Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カーチュン・ウォン/日本フィル

2022年05月28日 | 音楽
 カーチュン・ウォン指揮の日本フィル。1曲目は伊福部昭の「リトミカ・オスティナータ」。ピアノ独奏は務川慧悟(むかわ・けいご)。照度が高くてカラフルで、桁外れのエネルギーが放射される演奏だ。伊福部昭の作品は今までいろいろな演奏を聴いてきたが、その枠を超える新時代の演奏という気がする。カーチュン・ウォンの全身から発散するリズムと日本フィルの燃焼、そして務川慧悟の叩きだす音の総和が、わたしの経験値を超える演奏を出現させた。

 務川慧悟は期待の若手だ。アンコールにバッハのフランス組曲第5番から第1曲「アルマンド」が演奏された。安定走行の高性能な車のような、運動性の高い演奏だった。伊福部昭の熱狂的な演奏と、バッハの安定した演奏と、たぶん他にもさまざまな可能性を秘めたピアニストなのだろう。

 2曲目はマーラーの交響曲第4番。第1楽章と第2楽章に微細に施されたアゴーギクは驚嘆すべきものだった。カーチュン・ウォンはプレトークで往年の大指揮者(だが、近年は古いスタイルと思われている)メンゲルベルクの名前を出していた。もちろんメンゲルベルクを踏襲するつもりはないだろう。わたしたちもその名にとらわれる必要はないだろう。だが、少なくともこの演奏は、巷間あふれる素直にサラッと流す演奏ではなかった。カーチュン・ウォンとしても、わたしがこれまで聴いてきた日本フィル、読響、都響などとの演奏では見かけなかったものだ。

 第3楽章は一転してアゴーギクをかけずに、透徹した音楽のラインを浮き上がらせる演奏だった。静謐の美学といったらよいか。第1楽章と第2楽章で散見されたニュアンスの強調も影をひそめ、細心の注意を払った音が紡がれた。

 第4楽章は起伏に富んだ演奏だったが、第3楽章を経過したためか、第1楽章や第2楽章のような濃厚な表情付けとは異なる性格のものだった。ソプラノ独唱の三宅理恵は、声が通らない部分はあったが、全体としてはこの曲が、子どもがうたう歌(貧しくて、空腹を抱えた子どもがうたう歌)であることを感じさせる声質だった。

 わたしは上述のように、第1楽章と第2楽章では仰天したが、それにもかかわらず、演奏全体からは今までカーチュン・ウォンに感じてきたポジティブ思考を感じた。それがカーチュン・ウォンの最大の魅力だと思う。どんなときにも(かつ、どんな曲でも)ポジティブだ。その人間性が演奏に表れ、聴衆に伝わる。くわえて、音色の明るさとリズムの切れがある。さらに音楽の構成が明瞭だ。ラザレフ、インキネンと続いてきた日本フィルの新時代が始まろうとしているようだ。
(2022.5.27.サントリーホール)
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ブライアン・ファーニホウの音楽

2022年05月25日 | 音楽
 東京オペラシティのコンポージアム2022。今年の作曲家はブライアン・ファーニホウ(1943‐)。現代音楽の大御所だ。「新しい複雑性」という言葉がトレードマークのようについてまわる。わたしもその譜面の一例を本で見たことがある。面食らうような譜面だ。リズムを勘定する気も起らない。そんな譜面がどんな音で鳴るのか。

 もっとも、コンポージアム2022に先立ち、ファーニホウの曲を何曲かYouTubeその他で聴いてみた。どこをどう聴いたらよいのか、つかめなかった。これはお手上げだ、というのが正直なところだった。でも、コンポージアム2022に行ってみた。実演を聴いたときに、なにかがつかめるか。そしてもうひとつ、演奏がアンサンブル・モデルンであることにも惹かれた。フランクフルトを拠点とする現代音楽の演奏集団だ。ファーニホウを聴くには絶好の機会だろう。

 1曲目は「想像の牢獄Ⅰ」(1982)。イタリアの版画家・ピラネージ(1720‐78)の版画の題名をとっている。わたしもその版画なら知っている。なので、そのイメージで聴いたのだろう。複雑な迷路のような牢獄に閉じ込められた絶望の叫びから始まる。音楽はエネルギーを減衰させて終わる。牢獄から解放されたのか、それとも息絶えたのか。

