江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

北海道地主制のはじまり

2008年11月19日 | 歴史・文化
 明治30年、帝国議会は、北海道国有未開地処分法案を修正可決しました。
その第三条には、「開墾牧畜、もしくは植樹等に供せんとする土地は、無償にて貸付し、全部成功の後、無償にて付与すべし」とありました。
面積の制度は勅令で定められ、一人につき開墾用は150万坪、牧畜用は250万坪、植樹用は200万坪を限度とし、会社や組合にはこの2倍まで認めていました。つまり広大な面積の土地をただでもらえるのです。明治19年の北海道土地払下げ規則では、原則として一人10万坪でしたから、随分の違いがあります。ただ、資力がなければこの特典も無意味でした。

 北海道は、人跡未踏の原始林に覆われていました。
 開墾のはじめ、開墾地を覆う大木の群生に皆悩まされていました。
鋸の目立てに、4キロも8キロも人を探して歩いたものでした。ようやく切り倒しても木材を売る途もない。その大木を重ねて焼いてものでした。それは、1週間くらい燃え続けたそうです。

 明治も半ばを過ぎると、木材の価値が出てきました。マッチ・銃床材・枕木・坑木・パルプなど木材業の伸展は、本州業者の進出と関係していました。
 全道的に、各地に設けられたマッチ工場は、神戸の資本家が多かったようです。土地そのものを開墾する気はなくても、ただで大土地貸下げを受けて、木材をきって売り払っていました。開墾していないからと土地返還を命ぜられても、それまでに木材で十二分に設けていたのです。とんでもない連中に、北海道の富は食い荒らされていたのです。

 明治30年北海道国有未開地処分の法律のもとで、有島武は、札幌農学校に入学した息子の財産を残そうとして、蝦夷富士といわれる羊蹄山麓に、約100町歩の土地貸与を受けました。するとすぐ、婿の山本直良の名で貸与を受け、小作人を入れて経営を始めました。農学校に入った息子とは、有島武郎でした。

 ニセコ町という場所に、有島農場と並んで陸軍少将曽我祐準の大農場がありました。曽我と有島の土地の接点を、実は函館鉄道が通過していました。

 北海道国有未開地処分法が、大資本家の寄生地主の北海道への意向を表したものといえば、明治33年、特殊銀行として営業を開始した北海道拓殖銀行があろう。大地主への貸付が主な仕事でした。だから中小地主たちは、他府県同様の農工銀行の設立運動を起こしましたが、成功はしませんでした。

有島武郎記念館については、下記をご覧ください。
http://www.town.niseko.hokkaido.jp/arishima/jyousetu/jyousetu2.htm

註:榎本守恵・君尹彦共著「北海道の歴史」173-175頁.
写真:北海道ニセコ町を望む羊蹄山撮影.

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 落語林家卯三郎一人会 まん... | トップ | 北海道自治制のはじまり »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史・文化」カテゴリの最新記事