『アトランティスのこころ-Hearts in Atlantis 上下』(S・キング 新潮文庫)
上巻
1960年 黄色いコートの下衆男たち
下巻
1966年 アトランティスのハーツ
1983年 盲のウィリー
1999年 なぜぼくらはヴェトナムにいるのか
1999年 天国のような夜が降ってくる
前回のボビーとテッドの物語は上巻だった。
下巻はボビーと直接間接に関わりのある少年少女たちのその後の物語である。1966年のメイン州立大学の学生たち、1983年と1999年のベトナム帰還兵、それぞれ語り手を違えて物語が進む連作短編に近い。ベトナム戦争とベトナム反戦運動の時代である。
60年代末の日本も、同様な学生反乱の時代として振り返られるが、日米の若者はまったく似て非なるものだったようだ。当たり前である。アメリカには当時徴兵制度があり、少なからぬ若者がベトナムのジャングルに赴いた。戦争に反対する者も、反戦運動に舌打ちする者も。従軍した者も、従軍しなかった者も、アメリカの若者は「ヴェトナム」にいて、「アメリカ」にはいなかった喪失感が胸をうつ。
前回、「アトランティスのこころ」の意味はすぐにわかると書いた。たしかに上巻でわかるのだが、下巻の「アトランティスのハーツ」を読むともうひとつの意味がある。複数形であることにも意味がある。「こころ」に還ってくるといえばいえるのだが、集合論でもあるようだ。
読みはじめると書く、読みつつ書く、読み終わったらすぐ書く、という読み書き同時進行スタイルをとっているので、ときにこれ以上の明らかな間違いを書いてしまうこともある。前と反対の感想を述べたり、書き換えたりすることもある。まとめない、まとまらないほうに重きをおいているといえば格好つけすぎで、すぐに揮発してしまうさまざまな思いや考えをなんとか捕まえておこうという試みなので、ご容赦のほどを。
書きたいことは山ほどある。上下巻合わせて1137頁。細密を極める一行一行を引用して、その意味や連関や効果について、不明や理解を確認したいことがある。小説の物語というより、それぞれの人物の物語だから、一人の人間に擬して語りたい気になるのだ。彼や彼女の感情や心理を構成する、おびただしい数の商品名やギャグ、歌、歌手、映画、TV、味、匂い、色、音。その誘惑には抗しがたいところがあるが、もちろんそれは無理な身の程知らずなことだ。
ただひとつだけ。もしキングにファンレターを書くとしたら、俺は以下のように書くだろう。
「拝啓 あなたの本をいつも愛読しています。今回も、とても心を打たれる物語でした。あらためてお礼を言わせてください。ただ、『天国のような夜が降ってくる』いう最終章は、不必要だったのではないかと思います。大団円にふさわしい、とても美しい言葉だし、とても美しい場面が書かれていますが、美しい模様の長大な蛇の尻尾に脚が2本描かれたような気が僕にはします。
あなたは、『なぜぼくらはヴェトナムにいるのか』において、あなたが愛し傷つけられたアメリカ文明と文化の膨大な物々を降らせました。ガラクタをさらにガラクタにして見せました。最初に降ってきたのが一台の携帯電話であり、それが女性の頭頂を直撃したのには、サリー以上に驚きました。そう、「カエル」なんて降らせるべきではない、そんな虚仮脅かしはうんざりだ、というあなたに僕は完全に同意します。
でも、サリーは最後に降ってきた野球グラブの油の匂いを胸一杯に吸い込み、左手にはめたではないですか。これ以上ない美しい場面だし、ちょっと恥ずかしい言い回しですが、それでじゅうぶんな救済も果たされていると思いました。どうしてこの上、「天国」を降らせる必要があるのか、僕にはわかりません。
もちろん、僕があなたの本をじゅうぶんに理解していないということは考えられます。最終章がないと正直寂しい気持ちもします。もしかすると、それが終わりの物語だから、僕は不満なのかもしれません。もっと物語が続いてほしい、とただ願っているだけなのかもしれません。『ミザリー』を書いたあなたですから、ファンのそんな勝手な気持ちを許して下さると信じています。この手紙があなたにとって不快なものではないことを願って。敬具」