 2曲目は「イカロスの墜落」(1987‐88)。ブリューゲル(1525/30頃‐1569)の「イカロスの墜落のある風景」に想を得た曲だ。ブリューゲルのその絵画なら見たことがある。崖に沿った道を農夫が歩く。崖の下は海だ。海のむこうにイカロスが墜落するのが小さく見える。だが農夫は気付かない。のんびりと日常生活を続ける。

 その絵画が目に浮かぶせいもあるだろうが、ファーニホウのこの曲は、空中を浮遊するイカロスを描くように聴こえた。最後は墜落する。それはユーモラスでもある。

 この曲はクラリネット独奏と室内アンサンブルのための曲だ。クラリネットはイカロスを表すのだろう。金切り声を上げるような高音から、内にこもる低音まで、幅広い音域を駆け巡る。リズムは複雑というよりも、勝手気ままに吹いているように聴こえる。もちろん厳密に記譜されているわけだ。クラリネット独奏はヤーン・ボシエール。アンサンブル・モデルンの一員らしい。難曲を難曲らしく感じさせない。

 3曲目は「コントラコールピ」(2014‐15)。この曲は印象が薄かった。4曲目は「クロノス・アイオン」(2008)。これは当夜の白眉だった。なにがどうおもしろかったか、うまく説明できないが、ともかく晦渋な現代音楽ではなく、洗練された、明るい音色の曲のように感じられた。演奏が良かったからだろう。演奏が良いとこのように聴こえるのか。
(2022.5.24.東京オペラシティ)
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新国立劇場「オルフェオとエウリディーチェ」

2022年05月23日 | 音楽
 新国立劇場の新制作「オルフェオとエウリディーチェ」。演出・振付・美術・衣装・照明のすべてを勅使河原三郎が担当した。なので、様式的に統一がとれている。上掲の画像(↑)にあるような白百合がつねに舞台上に置かれている。美しいが、葬儀のときの祭壇のようでもある。舞台上には大きな円盤がある。オルフェオ、エウリディーチェ、アモーレ(愛の神)の3人は円盤上で歌い、演じる。合唱は床の上だ。

 考えてみると、このオペラは奇妙なオペラだ。冥界でオルフェオとエウリディーチェが出会う、ドラマのその最高潮のときに、オルフェオはエウリディーチェを見てはいけないという制約がある。原作の神話がそうだからしかたがないのだが、その奇妙な制約のもとで、オルフェオとエウリディーチェの情熱の高まりと、その一方での距離感を表すには、狭い円盤上で右往左往することが効果的だったと思う。

 本公演ではウィーン版が使われ、パリ版の一部が挿入された。それ以外に第3幕のフィナーレの前のダンスが、一部は第2幕の前に、また一部は第3幕の前に移された。これはエウリディーチェの蘇生からフィナーレへの流れをダンスで中断しないためだろう。そのフィナーレでは、オルフェオとエウリディーチェを祝福するように、合唱が円盤の縁に白百合を供える。それは、見ようによっては、葬儀のときの献花のようでもある。そして幕が下りる直前に、舞台は暗転した。暗闇の中にオルフェオの当惑したような顔が浮き上がる。今までみてきたものは、オルフェオの夢だったのだろうか。

 わたしがミュンヘンのバイエルン州立歌劇場でみた公演(2005年7月)では、オルフェオとエウリディーチェの感情が生々しく描かれる一方、冥界の場面がコミカルに描かれ、家族連れの姿も目立った。新国立劇場の本公演は、それとは対照的に、スタイリッシュな舞台だった。

 その舞台への最大の貢献は、いうまでもなく勅使河原三郎の振付と、それを踊った4人のダンサーだ。中でもアーティスティック・コラボレーターの肩書をもって参加した佐東利穂子の表現力豊かなダンスは、言葉を失うほどだった。

 オルフェオを歌ったのはローレンス・ザッゾだ。幕開きの合唱の中から「エウリディーチェ!」と第一声を発する、そのカウンターテナーの声が、たちまち聴衆を魅了した。エウリディーチェを歌ったのはヴァルダ・ウィルソン。長身で手足が長く、スリムで、ひじょうに舞台映えのする人だ。歌も問題ない。指揮は鈴木優人。オーケストラは東京フィルなので、モダン楽器だったはずだが、ピリオド様式を取り入れ、またコルネット(ツィンク)などの古楽器を加えていた。
(2022.5.22.新国立劇場)
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ノット/東響

