元・還暦社労士の「ぼちぼち日記」

還暦をずっと前に迎えた(元)社労士の新たな挑戦!ボチボチとせこせこせず確実に、人生の価値を見出そうとするものです。

その人の心の動きは生涯にわたり脳に記録されるのでは?

2021-08-29 09:05:51 | 第2の人生・老後・趣味と勉強
 その蓄積された感情のデータは個体の消滅によりなくなるのか?

 現在の私は、「現役」でない、リタイアーである。(年は70歳オーバー) そんな私は、今までのように忙しくない。忙しくないからなのか、昔の恥ずかしかった場面をよく思い出す。自分は物心ついたころから運動音痴であった。小学校のころ鉄棒の逆上がりが出来なくてみんなの前で恥かいたこと、夏休みのラジオ体操で第2体操での片足上げてその後その場での駆け足みたいな動作があるが、それが出来なくて皆から笑われたこと 次々に思い返すのにはいとまがない。
 
 この現象はなんだろうかと思い、人生大きな出来事であると思われる両親が死亡した時のことを、ためしに思い返すと全体ではなくても、確かに場面、場面は思い返せるのである。

 そこで、小さいころから思い起こすと、物心ついた頃、自宅で飼っていた大きな犬とじゃれあって遊んだこと(楽しかったこと)から始まり、小学校の学校をイメージすると、場面、場面をそれぞれ次から次へと思い出される。また中学校、高校、大学と校舎を思い浮かべると、これまたシーンが現れる。その後、社会へ出てからも退社するまでの間でも、同様に思い出すのである。

 結局、子供のころから社会を一応離脱するまで、場面ごとに連綿とつながっている。そして、この思い出すシーンは何だろうと考えてみると、「心の動き」をとらえていることが分かった。シーンではなく、むしろ「心の動き」が脳に記録されているのではないかと思うのである。はじめ恥ずかしかった場面を思い出すといったが、その恥かしかったことだけでなく、おどろき、楽しかったこと、誰かとつながったと感じたこと、恐ろしかったこと など一瞬一瞬の心の動きを脳の中に記録しているのではないか。

 とするならば、この心の動きの蓄積はなんのためにあるのか。この蓄積はなにか意味があるのか。さらに疑問が生じる。この記録された心の動きは、未来永劫にわたって「生き続ける」のか。自分という個体が消滅すればなくなるのか。自分の生きえた証(あかし)としてのデータは残るのだろうか。

 本当のところは誰にも分からない。私は、次のように考えている。パソコン(人工頭脳の機能が備わっているものとする。)に「感情というデータ」を打ち込む作業をしているのではないか、パソコン本体はデータの蓄積を行い、それなりの各個人の「人間の賢さ」につながるのだ。ここまでは、人工頭脳ということも勘案して、実感覚としてそんなもんだろうと思うのではないか。

 ここからが問題である。想像の領域なので本当かどうか分からないところであるが、このパソコンは大きなホストコンピュータとつながっているのではないか。そして、自分という本体のパソコンはなくなっても、大きなホストコンピュータにデータは残るのではないか。
 そして、さらには、そのホストコンピュータって何?ということになるのであるが・・・

 さて、今、社会的にはOBだといったが、社会的に活動していないからと言って、全く心の動きがないわけではない。現役時代のように目まぐるしい動きはないにしても、日常の中での心の動き・感情はあるはずである。今後も、この心の動きは脳に刻まれることになろう。

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