私もふと信じられないような気になるのだが、以前はコンビニエンスストアやファミリーレストランというものは東京になかった。夜になるとたいていの店は閉めた。新宿渋谷、赤坂六本木などの盛り場にだけ例外的に、終電を逃した学生やサラリーマンが時間をつぶす深夜喫茶などがあった。
バーやクラブが集中するネオン街には、酔客や水商売の従業員のために中華料理店などが開いていて、深夜営業している花屋や薬局、煙草屋、雑貨屋などもあった。閉店後に顧客とホステスが立ち寄るステーキハウスや焼き肉店、寿司屋の深夜営業はあったが、夜間に仕事の打ち合わせなどに利用できる店や場所はほとんどなかった。ホテルのコーヒーハウスをのぞいては。
バブル景気の直前、東京がまだぼんやりしていた頃の話である。コピーライターやデザイナー、カメラマン、エディター、スタイリストといったカタカナ業界人たちが、ホテルのコーヒーハウスで広告代理店や制作プロダクション、芸能プロのプロデューサーやディレクター、プランナー、あるいはスポンサーなどと、名刺交換したり、打ち合わせのかたわら軽く飲食をする光景がよく見られた。
ロビーラウンジのコーヒーは本格的で美味いけれど高いし、腹持ちのするような食事メニューはなく、たいてい夜の7時か8時頃には閉じてしまう。メインバーやダイニングではコーヒーだけというわけにはいかず、懐具合もあって気軽に使えるわけではない。そこで手軽で料金も手頃なコーヒーハウスを利用するわけだ。
コーヒーのお代わりは無料で、カレーライスやピラフ、ドリア、スパゲッティやサンドイッチなどが食べられる。ちょうど初期のファミリーレストランに近かったように覚えている。食べ物はちょっと高めのかわりに良質だが、コーヒーはやはり薄くて不味く、そう何杯もは飲めるものではなかった。カタカナ業界の端くれに座った私にも、そんなコーヒーハウスの席があてがわれ、「マーケ」とか「コンセプト」とか、ちんぷんかんぷんな話をよそ見しながらぼんやり聞いていた。
最近、取り壊しと建て替えが決まったホテルオークラの「ザ・テラス」というコーヒーハウスでは長嶋茂雄監督をみかけたこともあった。意外に小柄で細身の人だったが、笑顔が晴れやかな人だった。その頃は国会議事堂近くにあったヒルトンホテルのロビーラウンジの決まった席に、いつもジャイアント馬場氏が一人座って必ずのように本を読んでいた。
トレードマークの葉巻を吸っていたかどうかは覚えていない。ジャイアント馬場氏の席はガラス越しに日本庭園に面していて、池には大きな亀やカエルがときどき顔を出し、それを狙って野良猫が来た。タレントや歌手、女優の姿もたくさん見た。たいていはひどく痩せ過ぎていた。笑みが途切れたときにふと陰惨な横顔を見せる人が少なくなく、魅力的と思える人は一人もいなかった。
ヒルトンのコーヒーハウス「オリガミ」のアップルパンケーキは好物だった。リンゴのスライスを敷いたパンケーキにたっぷりとシロップかけた。赤坂のホテルニューオータニにはあまり行くことはなかった。オークラやヒルトンに比べると、味も雰囲気もかなり落ちるように思った。深夜なら、築地に近い銀座東京ホテルの「24時」もわるくなかった。クラブのチーママクラスがお客に何やら相談していたりして、彼女らの華やかな着物やドレス姿は眼の保養になった。
写真はつくばのホテルオークラ「カメリア」だが、当時の「カメリア」のインテリアに近い。やっぱり、ファミレスだ。
オークラのコーヒーハウス「カメリア」では、ちょっとした恋の顛末をみることもできた。あの貧相な
柿澤弘治(維新の柿沢未途の父親である)をさらに貧相にしたような小男が目の覚めるような金髪美女をともなって入ってきたのだ。赤坂東急下のアマンドにたむろしている外国人売春婦ではなく、彼女らよりずっと若くて20歳そこそこにしかみえなかった。
金髪をひっつめにして、白い肌を際立たせる黒のタートルネックのノースリーブのニットに灰色のスカートという地味な出で立ちだが、控えめに光るイヤリングやネックレスと同様に上質そうで、いかにも良家の子女といった趣き。鼻梁のうすい北欧系の知的な顔立ちだった。
着飾った美女には慣れっこの店内の客たちが思わず見遣ったのは、彼女の美しさに圧倒されたのもさることながら、その半分は傍らを得意そうな笑みを浮かべて歩く柿澤弘治とのアンバランスからだった。柿澤弘治は金髪娘の肩ぐらいしか上背がなく、しかも40歳は過ぎている中年男。初夏のことでもあり、ブルーのストライプのコードレーンのスーツにブルーのニットタイというなかなか洒落た格好で、グラフィックデザイナー風だった。