2022年05月22日 | 音楽
 東京交響楽団(以下「東響」)の定期会員になった。長らく在京の5つのオーケストラの定期会員を続けていたが、そのうちの1つをやめて、東響の定期会員になった。昨日は初めての定期演奏会。今までも年に1、2度は東響を聴く機会があったが、定期会員になると、身の入り方がちがう。

 1曲目はリヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」。16型の大編成だが、その音は後期ロマン派の豊麗な音ではなく、カラフルな照明が点滅するような鮮明な音だ。最初は違和感があったが、次第にその音の個性が呑み込めた。

 2曲目はショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番。ピアノ独奏はペーター・ヤブロンスキー。トランペット独奏は首席奏者の澤田真人。しっかり構築された見事な演奏だったが、この曲の諧謔性というか、わたしの言葉でいえば、ヨレヨレの悪ふざけ、もっといえば馬鹿々々しさは、あまり出ていなかった。そう感じるのは、先日、エフゲニー・ボジャノフのピアノ独奏、ラドスラフ・シュルツ指揮バイエルン放送室内オーケストラのライブ録音を聴いたからだろう。今はその話をする場ではないので、深入りはしないが、わたしはそれを聴いてずっこけた。もっとも、演奏の立派さでは、今回のほうがはるかに上だ。

 ヤブロンスキーのアンコールがあった。なんという曲か知らないが、休みなく動き回る曲だった。先ほどサントリーホールのホームページで確認したら、パツェヴィチのピアノ・ソナタ第2番の第3楽章だ。パツェヴィチはポーランドの女性作曲家だ。先日のN響のAプロに登場したヴァイオリン奏者のアリョーナ・バーエワも、パツェヴィチの「ポーランド奇想曲」をアンコールに演奏した。

 3曲目はウォルトンのオラトリオ「ベルシャザールの饗宴」。バリトン独唱はジェームズ・アトキンソン、合唱は東響コーラス(合唱指揮は冨平恭平)。合唱は舞台後方(Pブロック)と舞台両サイド(LAブロック、RAブロック)に1席おきに市松模様で配置された。マスクはなし。2群のバンダは舞台両サイドの合唱の後方。

 果敢にリスクをとったスリリングな演奏だ。各パートがしっくりまとまるアンサンブルではなく、互いに自己主張しあうアンサンブル。エッジの立った音の交錯から、音楽の輪郭が鮮やかに現れる。なるほどこれは、数ある在京オーケストラの中でも、際立った個性を誇る指揮者/オーケストラのコンビだ。

 遅ればせながら東響の定期会員になったが、なってよかった。これからも楽しませてもらう。それにしても、在京オーケストラの競争の激しさよ。
(2022.5.21.サントリーホール)
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ヤノフスキ/N響

2022年05月16日 | 音楽
 ヤノフスキ指揮N響の池袋Aプロ。1曲目はシューマンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はアリョーナ・バーエワAlena Baeva。バーエワは2019年2月にパーヴォ・ヤルヴィの指揮でリヒャルト・シュトラウスのヴァイオリン協奏曲をN響と共演した。目も覚めるような演奏だった。今回は地味なシューマンの協奏曲だ。どんな演奏を聴かせるか、注目した。

 全3楽章からなるこの曲の、とくに第1楽章では、シュトラウスのときの記憶を裏付けるような、気迫にとんだ激しい演奏を聴かせた。バーエワが稀に見る才能の持ち主であることはまちがいない。だが、バーエワの才能をもってしても、この楽章の(ときに現れる)音楽が薄くなる部分は隠しようがない。第2楽章の「天使の主題」は、ピアノ独奏曲で聴く場合はよいが、協奏曲の一楽章になると、提示後の展開に物足りなさを感じる。第3楽章はシューマンの本気度が聴こえない。どうしても心身の衰えを感じてしまう。

