Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ルドン展

2012年02月27日 | 美術
 「ルドンとその周辺―夢見る世紀末」展。ルドン(1840~1916)はモネ(1840~1926)と同年生まれだ。実はそのことを本展で知って、意外な感じがした。もっと後のような気がしていた。印象派のど真ん中にいたモネと同時代人だと考えると、ルドンの特異性が際立つ。

 ルドンは色彩あふれる幻想的な画家のイメージがあるが、当初は木炭や石版画(リトグラフ)で黒一色の作品を作っていた。テーマは、宙に浮かぶ眼とか、人間の顔をもつ植物とか、奇妙なものが多かった。それが50歳頃を境にガラッと変わった。色彩豊かな宗教画や物語画が描かれた。

 本展はそのような作風の変化を辿るとともに、ルドンの周辺の象徴主義の画家たちを概観するものだ。展示総数140点。驚くべきことには、1点を除き(その1点が三菱一号館美術館の「グラン・ブーケ(大きな花束)」だ)、全部が岐阜県美術館の収蔵品。これは質量ともにたいへんなコレクションだ。本展は「グラン・ブーケ」のお披露目の企画だが、岐阜県美術館のコレクションの紹介の意味もある。

 音楽好きには、ルドンは武満徹と結び付く名前だ。ルドンの「眼を閉じて」に触発されて、武満徹はピアノ曲「閉じた眼」を作曲した。日本語表記はちょっとちがうが、フランス語表記はともにLES YEUX CLOSだ。

 その「眼を閉じて」も展示されていた。実物を観るのは初めてだ。水平線のかなたに巨大な女性の顔が出現する不思議な作品。想像していたよりも美しかった。油彩画もあるが、本展はリトグラフ。武満徹が観たのもリトグラフだ。

 話が横道にそれるが、この週末はCDで「閉じた眼」を聴いた。藤井一興、岡田博美そして高橋アキのCD。三者三様、それぞれまったく異なる演奏だ。もちろん譜面の読み方のちがいだが、おそらく3人ともルドンの作品を観ているので、ルドンになにを感じたかのちがいでもあると思われた。高橋アキはモニュメンタルな存在感を、岡田博美は穏やかな瞑想を感じたのではないか(藤井一興はよくつかめなかった)。わたしが一番面白かったのは高橋アキだ。

 さて、話を戻して、本展の目玉の「グラン・ブーケ」。なにしろ大きい。縦248.3cm、横162.9cm。これが狭い展示室にドンと置かれている。正直にいうと、窮屈な感じがした。もとはフランスの貴族の城館の大食堂を飾るための作品だ。作品とそれを展示する空間との密接な関係を考えさせられた。
(2012.2.24.三菱一号館美術館)
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ヴァンスカ/読響

2012年02月22日 | 音楽
 オスモ・ヴァンスカが客演した読響の2月の各公演は、フィンランドの現代作曲家カレヴィ・アホの作品が組み込まれている。昨日は定期演奏会で、管弦楽曲「ミネア」が演奏された。これはヴァンスカ指揮ミネソタ管弦楽団によって2009年に初演された作品。曲名の「ミネア」とはミネソタ管の本拠地ミネアポリスに由来すると思われる。

 プログラムには作曲者自身の解説が載っていたので、どういう曲かわかりやすい。この曲はヴァンスカから「約100人の大オーケストラのための、16~20分ほどの作品」を書いてほしいと頼まれて書いたそうだ。「彼は、ミネソタ管のメンバー全員が活躍することのできる作品を望んでいたのだ。」

 たしかにそのとおりの曲だ。解説によれば、曲はトランクィッロ(穏やかに)→アレグロ(活発に)→フリオーソ(熱狂的に)→プレスト(急速に)と進行する。なかでも印象に残るのはフリオーソ→プレストの部分だ。各種の打楽器が、複雑な、しかし一定のパルスをもったリズムを打ち続け、オーケストラが断片的な音型をそこに積み重ねて膨れ上がる。「つまり、音楽が終わりに向けて、巨大なアッチェレランドとクレッシェンドを形成するのだ」。

