Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

エッシェンバッハ/N響

2020年01月13日 | 音楽
 エッシェンバッハがN響を振ったマーラーの交響曲第2番「復活」を聴いたが、それがどんな演奏だったかをいうのは、ひどく難しい気がする。その難しさの中に、エッシェンバッハとはどんな指揮者なのか、その核心があるようにも思うが。

 第1楽章冒頭の低弦のテーマは、だれが振っても劇的に演奏するが(そしてエッシェンバッハもそうだったが)、ヴァイオリンで始まる第2主題になると、第1主題の余韻を引きずらずに、妙に吹っ切れた、軽く、あっさりした演奏になった。劇的な緊張が楽章全体を覆わずに、各部分への興味が優先する演奏だ。

 部分への興味ということでは、クラリネット2本の経過句がはっきり聴こえる箇所が印象に残った。激情が渦巻く第1楽章の中で埋もれがちな経過句だが(わたしは今までその経過句に気づかなかった)、そこにも大事な意味があると教えられた。そのレベルでいえば、枚挙にいとまがないほど多くの発見があった。

 第2楽章は平穏な音楽には違いないが、一般的にこの楽章でイメージする「生への憧れ」といったらよいか、第1楽章の葬送の音楽の後で夢見る生の想い出といったニュアンスは乏しく、ひたすら沈潜して、何かに耐えるような、気分の晴れない演奏だった。

 アタッカで入った第3楽章は、前2楽章ほどの特異性は見いだせず、第4楽章以下は声楽が入るので、演奏のニュアンスはおのずから異なるが、それにしても、第1楽章と第2楽章で敷かれたレールは、やはり最後まで続いた。それを何といったらよいのだろうか。

 端的にいうと、指揮者のヒロイズムとか、ナルシズムとか、多くの指揮者が多少なりとも備えていて、聴衆はそれに付き合わされる(一部の聴衆はそれに熱狂する)要素が、エッシェンバッハの場合は、わずかしかないということだ。いま「付き合わされる」といったが、最大の被害者はオーケストラの楽員だろう。エッシェンバッハの場合、楽員はそれに煩わされずに済むのではないか。

 だが、一方では、ストーリーテリングの雄弁さとか、音楽の流れとか、そんな要素は損なわれる可能性がある。楽員はともかく聴衆は、音楽に乗るのが難しい。そこに何か屈折したものを感じてしまうのだ。その窮屈さは何なのか。わたしにはまだつかめない。

 声楽陣は、ソプラノがマリソル・モンタルヴォ、メゾソプラノが藤村実穂子、合唱が新国立劇場合唱団で、いずれも文句なし。今まで時々その名を目にしていたモンタルヴォに初めて出会えたことが嬉しい。
(2020.1.12.NHKホール)

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