久しぶりに大六のTUTAYAへ。「おお」「これは」というのはなかったが、手ぶらで帰りたくなくてみつくろったなかの一本が、「セッション」。これは公開前から話題になったので知っていた。
ジャズ批評家で演奏家でもある菊地成孔氏が、「このクソ映画め!」と16,000字に及ぶ酷評を映画公開前にブログに掲載したところ、これに映画評論家の町山智宏氏が、「公開を潰す気か!」とやはりブログで噛みつき、論争になったので記憶していたのだ(御用とお急ぎでない方は、こちらへ)。
私の印象では、菊池氏が「ジャズ愛」を町山氏が「映画愛」を迸らせて痛み分け。菊池氏に分があるところもあったが、町山氏が菊池文への読解不足を潔く認め謝ったために、両者とも読者に株を上げた格好で、珍しく後味のわるくない応酬だった。
菊池氏が、これは映画ではなく、(荒唐無稽な)「マンガ」である! と罵るや、すぐさまマンガファンから、「マンガをバカにするな!」と批判が殺到し、「マンガファンの皆様、ごめんなさい」と謝ったのも微笑ましかった。
さて、観終わって、菊池氏が批判した、「音楽愛がない」と「この映画の音楽教育とジャズは無縁」に同意同感した。町山氏の反論として、菊池氏の批判点のほとんどは監督が意図したところ、には肯くが、ラストで音楽による昇華があった、には不同意だった。
アメリカの音楽教育機関の最高峰とされるシェーファー音楽院のフレッチャー教授(J・K・シモンズ 名演!)は、チャーリー・パーカーが演奏でヘマをしたとき、ドラムスのジョー・ジョーンズがシンバルを投げたというエピソードを度々紹介して、「もし、ジョー・ジョーンズがグッジョブ(上出来 or 気にするな)と流していたら、後のバードは生まれなかった。それこそ、私からいわせれば、究極の悲劇だ」と自らの苛烈な指導を正当化する。甘い顔をするから、ジャズは死んでしまった。米語でもっとも身の毛のよだつ(horrible)言葉は、”Good job!”だと嘆くのだ。
フレッチャー教授はいわゆる鬼軍曹役。スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」のハートマン軍曹や「愛と青春の旅立ち」でリチャード・ギアをいじめ抜くフォーリ-軍曹が、罵倒で新兵を震え上がらせ、誹謗中傷によって人間的な感受性を鈍磨させ、かわりに兵士の闘争心と入れ替えるように、フレッチャー教授もパワハラを駆使して、若きジャズマンの卵たちの演奏と人格を支配しようとする。戦場や軍隊なら、一人前の兵士になることが生き残る道であり、なにより戦争に勝利する手段といえるが、フレッチャー教授のその先は違う。
つぎのサッチモやチャーリー・パーカーを育てたいと夢見るように語りながら、ニーマンから「つぎのチャーリー・パーカーを挫折させているのでは?」と問い返されると、「天才は何があっても挫折しない」と教授は嘯くのだ。じっさいにはサディスティックな支配が目的であり、若き才能を潰すために情熱を傾けているとしか思えない。
ショーン・コネリーがサリンジャーとおぼしき伝説の隠遁小説家を演じた「小説家を見つけたら」にも、天才的な小説の才能を示す高校生を盗作疑惑で葬り去ろうとしたクロフォード教授(F・マーリー・エイブラハム)と同列の人物像といえる。
芸術家になり損ねて教育者になった鬱屈を晴らしたいがために、人一倍の努力を重ねて、ほとんど一流の教育者になりながら、重大な欠陥を抱えていて、若き才能を自殺に追い込むほど抑圧的に振る舞わずにはいられない。そんな教師像に、アメリカ人はよほど心当たりが多いのだろうか?