 このリズムにはアラビヤ音楽の語法が用いられているそうだ。そのためかどうか、ある種の呪術的な、もっといえばシャーマニズムの色彩があった。

 この曲は、演奏会冒頭の序曲として、あるいはメイン・プロが終わった後の締めの曲として、効果絶大だ。聴衆が熱狂することはまちがいない――のだが、この日の演奏はお行儀のよさが感じられた。

 カレヴィ・アホといえば、ヴァンスカと読響が2009年に演奏した交響曲第7番「虫の交響曲」が記憶に新しい。あれはカレル・チャペック(ヤナーチェクの「マクロプロス事件」の原作者だ)の戯曲「虫の生活」(兄ヨゼフとの共作)によるオペラの音楽を使った交響曲ということだった。そこで事前に戯曲を読んでいった。すると交響曲の各楽章が戯曲のどの部分を描写しているか、手に取るようにわかった。

 その経験と今回の「ミネア」を聴いた印象からいって、カレヴィ・アホは驚くほど雄弁な(しかし饒舌には陥らない)描写力をもった作曲家のようだ。

 昨日はその後、「ばらの騎士」組曲とブラームスの交響曲第1番が演奏された。いずれもクールな演奏だった。
(2012.2.21.サントリーホール)
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ノセダ/N響

2012年02月20日 | 音楽
 ジャナンドレア・ノセダが振ったN響の2月定期。ノセダの客演はこれで3度目だ(と思う)。毎回、凝った、ありきたりではないプログラムを組んでいる。今回もそうだ。

 とはいっても、1曲目はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。ポピュラー名曲の代表作のようなものだ。ソリストとの関係で、あるいはマネジメント側からの要請で、こういう曲が入ってくるのも当然だろう。もちろん名曲だが、今回はなにも感じなかった。自分のなかでこの曲を聴く動機がなくなってしまったのか。

 ピアノ独奏はデニス・マツーエフ。1975年、イルクーツク生まれとのこと。

 アンコールが2曲演奏された。1曲目はとてもシンプルで、アンティークなオルゴールを聴いているような曲。演奏が終わったら、そっと溜息がもれた。休憩時間にロビーで確認したら、リャードフの「音楽玉手箱」作品32から「おどけたワルツ」とのこと。なんてチャーミングな曲なのだろう。

 2曲目は豪快な曲で、ジャズのイディオムを取り入れたショーピースのような曲。これはいったいだれの曲かと思ったら、即興演奏だった! 面白い。実に聴衆を楽しませてくれるライブ感覚あふれるピアニストだ。

 休憩後はアルフレード・カセルラ(1883~1947)の交響曲第2番。これがお目当ての演奏会だった。そして期待どおりの面白さだった。

 第1楽章は緊張をはらんだ鐘の音で始まる。一気に事態が切迫して、異常な焦燥感に満ちた、テンションの高い音楽が繰り広げられる。第2楽章はスケルツォ、第3楽章は緩徐楽章と形式的には型どおりの進行だが、第1楽章の流れを汲んで悲劇的なトーンが支配する。第4楽章はフィナーレ。悲劇がついに現実のものになり、破局が訪れる。ここまでは一貫した流れが感じられるが、最後にエピローグとして第5楽章が来る。これが意外なことに肯定的な歓喜の音楽なのだ。その意味を測りかねているうちに終わった。

 栗原詩子氏のプログラム・ノートには、マーラーの交響曲第2番「復活」からの影響が指摘されている。それはそうなのかもしれないが、ともかくなにか隠されたプログラムの存在が感じられる曲だ。そこには黙示録的な色彩がある。カセルラは、第2次世界大戦中は「戦争協力者としての一面」(Wikipedia)があったそうだ。もちろんこれ1曲だけでは判断できないが、異常に熱しやすい側面、あるいは美学的な幻想に傾く資質が、少なくともこの曲では感じられた。
(2012.2.18.NHKホール)
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沈黙

2012年02月17日 | 音楽
 新国立劇場の新制作、松村禎三の「沈黙」。その初日と2日目を観た。

 2日目のほうがよかった。初日は慎重すぎた。硬さがほぐれなかった。スタッフ、キャストの意気込みはよくわかる。だからこその慎重さだったのだろう。2日目のキャストは伸びのびやっていた。

