのコミカルな演技とか、第2幕の決闘の場の演出など)、また多少の大胆さもあったが(第3幕の舞踏会の演出)、でも、もしこの演出をヨーロッパで観たら、「おとなしい演出だな」と思う範囲に止まっていた。具象的な舞台美術と照明は美しかった。
(2019.10.1.新国立劇場)
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