 バーエワのアンコールは文句なしに楽しめた。パツェヴィチの「ポーランド奇想曲」だ。わたしはだれの何という曲か知らないで聴いたが、出だしの東欧風のメロディーでは、ヴァイオリンがよく鳴ることに驚嘆し、その後の動的な部分では、バーエワの圧倒的な技巧に目をみはった。

 プロフィールによると、バーエワは中央アジアの小国・キルギスの生まれだ。5歳で隣国のカザフスタンに移り、10歳で(ヴァイオリンを学ぶために)モスクワに移った。そのような出自のためか、ウクライナ情勢は他人事ではなく、胸に黄色と青色の小さなリボンをつけて演奏した(N響のツイッター上の写真で確認できる)。

 2曲目はシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。チェロとコントラバスがうねり、決然としたリズムで前進する、気宇壮大な演奏だ。その演奏を受け止めるためには、こちらも胆力を総動員しなければならない。今どきのやわな演奏とは一線を画す。サヴァリッシュとかホルスト・シュタインとかに連なる巨匠の演奏だ。

 この曲はシューベルトがザルツカンマーグート方面へ大旅行をしたさいの幸福な思い出を刻印した曲だ。上機嫌なシューベルトは鼻歌でベートーヴェンの「歓喜の歌」を歌う(第4楽章で)。この曲がもしシューマンによって発見されなかったら、どうなっていただろう。前半に(衰弱がうかがえる)シューマンを聴いたせいか、そんな感傷にひたった。

 個別の奏者では、オーボエ首席奏者の吉村さんが見事だった。完璧に吹ききったと思う。4月にB→Cコンサートを聴いたばかりなので、応援したい気持ちもあった。
(2022.5.15.東京芸術劇場)
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藤岡幸夫/東京シティ・フィル

2022年05月13日 | 音楽
 藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルの定期演奏会は、驚いたことに全席完売だった。ピアニストの角野隼人(すみの・はやと)の人気によるらしい。藤岡幸夫はプレトークで「(角野隼人が出演する)プログラム前半だけで帰らないでくださいよ」といって笑いを取った。

 そのプログラム前半は、まずラヴェルの組曲「マ・メール・ロワ」。丁寧にアンサンブルを整えた演奏だ。木管楽器のフレーズの受け渡しに細心の注意が払われ、また弦楽器の音色も美しかった。それでいて音がやせずに、親密な空間をつくりだした。

 次に角野隼人が登場してラヴェルの(両手のほうの)ピアノ協奏曲。わたしは角野隼人を聴くのは初めてだが(じつは情報に疎いので、名前も知らなかった)、その才能と個性に驚嘆した。鮮烈なリズム感をもち、音の粒立ちが良い。音楽の細かいところにドラマがある。常套的に流す部分が皆無だ。一言でいうと、おもしろくてたまらない。

 アンコールがまたおもしろかった。ガーシュウィンの「スワニー」だが、ノリが良く、スリリングなことこの上ない。満場の聴衆を惹きこむ快演だった。

 角野隼人は前述のように大変な人気者らしいが、舞台マナーは初々しい。どこかぎこちなさを残している。スター然とはしていない。それがまた若い人に受けるのかもしれない。プロフィールによると、「“Cateen(かてぃん)”名義で自ら作編曲および演奏した動画をYouTubeにて配信し、チャンネル登録者数は95万人超、総再生回数は1億回(2022年4月現在)を突破」とある。1995年生まれ。東京大学を卒業し、同大学院在学中にピティナピアノコンペティションの特級グランプリを受賞。それをきっかけに本格的な音楽活動を始めた。優秀な若手ピアニストが続出する中にあっても、角野隼人はとくに個性的な才能であることはまちがいないだろう。

 プログラム後半は黛敏郎の作品が2曲。まず黛敏郎が21歳のときの作品「シンフォニック・ムード」。2部からなる曲だが、その第1部が異様な演奏だった。変にクネクネして、どんな曲か、よくわからなかった。藤岡幸夫がプレトークで「許される範囲でテンポを遅くして、セクシーにやる」といったのはこの部分か。

