
明治4(1871)年1月、開拓使の広川信義大主典は、移民募集のため大金を携えて函館を出航しました。
2月5日盛岡、同10日水沢、そして16日に涌谷に至りました。その後も仙台、山形などを訪れ、精力的な活動を展開しました。
登米県遠田郡の24戸のうち21戸が対雁村へ、3戸が生振村(現石狩市)に入植しましたが、以下彼らの入植までの足跡を駆け足で辿ると以下のとおりです。
24戸の出身地登米県遠田郡馬場谷地村は、現在の宮城県の北東部に位置する湧谷町です。城跡にある湧谷神社の小高い丘には、伊達騒動で知られる伊達安芸の胸像が据えられ、眼下の一握りの街を睥睨していました。湧谷の地勢は、台地と低地からなり、馬場谷地村は、その名のとおり谷地というほかない低湿地帯でした。
戉辰戦争のあと、湧谷も常陸土浦藩の取締地となりました。家臣団の集団帰農、北海道移住計画が進められました。しかし、「寒冷未知の荒野に移住して農業を営むより、住み馴れた土地に帰農」(『湧谷町史』下巻)したいとの反対運動が高まり、計画は土壇場で挫折しました。この家臣団の挫折の時に前後し、開拓使の召募による農民たちの移住が決まりました。
彼らが故郷湧谷を後にしたのは、明治4年3月11日のことです。
16日に閉伊郡鍬ケ崎到着、同25日そこから海路北海道に向かいました。一行が札幌に入ったのは、故郷を出発してから25日目で、北国も漸く春めく4月6日でした。
しかし、すぐさま対雁(ついしかり)に向かうことはなく、札幌での仮小屋に収容され、約1月半ほど留まりました。理由は、入植地が確定しなかったためです。
結局彼らが対雁に第一歩を記すのは、6月17日でした。
(参考)
当ブログ2010年 4月11日(日)「従駕日録」
当ブログ2010年 4月10日(土)「開拓使の設置」
当ブログ2008年 7月 1日(火)「榎本武揚 顕彰碑騎馬像」
当ブログ2008年 6月30日(月)「江別最初の学校ー対雁学校」
当ブログ2008年 6月28日(土)「対雁学校の教育」
当ブログ2008年 6月26日(木)「移民扶助規則2」
当ブログ2008年 6月24日(火)「石狩川沿岸」
当ブログ2008年 6月23日(月)「北越殖民社の開拓」
当ブログ2008年 6月22日(日)「国内3番目に開通した幌内鉄道ー江別駅の誕生」
当ブログ2008年 6月20日(金)「移民扶助規則設定」
当ブログ2008年 6月19日(木)「蝦夷地改称2」
当ブログ2008年 6月19日(木)「飛騨屋と石狩山伐木」
当ブログ2008年 6月16日(月)「蝦夷地から北海道へ改称ー蝦夷地は皇国の北門」
当ブログ2008年 6月12日(木)「村名選定ー江別村」
当ブログ2008年 6月11日(水)「江別屯田兵入地」
当ブログ2008年 6月10日(火)「地名解」
当ブログ2008年 6月 9日(月)「場所請負制の成立」
当ブログ2008年 6月 7日(土)「元禄御国絵図」
当ブログ2008年 6月 4日(水)「屯田兵制度の設置」
註:江別市総務部「新江別市史」117-118頁.
写真:明治44(1911)年北海道移住手引草・第三北海道移住手引草
北海道開拓記念館にて撮影許可を得て、掲載いたしております。
2月5日盛岡、同10日水沢、そして16日に涌谷に至りました。その後も仙台、山形などを訪れ、精力的な活動を展開しました。
登米県遠田郡の24戸のうち21戸が対雁村へ、3戸が生振村(現石狩市)に入植しましたが、以下彼らの入植までの足跡を駆け足で辿ると以下のとおりです。
24戸の出身地登米県遠田郡馬場谷地村は、現在の宮城県の北東部に位置する湧谷町です。城跡にある湧谷神社の小高い丘には、伊達騒動で知られる伊達安芸の胸像が据えられ、眼下の一握りの街を睥睨していました。湧谷の地勢は、台地と低地からなり、馬場谷地村は、その名のとおり谷地というほかない低湿地帯でした。
戉辰戦争のあと、湧谷も常陸土浦藩の取締地となりました。家臣団の集団帰農、北海道移住計画が進められました。しかし、「寒冷未知の荒野に移住して農業を営むより、住み馴れた土地に帰農」(『湧谷町史』下巻)したいとの反対運動が高まり、計画は土壇場で挫折しました。この家臣団の挫折の時に前後し、開拓使の召募による農民たちの移住が決まりました。
彼らが故郷湧谷を後にしたのは、明治4年3月11日のことです。
16日に閉伊郡鍬ケ崎到着、同25日そこから海路北海道に向かいました。一行が札幌に入ったのは、故郷を出発してから25日目で、北国も漸く春めく4月6日でした。
しかし、すぐさま対雁(ついしかり)に向かうことはなく、札幌での仮小屋に収容され、約1月半ほど留まりました。理由は、入植地が確定しなかったためです。
結局彼らが対雁に第一歩を記すのは、6月17日でした。
(参考)
当ブログ2010年 4月11日(日)「従駕日録」
当ブログ2010年 4月10日(土)「開拓使の設置」
当ブログ2008年 7月 1日(火)「榎本武揚 顕彰碑騎馬像」
当ブログ2008年 6月30日(月)「江別最初の学校ー対雁学校」
当ブログ2008年 6月28日(土)「対雁学校の教育」
当ブログ2008年 6月26日(木)「移民扶助規則2」
当ブログ2008年 6月24日(火)「石狩川沿岸」
当ブログ2008年 6月23日(月)「北越殖民社の開拓」
当ブログ2008年 6月22日(日)「国内3番目に開通した幌内鉄道ー江別駅の誕生」
当ブログ2008年 6月20日(金)「移民扶助規則設定」
当ブログ2008年 6月19日(木)「蝦夷地改称2」
当ブログ2008年 6月19日(木)「飛騨屋と石狩山伐木」
当ブログ2008年 6月16日(月)「蝦夷地から北海道へ改称ー蝦夷地は皇国の北門」
当ブログ2008年 6月12日(木)「村名選定ー江別村」
当ブログ2008年 6月11日(水)「江別屯田兵入地」
当ブログ2008年 6月10日(火)「地名解」
当ブログ2008年 6月 9日(月)「場所請負制の成立」
当ブログ2008年 6月 7日(土)「元禄御国絵図」
当ブログ2008年 6月 4日(水)「屯田兵制度の設置」
註:江別市総務部「新江別市史」117-118頁.
写真:明治44(1911)年北海道移住手引草・第三北海道移住手引草
北海道開拓記念館にて撮影許可を得て、掲載いたしております。
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