キングにではないが、版元には苦言を呈したい。
カバーや折り返しまで、映画版のスチールを使う必要があっただろうか。映画との相乗効果を狙うにしても、帯に載せるくらいでじゅうぶんだったのではないか。アンソニー・ホプキンスは名優だが、小説中のテッドは、古いアメリカの怪奇俳優「ボリス・カーロフに似ている」とされている。「長身で貧相な尻の老人」であるから、短躯小太りのアンソニー・ホプキンスとは少しも似ていない。「ボリス・カーロフに似ている」とボビーが思う1960年代の時代性(TVが普及しはじめ、古い怪奇映画が放映されていた)までを考慮せよとまではいわない。小説と映画は別物でもある。映画や俳優をきっかけにしてでも、とりあえずこの文庫本を手にとってほしいという気持ちはわかる。ただし、読むのに邪魔になっては困る。テッドが出てくるたびに、アンソニー・ホプキンスの顔がアップになるのには困った。
もうひとつは、解説者の選定である。渡辺祥子さんは映画解説者である。もっとほかに人はいなかったものか。いたはずである。日本の作家だけでも、キングの影響を受けたと公言する作家は少なくない。あるいは、欧米の批評家にも喜んで書く人がたくさんいたはずだ。権威ある人にキングが褒めそやされるのが読みたいというのでは、この場合はない(ファンとしてそういう気持ちはもちろんあるが)。映画解説者の渡辺祥子さんが書いてもいいのだが、キング原作映画の解説ではあっても、この小説の解説ではないところが不満なのだ。渡辺祥子さんは分相応にと考えたのかもしれない。それで映画や文芸業界からの批難は免れるかもしれないが、そんな業界を意識した解説を読まされるキングファンはいい面の皮だろう。知らない人はノベライゼーションかと思うのではないかと危惧するくらい。とりあえず解説を読んでから、買うか買わないかを決める人も少なくないのだ。俺はむしろ解説を読まないままの方が多いが。その責は渡辺祥子さんより版元と編集が負うべきだ。担当編集者には Hearts in Atlantis がないといわざるを得ない。
上巻
1960年 黄色いコートの下衆男たち
下巻
1966年 アトランティスのハーツ
1983年 盲のウィリー
1999年 なぜぼくらはヴェトナムにいるのか
1999年 天国のような夜が降ってくる
前回のボビーとテッドの物語は上巻だった。
下巻はボビーと直接間接に関わりのある少年少女たちのその後の物語である。1966年のメイン州立大学の学生たち、1983年と1999年のベトナム帰還兵、それぞれ語り手を違えて物語が進む連作短編に近い。ベトナム戦争とベトナム反戦運動の時代である。
60年代末の日本も、同様な学生反乱の時代として振り返られるが、日米の若者はまったく似て非なるものだったようだ。当たり前である。アメリカには当時徴兵制度があり、少なからぬ若者がベトナムのジャングルに赴いた。戦争に反対する者も、反戦運動に舌打ちする者も。従軍した者も、従軍しなかった者も、アメリカの若者は「ヴェトナム」にいて、「アメリカ」にはいなかった喪失感が胸をうつ。
前回、「アトランティスのこころ」の意味はすぐにわかると書いた。たしかに上巻でわかるのだが、下巻の「アトランティスのハーツ」を読むともうひとつの意味がある。複数形であることにも意味がある。「こころ」に還ってくるといえばいえるのだが、集合論でもあるようだ。
読みはじめると書く、読みつつ書く、読み終わったらすぐ書く、という読み書き同時進行スタイルをとっているので、ときにこれ以上の明らかな間違いを書いてしまうこともある。前と反対の感想を述べたり、書き換えたりすることもある。まとめない、まとまらないほうに重きをおいているといえば格好つけすぎで、すぐに揮発してしまうさまざまな思いや考えをなんとか捕まえておこうという試みなので、ご容赦のほどを。