 2日目の宣教師ロドリゴ役は小原啓楼さん。正直いって、最初は不安定だった。これはちょっと……と思った。けれどもこれは意図的なペース配分だったようだ。第2幕の牢の場面では、ロドリゴその人が乗り移ったかのような絶唱を聴かせた。暗い客席で耳を澄ましながら、何度か涙をぬぐった。

 これはわたしにとって永遠のロドリゴだ、と思った。1993年の初演以来すべてのプロダクションを観ているが、ロドリゴの苦悩がこれほどストレートに伝わったことはない。だからこそいうのだが、弱音になると言葉が不明瞭になる傾向が気になった。

 ダブルキャストなので、それぞれの個性や力量のちがいはあるが、それを云々してもあまり意味はないと思う。総じて初日はベテランが多かったので、自分の型から抜けきれないうらみがあった。2日目のほうが役に没入していた。

 指揮は下野竜也さん。初日はそれこそ慎重で、下野さんらしくなかったが、2日目は伸びのびしていた。もっともこれはオーケストラの問題かもしれない。どこからどこまでが下野さんで、どこから先がオーケストラなのかはわからない。なおピットが狭いので、チェンバロは舞台上手、ピアノは下手に乗せていた。それはよいのだが、パーカッションは別室に配置して、テレビモニターでつなぎ、PAで音を流していた。ほんとうは生の音のほうがよいのだが。もっともその場合はバランスに注意が必要だ。

 演出は宮田慶子さん。演劇のときにくらべると、勝手がちがうのだろう、窮屈な感じがしないでもなかった。それでもキチジローを随所に登場させて、ドラマに陰影を与えたところは、宮田さんらしい着想だ。だが、なんといっても、幕切れの演出が初日と2日目とで異なっているのが衝撃だった。これはドラマの性格を左右する本質的なちがいだった。なぜだろう。まだ公演中なので、具体的な記述は控えるが。私見では、2日目のほうが、白黒をはっきりつけない意味で、よかったと思う。

 最後に私事を。前述したとおり1993年の初演に立ち会ったことは、わたしの音楽人生の最大の出来事だった。いつも大事に胸に秘めている。
(2012.2.15&16.新国立劇場中劇場)
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フランクフルト:魅せられた旅人

2012年02月12日 | 音楽
 ドレスデンから帰国の途についた。いつもはSバーンで空港に向かうのだが、この日は運休だったので(工事のためか)、バスを使った。ホテルを出たのは朝6時。まだ真っ暗だった。中央駅の近くのバス停から乗車。バスだとあちこち裏通りを回るので、今まで知らなかった街の裏側を見ることができた。街路灯がまばらで、殺風景だった。まだ東ドイツのころの面影をとどめているようだった。中央駅の駅前はショッピングセンターができたりして、すっかりきれいになったが、裏側はまだのようだ。

 フランクフルトでの乗り継ぎ時間を利用して、演奏会に行った。

 演奏会はゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場の公演。曲目はシチェドリンのコンサート会場用オペラ「魅せられた旅人」だ。これは2002年にマゼール指揮ニューヨーク・フィルによって初演された作品だ。

 これが実に面白かった。全2幕休憩なしに演奏されたが、正味2時間ほどの演奏時間のあいだ、飽きることがなかった。音楽が雄弁だったからだ。たとえていうなら、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」に声楽(本作では歌手3人と合唱)が付いたような音楽だ。ただ「シェエラザード」とはちがって、ロシア正教の聖歌や鐘の音によって生まれる宗教性が、深く混沌としたロシアの精神風土を感じさせた。

 演奏もすばらしかった。むしろ、凄かった。大地を揺るがすような地響きから一本の張りつめた糸のような最弱音まで、ものすごい振幅だった。3人の歌手もすっかり役柄を手中に収め、これ以上はないくらいの歌唱だった。バスはセルゲイ・アレクサーシキン(この人は声の調子が今一つだった)、メゾソプラノはクリスティーナ・カプスティンスカヤ(女優顔負けの美貌の歌手だ)、テノールはアンドレイ・ポポフ。

