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渋沢栄一と渋沢喜作

2018-01-27 20:50:35 | 日記
今日は夕方に平塚のほうで仕事があり東海道線の中からブログを書くことになりました。
今日は渋沢栄一と渋沢喜作についてお話ししたいと思います。渋沢栄一についてはご存知の方も多いと思いますが、日本資本主義の父と呼ばれ明治期に銀行をはじめ500社以上の会社設立に関わった実業家として知られています。渋沢喜作は渋沢栄一と同じ埼玉県深谷の出身で上野戦争で新政府軍と戦った彰義隊の頭取です。この二人は若い頃地元の深谷で尊王攘夷運動に関わり高崎城乗っ取りや横浜異人館襲撃を企てますが、未遂に終わり京都へ逃げます。京都で一橋家の用人に声を掛けられ奉公することになります。その主人である一橋慶喜が第15代将軍となり幕府を困らせようとした二人が幕臣となってしまいます。ここから二人の人生は変わっていきます。それは渋沢栄一がフランスからのパリ万博の招待状が徳川幕府に届き、将軍の名代として徳川慶喜の弟徳川昭武がフランスに行くことになり、その随行員として渋沢栄一が行くことになったのです。慶応3年1867年から慶応4年1868年4月まで渋沢栄一はフランスをはじめヨーロッパに滞在して西欧文明の様々なことを学ぶことになり、幕末の騒乱期は日本に居ないことになります。一方の渋沢喜作は正に騒乱期を幕臣として体験して彰義隊を組織してその頭取となります。上野戦争で新政府軍に敗れると戊辰戦争最後の砦である函館五稜郭まで榎本武揚の下で参戦します。戊辰戦争が終わると実業界に転じ事業を始めますがなかなかうまくいきませんでした。一方の渋沢栄一はヨーロッパの体験から日本で数々の新しい事業を起こし、実業界をはじめ教育界、社会福祉事業と幅広く活躍するようになります。渋沢栄一と渋沢喜作ー同年代で同出身で人生の途中まで一緒しながら一つの出来事をきっかけに、その後の人生が大きく変わっていきます。どんな人生でも様々な出会いがあり、それによって大きく変わったりもします。そのすべてはその人の生き方にあります。
東海道線の車窓から歴史上の人物の生き方を考えました。
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