日本映画ではこういう教師像はほとんど見当たらない。わけもなく意地悪だったりして、主人公の足を引っ張る教師は登場するが、二流三流の教師としてはじめから小者に扱われ、健気に努力する主人公を潰すほどの悪役にはならない。むしろ、日本映画お得意の「修行映画」の教師役である師匠や先輩たちは、未熟な上にやる気にも乏しい主人公をときに叱咤しつつも、たいていは優しく見守り世話を焼く母親役だ。
素人向けの落語教室の生徒になる人たちを描いた「しゃべれどもしゃべれども」や地味な辞書の編纂の仕事を扱った「舟を編む」、最近のコミカルに林業現場を案内する「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」などの佳作にみられるように、師匠や兄弟子といっしょに働きながら学ぶ、日本の「修行映画」にハズレはあまりない。
音楽教育のフレッチャー教授や文学教育のクロフォード教授があるいは厳父的な師なのかといえば、それとも違う気がする。「小説家を見つけたら」では、天才的作家性をもつ高校生の師は、ショーン・コネリー演ずる偏屈な伝説的作家としてべつにいるのだ。フレッチャーやクロフォードが新兵教育のハートマン軍曹やフォーリ-軍曹と選ぶところない残酷な人物像として描かれるのは、教育機関という名の圧殺装置の擬人化なのかもしれない。
アメリカの自主性を重んじた自由な教育とは、ハイスクールまでの初中等教育に限られるようだ。プロを養成するロースクールやビジネススクールなどの大学院、この映画の音楽院など高等教育機関では、奇形的なほど権威主義な教授によるパワハラな教育指導が横行している。事実はともかく、そうした抑圧的な存在として少なからぬ映画作品では描かれてきた。
アメリカの本家であるイギリスでも、英文学を生み出した功績の第一は名門パブリックスクールにあり、というブラックなジョークがある。卒業生の多くをオックスブリッジに進学させ、イギリスの指導層や知識人層を育ててきたパブリックスクールは、名門の師弟に質実剛健な寮生活をおくらせ、級友や上級生と勉学やスポーツを通じて切磋琢磨させるエリート教育のモデルとして知られる。多くの英作家を輩出してきたが、その代表的な文学作品の多くが、パブリックスクールへの呪詛に満ちているからだ。
換言すれば、抑圧的な教育機関であればこそ、映画の悪役として存在感を示し、文学少年には呪詛の対象として畏怖されるわけで、そうしたサドマゾゲームとして互いの合意の上に成り立っているとも考えられる。学生にとってはゲームの賞品は成功者になることであり、教授にとっては偉大な芸術家や世界的なエリートを育成するのが使命であり、天才を育てるのが究極の夢になるわけだ。はじめフレッチャー教授から目をかけられたと舞い上がったニーマンは恋人に、「練習のジャマになる」と冷酷に別れを告げるミニ・フレッチャーにすぐさまなるのだ。(この項続く)
(敬称略)
ジャズ批評家で演奏家でもある菊地成孔氏が、「このクソ映画め!」と16,000字に及ぶ酷評を映画公開前にブログに掲載したところ、これに映画評論家の町山智宏氏が、「公開を潰す気か!」とやはりブログで噛みつき、論争になったので記憶していたのだ(御用とお急ぎでない方は、こちらへ)。
私の印象では、菊池氏が「ジャズ愛」を町山氏が「映画愛」を迸らせて痛み分け。菊池氏に分があるところもあったが、町山氏が菊池文への読解不足を潔く認め謝ったために、両者とも読者に株を上げた格好で、珍しく後味のわるくない応酬だった。
菊池氏が、これは映画ではなく、(荒唐無稽な)「マンガ」である! と罵るや、すぐさまマンガファンから、「マンガをバカにするな!」と批判が殺到し、「マンガファンの皆様、ごめんなさい」と謝ったのも微笑ましかった。
さて、観終わって、菊池氏が批判した、「音楽愛がない」と「この映画の音楽教育とジャズは無縁」に同意同感した。町山氏の反論として、菊池氏の批判点のほとんどは監督が意図したところ、には肯くが、ラストで音楽による昇華があった、には不同意だった。
アメリカの音楽教育機関の最高峰とされるシェーファー音楽院のフレッチャー教授(J・K・シモンズ 名演!)は、チャーリー・パーカーが演奏でヘマをしたとき、ドラムスのジョー・ジョーンズがシンバルを投げたというエピソードを度々紹介して、「もし、ジョー・ジョーンズがグッジョブ(上出来 or 気にするな)と流していたら、後のバードは生まれなかった。それこそ、私からいわせれば、究極の悲劇だ」と自らの苛烈な指導を正当化する。甘い顔をするから、ジャズは死んでしまった。米語でもっとも身の毛のよだつ(horrible)言葉は、”Good job!”だと嘆くのだ。