 この日はドイツ初演だった。演奏終了後、ゲルギエフや歌手たちに促されて、シチェドリンが舞台に上がった。今年80歳になるが、いたって元気だ。聴衆はスタンディングオベーションで迎えた。

 コンサート会場用オペラというジャンルは、シチェドリンの創意によるのかどうか、よく知らないが、今のようなオペラの時代にあっては有望なジャンルだ。外見的には演奏会形式のオペラ上演と変わらないが、舞台を想定していない分、音楽だけで充足している。

 本作の原作はニコライ・レスコフ(ショスタコーヴィチの「ムツェンスク郡のマクベス夫人」の原作者)の小説だ。岩波文庫に入っているので、事前に読んでいった。これもものすごく面白かった。
(2012.2.5.アルテ・オーパー)
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ドレスデン:ルル

2012年02月11日 | 音楽
 翌日はドレスデンに移動して、ベルクの「ルル」を観た。これはコペンハーゲン王立歌劇場との共同制作だ。コペンハーゲンではすでに2010年に初演されている。ドレスデンではこの日が初演。

 最大の関心事は第3幕がエバーハルト・クローケEberhard Klokeによる補筆版であることだ。例のフリードリッヒ・ツェルハの補筆版の初演が1979年だったから、30年あまりたった今、新たな補筆版が出たわけだ。第3幕は未完とはいえ、ベルク自身の台本はもちろん、パルティチェル(簡易スコア)が残されているわけだから、新たな補筆といっても、どこまでできるのか半信半疑だった。

 で、どうだったのか。これが面白かった! とくにパリを舞台にした第1場での3つのアンサンブルのうち、2つ目と3つ目が。2つ目のアンサンブルでは、各人各様に勝手なことを喋っているが、その騒然としたなかで、ルルとゲシュヴィッツ伯爵令嬢との会話が始まると、これが明瞭に浮かび上がった。まるで他の登場人物たちが、一瞬、沈黙したようだった。アッと息をのんだ。なにが起きたのか――。

 3つ目のアンサンブルでは、オーケストラがそれまでのアンサンブルにくらべて音価を短縮して、高速回転のフィルムのように動いた。その動きを断ち切るように、シゴルヒによって殺害される侯爵の叫び声が聴こえた。音楽がピタッと止まった。その直後に、オーケストラなしで(ア・カペラで)、登場人物たちが猛烈な勢いで喋り始めた。腰が抜ける思いだった。

 その他、ベルクが使わなかったアコーディオンが使われていることも特徴的だった。

 演出はシュテファン・ヘアハイム。バイロイトの「パルジファル」で凝りに凝った演出にふれた経験があるが、今回はすっきりした演出だった。場所は場末の見世物小屋。ルルは見世物の世界の住人だ。そこに現実の世界の住人(ルルの求愛者たち)が介入する。命を落とした男たちは、ピエロになって、見世物の世界の住人になる。だがシェーン博士の死とともに現実の世界が消滅する。それに伴い見世物の世界も崩壊する。

 コルネリウス・マイスターが指揮するドレスデン・シュターツカペレの演奏は極上だった。これはもういつまででも聴いていたかった。「ルル」の音楽とはどのような音楽であるか、やっとわかった気がする。軽い浮遊感がけっして損なわれることのない音楽だ。ルルを歌ったのはGisela Stille。この人も軽い浮遊感を失わない歌唱だった。ルルの恐さはこの軽さにあることに気付いた。
(2012.2.4.ドレスデン国立歌劇場)

追記
 出版社(ウニフェルザール)のホームページによると、クローケ補筆版は指揮者および演出家に構成上の余地を残した版らしい。
コメント (4)
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ハンブルク:リア

2012年02月10日 | 音楽
 翌日はハンブルクに移動して、アリベルト・ライマンの「リア」を観た。原作はシェイクスピアの「リア王」。初演は1998年で、タイトルロールはディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ、指揮はゲルト・アルブレヒト、場所はバイエルン国立歌劇場だった。

 当時のライブ録音のCDがある。それを聴いたときには、これは傑作だと思った。シェイクスピアの偉大さに真っ向から挑んでいるのがよい。けっして斜に構えていない。それは台本(クラウス・H・ヘンネベルク)も音楽も、だ。これはいつか生で観たいと思った。ドイツではけっこう頻繁に上演されている。そしてついにその機会が訪れたわけだ。

