コタツ評論

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33万人の木嶋佳苗

2012-04-17 00:29:00 | 新刊本


渋谷駅中(エキナカ)の本屋店頭に平台が出されて、村上春樹の文庫版『1Q84』と並び、「33万部のベストセラー!」とPOPが立ち、おまけに書き下ろしの新作短編とセット販売だと、ビニール包装本が売られていた。

『殺人鬼フジコの衝動』(真梨幸子 徳間文庫)

裏表紙の紹介は、こんな風でした。

あなたはフジコという名の少女を
覚えていますか?
あの一家惨殺事件には、続きがありました・・・。


 一家惨殺事件のただひとりの生き残りとして新たな人生を歩み始めた11歳の少女。だが、彼女の人生はいつしか狂い始めた。「人生は、薔薇色のお菓子のよう」。呟きながらまたひとり彼女は殺す。何がいたいけな少女を伝説の殺人鬼にしてしまったのか?
 最後の1ページがもたらす衝撃に話題騒然、口コミで33万部を越える大ベストセラーとなった戦慄のミステリーが、書き下ろし新作短編と2冊セットで登場! この短編に、次作のヒントが隠されています!


ノーベル文学賞の呼び声高い、村上春樹『1Q84』の紹介文と並べたくなる格調の低さ。「歩み始めた」のすぐ後に、「狂い始めた」が続く粗雑ぶり。「いたいけな少女」という陳腐。「もたらす」がもたらすもたつき。編集者が書く紹介文と小説は別物とは知りながらも、「よせ、よせ」と袖を引く心の声が聞こえます!

それなのに、なぜか買ってしまった。何がイケイケの大男を虜(とりこ)にしてしまったのか? 「歩み始めた」と「狂い始めた」の「始めた」に狂気の欠片を感じとったのです! 読みました。「はじめた」と開かず、「始めた」と閉じて、「歩み」と「狂い」を同列にした意図がわかりました。

なるほど、11歳から<歩くように確実に狂っていく>女の物語です。ただし、「いたいけな少女」が「殺人鬼フジコ」に成長したという話ではありません。怪物にであろうと、成長物語にはそれなりの高揚感がともないます。成長物語の変奏である転落物語でも、『嫌われ松子の一生』のように、あるカタルシスが味わえるものです。

そんな高低差はなく、最初から最後まで、ただただ卑小で愚劣なフジコです。まるで生まれながらに、そうであるかのように。そして、「最後の1ページがもたらす衝撃」とは、どのような意味でも、フジコの成長物語や転落物語ではないという完璧な否定でした。それがどんでん返しとなり、読者はもういちど心の中で、最初から読み直すことになります。

読みはじめてすぐ、フジコに木嶋佳苗被告は略す)を重ねました。事件後から100日裁判と先日の死刑求刑まで、この間、洪水のようにメディアに溢れた「醜悪陋劣」な木嶋佳苗像を「殺人鬼フジコ」のモデルにしたのではないかと思えたほどです。

もちろん、執筆時期とは重なりませんから、モデルではあり得ないのですが、けっして美人ではないがブスというほどでもなく、偏差値は低そうだが地頭はわるくなく、「セレブ」といった浅薄な上昇指向など、二人(?)はよく似ています。何より共通するのは、『殺人鬼フジコの衝動』が「33万部を越える大ベストセラー」の人気を誇るように、女性間では木嶋佳苗の人気は高いのです。

「女はなぜ木嶋佳苗に惹かれるのか」というタイトルの週刊誌記事があったと記憶しますし、私の周囲の女性たちも、けっして男たちのように、木嶋佳苗を罵ったり侮蔑したりはしないのです。女性たちはむしろ、被害者の男性たちこそ侮蔑的に評し、「交際する男性から経済的援助を受けるのは当たり前」など、独自の「価値観」を語って堂々と自己弁護する木嶋佳苗を醜悪とは思っていないようです。

6人ほどの周辺リサーチに過ぎませんが、木嶋佳苗に対する女性たちの好意的な視線は、そのまま「フジコ」のベストセラーに重なる気がするのです。となれば、この小説の怖ろしさとは、「フジコ」という造型だけでなく、「フジコ」に感情移入してページをめくる女性読者が33万人もいるという事実です。もちろん、木嶋佳苗と「フジコ」は、まるで違います。

「フジコ」には強烈な被害者意識があり、それが犯行の引き金になりますが、木嶋佳苗にはほとんど被害者意識は見当たりません。死刑を求刑された事件に関与したかどうかは別にして、他人を巻き込んでいく加害者としての強さがあることは、言葉巧みに「結婚詐欺」をはたらき、独身中高年男たちから大金を盗んでいたことからも明らかです。

「フジコ」のような劣等感の虜である弱者ではなく、木嶋佳苗は強烈な優越感を持つ強者に見えます。「フジコ」はもう自殺しか残されていない、これ以下がないような境遇から、なんとか人並みの場所に這い上がろうと必死です。一方、木嶋佳苗は「セレブ」に憧れるような、人並みの生活では満足できない上昇指向があります。その無根拠な自信と大胆な行動力に、女性たちは憧れているのではないかとすら思えます。

男にとっては、「フジコ」と木嶋佳苗のいずれにも、少しの理解や共感はできません。ところが、少なくとも、33万人の女性は、「殺人鬼フジコ」の「犯罪」に理解を示し、木嶋佳苗の「価値観」に共感できるのではないか。怖ろしさとは、その男と女の隔絶の怖ろしさです。

どのくらい隔絶しているかといえば、フジコと木嶋佳苗のいずれにも、その内面に男は存在しないかのようです。フジコが強く意識するのは、母親や友だち、会社の先輩など、女性ばかり。男はほんのチョイ役です。木嶋佳苗にとっても、男は道具に過ぎないかのようです。

もちろん、「フジコ」は小説上の非実在人物であり、木嶋佳苗は殺人まで犯したかもしれない実在の結婚詐欺犯です。ひとくくりにできるわけはないのですが、そのシルエットがぴったりと重なり合うところもあります。つまり、「フジコ」も木嶋佳苗も、生涯、女である、女であり続けるということです。

11歳の少女なのに、おばさんのように世渡りを考え、30歳半ばを過ぎたおばさんになりながら、夢のような結婚に憧れる。少女にも娘にも妻にも、たとえ出産しても母親にもならずなれず、時間は流れず、おばあさんになっても、一生女を続ける。そういう怖ろしい生き物です。

理解も共感もできないが、一気に読めます。暗くて救いがないが、一気に読めます。文学の深遠も文芸の香気もないが、一気に読めます。この小説を読んだ後に、村上春樹の『1Q84』は、一気に読めないかもしれません。

(敬称略)