 次は黛敏郎の代表作のひとつ「BUGAKU」。冒頭の笙のひびきの模倣から始まり、ひちりき、笛、鼓などの和楽器のひびきが次々に模倣される。目がまわる思いだ。同曲はニューヨークシティ・バレエの芸術監督ジョージ・バランシンの委嘱による。同曲を聴いたニューヨークの人々は仰天しただろう。そのインパクトはいまも健在だ。
(2022.5.12.東京オペラシティ)
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小川洋子「ことり」

2022年05月09日 | 読書
 小川洋子の「ことり」(2012年)を読んだ。少し時間を置いてから、もう一度読んだ。わたしの大切な小説になった。

 小鳥を愛し、小鳥の言葉を理解している(ように見える)「お兄さん」。お兄さんの言葉は小鳥に似ている。だれも理解できない。だが弟の「小父さん」には理解できる。母が亡くなり、父が亡くなる。お兄さんと小父さんは二人でひっそり生きる。やがてお兄さんが亡くなる。小父さんひとりになる。小父さんも小鳥を愛する。お兄さんほどではないが、小鳥の言葉がわかる気がする。やがて初老になった小父さんは、ひっそり亡くなる。そんな小父さんの、だれにも知られることのない人生の物語。

 本作品は音楽を感じさせる。その音楽は2楽章で構成されている。第1楽章はお兄さんが生きているときのお兄さんと小父さんの生活。ゆったりしたテンポの平穏な音楽。その平穏さが損なわれないように細心の注意が払われる。第2楽章はお兄さんが亡くなってからの小父さんの生活。多少動きのある音楽。いくつかのテーマが生起する。最後は第1楽章冒頭のテーマに戻って終わる。

 二つの楽章を通じて小鳥の歌う「愛の歌」があらわれる。その歌が二つの楽章をつなぐ。それだけではない。第1楽章、第2楽章それぞれの主要なテーマに変容して、一定の展開をみせる。

 物語の終わり近くに、怪我をしたメジロがあらわれる。小父さんはメジロを介抱する。メジロはやがて元気になる。メジロはまだ幼い。元気になるにつれて、愛の歌を歌おうとする。小父さんはメジロを励ます。だんだんうまくなる。その様子はワーグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で青年騎士ワルターが靴職人のハンス・ザックスに励まさて愛の歌を歌おうとする場面を思わせる。

 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」ではその直後に野外の歌合戦の場面になる。同様に「ことり」でも野外の「鳴き合わせ会」の場面になる。だが「ことり」の場合は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のような晴れがましさはなく、どこか不穏だ。小父さんはその会になじめない。そして驚くべき行動に出る。

 物語は一気に終結にむかう。先ほど述べたように、物語の冒頭に戻るかたちで終わる。円環が閉じられるように感じる。だからだろうか、冒頭からもう一度読みたくなる。わたしは上述のように二度読んだが、二度目になると、一度目には気になりながらも、十分には意識化できなかった箇所を意識して読むことができた。たとえば怪我をした渡り鳥のエピソード。草陰に身をひそめて夜空を見上げるその鳥は、何を象徴するのだろう。
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小川洋子「博士の愛した数式」

2022年05月05日 | 読書
 小川洋子の代表作といえば、「博士の愛した数式」だろう。2003年に刊行され、ベストセラーになった。映画にもなり、コミックにもなり、また舞台上演もされた。それを今頃になって読むのだから、我ながら周回遅れもいいところだ。

 ベストセラーになったので、プロットを紹介するまでもないだろうが、念のために書いておくと、時は1992年、所は瀬戸内海に面した小さな町。「私」は20代後半のシングルマザーだ。家政婦として「博士」の家に派遣される。博士は60代前半の男性。非凡な数学者だったが、1975年に自動車事故にあい、それ以来記憶が80分しかもたなくなった。80分たつと記憶が消える。もっとも、事故以前の記憶は残っている。たとえば博士は阪神タイガースの江夏投手のファンだった。博士はいまでも江夏投手がエースだと思っている。もう引退しているのに。

 博士は「私」の息子を可愛がる。息子の頭が平たいので、「ルート」と名付ける。形が似ているというのだ。息子も博士になつく。博士と「私」とルートは疑似家族のようになる。孤独な人生を送っている博士と、母子家庭で生活に追われる「私」とルートは、家族の温もりを見出す。弱き者(=博士)への「私」とルートの温かいまなざしと、弱き者(=ルート)への博士の温かいまなざしが重なり合う。