 演出はカロリーネ・グルーバー。大胆で鋭い語り口だ。開演前、客席がまだザワザワしているときに、背広姿の一人の男が現れる。テーブルや椅子(事務用の簡素なもの)を見て回り、奥のほうの椅子に腰かける。どうやらこれは「道化」らしい。やがてオーケストラがチューニングを始める。何人かの男や女が現れる。なかには遅れて慌ただしく入ってくる男もいる(シェイクスピアの原作のト書きどおりだ)。客席の照明が落ちる。リア王が入ってくる。白いワイシャツに黒いネクタイ、黒い吊りズボンという服装だ。ア・カペラで第一声を発する。オーケストラが続く。指揮者はいつの間にかそこにいた。

 この始まり方はいかにも演劇的だ。

 台本と異なっていたのは、道化の扱いだ。台本では道化は第1幕の幕切れで姿を消す。だがこの演出では第2幕にも黙役で登場した。末娘のコーディーリアとフランス王の陣営の場面で、2人はワインを飲みながら食事をしている、という演出がおこなわれた。そのときワインを注ぐ給仕が道化だった。コーディーリアはそれに気付いてハッとする。道化は何食わぬ顔でワインを注ぐ。またリア王がコーディーリアに保護されて、つかの間の安らぎをえる場面では、コーディーリアはすでに殺害されている、という演出だった。リア王が見るコーディーリアは道化の変装だ。

 これらの演出も演劇的だ。全体としてこの上演は、演劇の発想をオペラに持ち込み、両者の高い次元での融合を目指していると思われた。

 リア王はボウ・スコウフス。魂の根源が揺らいだリア王を表現して圧倒的だった。今までヴォツェックやビリー・バッド(ブリテン)で高い評価を得てきたが、これも当り役ではないか。指揮はシモーネ・ヤング。多数の打楽器は舞台裏に配置された。音量的なバランスを考慮してのことだろう。反面、生々しい音色は削がれた。終演後、聴衆はスタンディングオベーションで讃えた。
(2012.2.3.ハンブルク国立歌劇場)

追記
 本作は2013年11月に東京二期会が上演する予定だ。歌手は未発表だが、オーケストラは下野竜也さん指揮の読響。これは壮絶な演奏になるのではないか。
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デュッセルドルフ:カストールとポリュックス

2012年02月09日 | 音楽
 翌日はデュッセルドルフに移動して、ラモーの「カストールとポリュックス」を観た。当劇場ではラモーのチクルスを続けてきたそうだ。本作はその掉尾を飾る公演。指揮は音楽監督のアクセル・コバー、演出・振付はバレエ監督のマルティン・シュレッパーという布陣。当劇場の総力を挙げた公演だ。

 ラモーのオペラは、オペラとバレエが混然一体となっている。最初はオペラだが、そのうちにバレエが割り込んできて、いつの間にかバレエになる。それが一息つくと、またオペラに戻って、またバレエが割り込んできて……という繰り返しだ。

 話はそれるが、本年1月に東京オペラ・プロデュースが上演したプロコフィエフの「修道院での結婚」も似た作りだった。あのときには、ルーツを探すなら、ラモーになるのではないかと考えたものだ。

 今回は、最初からオペラとバレエ(バレエというよりもダンス。この公演ではバロック時代のバレエではなく、現代的なダンスになっていた。)が舞台上で同時進行した。オペラとバレエの移ろいに期待していたのだが、そうはならなかった。オペラ歌手は最小限の身振りで歌い、身体表現はダンサーが受け持っていた。

 美術と衣装はロザリエ。透明なプラスティックを無数に積み上げたオブジェが奥にあり、そこにさまざまに変化する照明が当てられた。歌手もダンサーも奇抜な衣装を着ている。現実との接点をもたない、近未来的な舞台だ。ストーリーが他愛ないので(ギリシャ神話に取材した双子座の由来だ)、あっけらかんとして、コミカルな、飛んでいる舞台もよい。