フレッチャー教授はいわゆる鬼軍曹役。スタンリー・キューブリック監督の「フルメタル・ジャケット」のハートマン軍曹や「愛と青春の旅立ち」でリチャード・ギアをいじめ抜くフォーリ-軍曹が、罵倒で新兵を震え上がらせ、誹謗中傷によって人間的な感受性を鈍磨させ、かわりに兵士の闘争心と入れ替えるように、フレッチャー教授もパワハラを駆使して、若きジャズマンの卵たちの演奏と人格を支配しようとする。戦場や軍隊なら、一人前の兵士になることが生き残る道であり、なにより戦争に勝利する手段といえるが、フレッチャー教授のその先は違う。
つぎのサッチモやチャーリー・パーカーを育てたいと夢見るように語りながら、ニーマンから「つぎのチャーリー・パーカーを挫折させているのでは?」と問い返されると、「天才は何があっても挫折しない」と教授は嘯くのだ。じっさいにはサディスティックな支配が目的であり、若き才能を潰すために情熱を傾けているとしか思えない。
ショーン・コネリーがサリンジャーとおぼしき伝説の隠遁小説家を演じた「小説家を見つけたら」にも、天才的な小説の才能を示す高校生を盗作疑惑で葬り去ろうとしたクロフォード教授(F・マーリー・エイブラハム)と同列の人物像といえる。
芸術家になり損ねて教育者になった鬱屈を晴らしたいがために、人一倍の努力を重ねて、ほとんど一流の教育者になりながら、重大な欠陥を抱えていて、若き才能を自殺に追い込むほど抑圧的に振る舞わずにはいられない。そんな教師像に、アメリカ人はよほど心当たりが多いのだろうか?
日本映画ではこういう教師像はほとんど見当たらない。わけもなく意地悪だったりして、主人公の足を引っ張る教師は登場するが、二流三流の教師としてはじめから小者に扱われ、健気に努力する主人公を潰すほどの悪役にはならない。むしろ、日本映画お得意の「修行映画」の教師役である師匠や先輩たちは、未熟な上にやる気にも乏しい主人公をときに叱咤しつつも、たいていは優しく見守り世話を焼く母親役だ。
素人向けの落語教室の生徒になる人たちを描いた「しゃべれどもしゃべれども」や地味な辞書の編纂の仕事を扱った「舟を編む」、最近のコミカルに林業現場を案内する「WOOD JOB!~神去なあなあ日常~」などの佳作にみられるように、師匠や兄弟子といっしょに働きながら学ぶ、日本の「修行映画」にハズレはあまりない。
音楽教育のフレッチャー教授や文学教育のクロフォード教授があるいは厳父的な師なのかといえば、それとも違う気がする。「小説家を見つけたら」では、天才的作家性をもつ高校生の師は、ショーン・コネリー演ずる偏屈な伝説的作家としてべつにいるのだ。フレッチャーやクロフォードが新兵教育のハートマン軍曹やフォーリ-軍曹と選ぶところない残酷な人物像として描かれるのは、教育機関という名の圧殺装置の擬人化なのかもしれない。
アメリカの自主性を重んじた自由な教育とは、ハイスクールまでの初中等教育に限られるようだ。プロを養成するロースクールやビジネススクールなどの大学院、この映画の音楽院など高等教育機関では、奇形的なほど権威主義な教授によるパワハラな教育指導が横行している。事実はともかく、そうした抑圧的な存在として少なからぬ映画作品では描かれてきた。
アメリカの本家であるイギリスでも、英文学を生み出した功績の第一は名門パブリックスクールにあり、というブラックなジョークがある。卒業生の多くをオックスブリッジに進学させ、イギリスの指導層や知識人層を育ててきたパブリックスクールは、名門の師弟に質実剛健な寮生活をおくらせ、級友や上級生と勉学やスポーツを通じて切磋琢磨させるエリート教育のモデルとして知られる。多くの英作家を輩出してきたが、その代表的な文学作品の多くが、パブリックスクールへの呪詛に満ちているからだ。
換言すれば、抑圧的な教育機関であればこそ、映画の悪役として存在感を示し、文学少年には呪詛の対象として畏怖されるわけで、そうしたサドマゾゲームとして互いの合意の上に成り立っているとも考えられる。学生にとってはゲームの賞品は成功者になることであり、教授にとっては偉大な芸術家や世界的なエリートを育成するのが使命であり、天才を育てるのが究極の夢になるわけだ。はじめフレッチャー教授から目をかけられたと舞い上がったニーマンは恋人に、「練習のジャマになる」と冷酷に別れを告げるミニ・フレッチャーにすぐさまなるのだ。(この項続く)
(敬称略)