 前述したように、本作品は20年近く前の作品だが、弱き者への温かいまなざしは少しも古びていない。それどころか、いまの時代にリアリティを増しているようにも感じられる。

 脇役が3人登場する。博士の義姉の「未亡人」は、ストーリーに絡み、微妙に揺れる心理が描かれる。「私」の亡母と「私」の元カレ(ルートの父親)は、ストーリーの前史を構成する。「私」の回想の中に登場するだけだが、忘れがたい印象を残す。

 本作品を構成する要素に、数学と阪神タイガースがある。数学ときくと引いてしまう人もいるかもしれない。わたしもそうだった。なので、長いあいだ、「博士の愛した数式」という題名は知っていても(インパクトのある題名だ)、縁のない作品だと思っていた。だが、先日「密やかな結晶」を読み、おもしろかったので、勢いで本作品も読んだわけだが、結果、数学には弱くても、数学を愛する人=博士を愛すことができれば、なんの支障もないことがわかった。

 同様に阪神タイガースも、たとえ野球に興味がなくても、またはアンチ・タイガースであっても、江夏投手のファン=博士を愛せれば、支障はないだろう。

 数学と阪神タイガースは、江夏投手の背番号「28」をキーワードにしてアクロバティックにつながる。ウルトラC級だ。
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小川洋子「密やかな結晶」

2022年05月01日 | 読書
 小川洋子の「密やかな結晶」は1994年に刊行されたので、新しい作品ではないが、近年英訳され、2019年度全米図書賞の翻訳部門にノミネートされ、また2020年度英国ブッカー賞の最終候補になったと、数か月前に新聞各紙で報道された。その記憶が残っていたので、読んでみた。小川洋子の作品を読むのは初めてだ。

 「密やかな結晶」はある島の話だ。鉄道が通っているので、けっして小さな島ではなさそうだ。その島ではある日突然、何かが消えてなくなる。たとえばリボン。島中のリボンが突然「消滅」する。住民の記憶からも消える。万が一リボンを隠し持っている人がいたとしても、他の人々がそれを見たとき、人々はもうそれをリボンとは認識できない。たんなる布切れだ。同じようにして、鈴とか、エメラルドとか、切手とか、その他いろいろなものが消えていく。大物でいえば、フェリーが消えた。人々はもう島から出られない。だが、人々はそんな事態を黙って受け入れる。文句をいわない。

 不思議なことに、記憶が消えない人たちがいる。遺伝子に要因があるのかもしれない。ともかく少数者だ。島には秘密警察がある。それらの人々を取り締まる。記憶が消えたふりをしても、何かの拍子に発覚すれば、秘密警察に捕らえられる。捕えられたら最後どうなるかは、だれもわからない。そのため記憶が消えない人たちは隠れて暮らす。支援のための地下組織もあるようだ。一方、秘密警察は「記憶狩り」をする。街の一画を何台ものトラックで囲み、あらゆる家を調べる。隠し部屋がないかどうか、しらみつぶしに。

 主人公の「わたし」は小説を書く女性だ。記憶が消える普通の人だ。一方、出版社の担当者「R氏」は記憶が消えない特殊な人だ。「わたし」はあるときそれを知る。「R氏」を自宅の秘密部屋に隠す。

 「アンネの日記」をベースにしたスリリングな物語だ。並行して「わたし」の書く小説が挿入される。メインストーリーと小説と、両者で「声」が重要な役割を果たす。メインストーリーでは、あらゆるものが消えた後に、声だけが残る。一方、小説では、主人公が声を失う。市民が独裁国家で声を奪われるように。小説のほうはディストピア社会の寓話のように読める。他方、メインストーリーもそうなのだが、声が最後まで残ることに、未来への希望を託す――というようにも読める。

 他の読み方もできそうだ。記憶が消えるという点でいえば、わたしたちはだれでも、子どものころは感受性に満ちているが、大人になるにつれてそれを一つずつ失い、やがて死に至る。そのアレゴリーとして読めば、本作品は人の一生の寓話になる。また、小川洋子が語るところによれば、島の人々が(フェリーが消滅したので)島から出られない状況を、コロナに閉じ込められた社会のアレゴリーのように読んだ人もいたそうだ。
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