 付言すると、ロザリエは本年6月に初演される新国立劇場の「ローエングリン」で美術と衣装を担当する。どのような舞台になるのだろう――。

 なお本作には1737年の初稿版と、ブフォン論争が起きてジャン=ジャック・ルソーなどの攻撃に晒されて書かれた1754年改訂版がある。今回は初稿版が使われた。初稿版にはプロローグがあり(改訂版では削除)、第1幕以降は劇中劇になっている。興味深い構造だが、その点へのこだわりは窺えなかった。

 オーケストラはノイエ・デュッセルドルファー・ホフムジークというピリオド系の団体だった。歯切れのよい演奏だった。指揮のアクセル・コバーは以前ワーグナーやロッシーニを聴いたことがあるが、バロック・オペラも振るとは知らなかった。ピリオドとモダンの垣根は、今はあってないようなものかもしれない。
(2012.2.2.デュッセルドルフ歌劇場)
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カールスルーエ:村のロメオとジュリエット

2012年02月08日 | 音楽
 フランクフルトに到着した後、カールスルーエに移動した。車窓からは真っ赤な夕日が森の向こうに沈むところが見えた。旅情をかきたてられる景色だった。翌日は、日中は美術館に行き、夜はディーリアスの「村のロメオとジュリエット」を観た。ディーリアスの代表作の一つだが、意外に生の舞台を観る機会は少ない。今年はディーリアスの生誕150年に当たるので、その記念公演だ。指揮は音楽監督のジャスティン・ブラウン、演出はアリラ・ジーゲルト。

 驚いたことには、これはドイツ語上演だった。最初はちょっと面食らった。でも、不思議なことに、すぐ馴れた。ドイツ語が音楽とかみ合っていた。率直にいって、ドイツ語で歌われると、ワーグナーのように聴こえた。この作品のオーケストラは3管編成プラスアルファ―の大きさだ。それがたゆたうような音楽を奏でる。声楽も、蔓が延びていくような曲線を描く。しかもブラウンの指揮が、情熱を込めた、こってりした演奏だったので、たとえば「トリスタンとイゾルデ」のように聴こえた次第だ。

 それにしても、なぜドイツ語だったのだろう。馴染みのないオペラなので地元の人にわかりやすく、ということは考えにくい。なぜならドイツ語の字幕が投影されていたからだ。字幕を投影するなら英語でもよいわけだ。しかもドイツ人には英語を話せる人が多い。この劇場では今シーズン、ベルリオーズの「トロイ人」やヤナーチェクの「カーチャ・カバノヴァ」を上演しているが、それぞれフランス語、チェコ語だ(ドイツ語の字幕付き)。

 考えてみると、ディーリアスはイギリス生まれとはいっても、両親はドイツ人だ。しかも若いころにアメリカに渡り、20代後半でフランスに移ってからは、ずっとフランスで過ごした。あまりイギリスにこだわった生涯ではない。

 本作の原作はスイスの作家ゴットフリート・ケラーの小説だ(日本でも岩波文庫で出ていた)。舞台はアルプスの寒村。言葉はドイツ語だ。ディーリアスも当然ドイツ語で読んでいた。英語の台本はディーリアス自身と妻ジェルカが作成したが、あまり評判がよくなかった。没後も手直しが試みられている。出版社(ブージー・アンド・ホークス)からは英語とドイツ語の両方の版が出ている。

 今回ドイツ語で聴いてみると、なるほどドイツ人はディーリアスをこう感じるのかとわかった気がする。それはディーリアスの伝道者ビーチャムのスタイルとは一味ちがう濃厚なものだった。

 歌手は、知っている名前はなかったが、みなさん熱演だった。
(2012.2.1.バーデン州立歌劇場)
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帰国報告

2012年02月06日 | 身辺雑記
本日無事に帰国しました。今回観たオペラは次のとおりです。
2月1日ディーリアス「村のロメオとジュリエット」(カールスルーエ)
  2日ラモー「カストールとポリュックス」(デュッセルドルフ)
  3日ライマン「リア」(ハンブルク)
  4日ベルク「ルル」(ドレスデン)
  5日シチェドリン「魅せられた旅人」(フランクフルト)
後日また報告します。
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