席についた二人は、どうみても恋人同士で、それも金髪娘が柿澤弘治にぞっんこんという様子。柿澤弘治が何かいうたびに、金髪娘は身を乗り出して聴き入り、ひたと見つめるかと思えば、柿澤弘治の冗談に楽しそうに笑うのである。その意外性がなおさら人目を引いて、大げさにいうと、オークラのウェイトレスや黒服まで、店内みな口あんぐり、だった。
それから仲睦まじげな二人をちょくちょく見かけた。見慣れるようになっても、いったい、この男のどこがよくて、という違和感には慣れなかったが、二人を微笑ましく眺める気持ちになっていった。コーヒーハウスの常連たちも同様な気持ちだったことを後で知ることになる。二人はいつも英語で話していて、金髪娘の喉をそらした笑いかたを横目で盗み見ながら、これからの時代は英語くらいできなくちゃなとぼんやり思ったりした。
そして、暮れだったと思う。いつものように小腹を空かせて「カメリア」に入ると、なにやら店内の雰囲気が沈んでいる。満席に近いのに妙に静かだなと見回すと、いつもにこやかな笑顔を絶やさない黒服までがうつむき加減。あの金髪が眼に飛び込んできた。いつも向かい合っているのとは違い、今夜は柿澤弘治と並んで座り、その対面に中年の外人男女が座っていた。席について、注文を取りに来た黒服に、(どうしたの?)と目顔で尋ねると、ちょっと困った表情で二人の席を見遣った。コーヒーが運ばれる前に、事情を察することができた。
中年の外人男女は娘の恋人の首実検にやってきた、アメリカかイギリス、あるいはオーストラリアの両親に間違いはなかった。そして、柿澤弘治は合格しなかった。当然だろう。でっぷり太って、美しい娘とは似ても似つかない醜い顔の父親は、ピンクの頬に埋もれた青い目から、ほとんど軽蔑の視線を柿澤弘治に向けていた。くすんではいるがやはり金髪の母親は心ここにあらずといった風で、やたらタバコをふかしていた。
やはり、相当裕福な家らしく、父親の腕にはロレックスらしき金張りの時計が食い込み、母親は幾重にもネックレスをぶら下げていた。両親をかき口説く金髪娘の早口がときどき高ぶり、唇は歪んだりしたが、その潤んだブラウンの瞳には「カメリア」の照明が燦めいていた。彼女が相手のときはあれほど余裕たっぷりだったのに、父親を前にした柿澤弘治ときたら、肩をすぼめた犬のようだった。店内のほとんどの客がそんな二人の様子に気を揉み、気遣っていたのだ。
そんなことがあってからも、柿澤弘治は店にやってきた。彼女をともなわずに。一人という遠慮からか、テーブル席には座らず、カウンター席に座ってぼんやりコーヒーカップを前にしている姿がいつもの光景になった。そしていつからか、柿澤弘治は来なくなり、そうそうぼんやりとしていられなくなった私も、オークラの「カメリア」だけでなくホテルのコーヒーハウスへ足を運ばなくなった。
「サヨナラ、オークラ」「日本の『取り壊し』文化の犠牲者」
http://www.j-cast.com/2015/04/11232762.html
ホテルオークラ、アートの塊 ハウエルも惜しむ、モダンと伝統の芸術
http://withnews.jp/article/f0150308000qq000000000000000W01t0701qq000011566A
Saving Tokyo’s Hotel Okura
http://www.wsj.com/articles/saving-tokyos-hotel-okura-1439215166
たしかに、デザインというより、意匠と呼びたい和モダンのオークラの建築・インテリアはすばらしいものだった。ただ、不思議だったのは、いまはどうか知らないが、あの当時、オークラで黒人やユダヤ人の姿をみることはほとんどなかった(いかにもユダヤ人という顔立ちや出で立ちはあるのである)。予約の段階で見分けることなどできないはずで、人種を選別する代理店ネットワークでもあったのだろうか。オークラはアメリカ大使館にほとんど隣接しており、その御用達としても有名で、つまりはCIAの巣窟だったわけだから、そんなわけのわからぬネットワークに組み込まれていてもおかしくはないのだが。
岩崎宏美 シンデレラ・ハネムーン 8
作曲・筒美京平。70~80年代の歌謡界は筒美京平時代を迎えていた。
(敬称略)