書きたいことは山ほどある。上下巻合わせて1137頁。細密を極める一行一行を引用して、その意味や連関や効果について、不明や理解を確認したいことがある。小説の物語というより、それぞれの人物の物語だから、一人の人間に擬して語りたい気になるのだ。彼や彼女の感情や心理を構成する、おびただしい数の商品名やギャグ、歌、歌手、映画、TV、味、匂い、色、音。その誘惑には抗しがたいところがあるが、もちろんそれは無理な身の程知らずなことだ。
ただひとつだけ。もしキングにファンレターを書くとしたら、俺は以下のように書くだろう。
「拝啓 あなたの本をいつも愛読しています。今回も、とても心を打たれる物語でした。あらためてお礼を言わせてください。ただ、『天国のような夜が降ってくる』いう最終章は、不必要だったのではないかと思います。大団円にふさわしい、とても美しい言葉だし、とても美しい場面が書かれていますが、美しい模様の長大な蛇の尻尾に脚が2本描かれたような気が僕にはします。
あなたは、『なぜぼくらはヴェトナムにいるのか』において、あなたが愛し傷つけられたアメリカ文明と文化の膨大な物々を降らせました。ガラクタをさらにガラクタにして見せました。最初に降ってきたのが一台の携帯電話であり、それが女性の頭頂を直撃したのには、サリー以上に驚きました。そう、「カエル」なんて降らせるべきではない、そんな虚仮脅かしはうんざりだ、というあなたに僕は完全に同意します。
でも、サリーは最後に降ってきた野球グラブの油の匂いを胸一杯に吸い込み、左手にはめたではないですか。これ以上ない美しい場面だし、ちょっと恥ずかしい言い回しですが、それでじゅうぶんな救済も果たされていると思いました。どうしてこの上、「天国」を降らせる必要があるのか、僕にはわかりません。
もちろん、僕があなたの本をじゅうぶんに理解していないということは考えられます。最終章がないと正直寂しい気持ちもします。もしかすると、それが終わりの物語だから、僕は不満なのかもしれません。もっと物語が続いてほしい、とただ願っているだけなのかもしれません。『ミザリー』を書いたあなたですから、ファンのそんな勝手な気持ちを許して下さると信じています。この手紙があなたにとって不快なものではないことを願って。敬具」
キングにではないが、版元には苦言を呈したい。
カバーや折り返しまで、映画版のスチールを使う必要があっただろうか。映画との相乗効果を狙うにしても、帯に載せるくらいでじゅうぶんだったのではないか。アンソニー・ホプキンスは名優だが、小説中のテッドは、古いアメリカの怪奇俳優「ボリス・カーロフに似ている」とされている。「長身で貧相な尻の老人」であるから、短躯小太りのアンソニー・ホプキンスとは少しも似ていない。「ボリス・カーロフに似ている」とボビーが思う1960年代の時代性(TVが普及しはじめ、古い怪奇映画が放映されていた)までを考慮せよとまではいわない。小説と映画は別物でもある。映画や俳優をきっかけにしてでも、とりあえずこの文庫本を手にとってほしいという気持ちはわかる。ただし、読むのに邪魔になっては困る。テッドが出てくるたびに、アンソニー・ホプキンスの顔がアップになるのには困った。
もうひとつは、解説者の選定である。渡辺祥子さんは映画解説者である。もっとほかに人はいなかったものか。いたはずである。日本の作家だけでも、キングの影響を受けたと公言する作家は少なくない。あるいは、欧米の批評家にも喜んで書く人がたくさんいたはずだ。権威ある人にキングが褒めそやされるのが読みたいというのでは、この場合はない(ファンとしてそういう気持ちはもちろんあるが)。映画解説者の渡辺祥子さんが書いてもいいのだが、キング原作映画の解説ではあっても、この小説の解説ではないところが不満なのだ。渡辺祥子さんは分相応にと考えたのかもしれない。それで映画や文芸業界からの批難は免れるかもしれないが、そんな業界を意識した解説を読まされるキングファンはいい面の皮だろう。知らない人はノベライゼーションかと思うのではないかと危惧するくらい。とりあえず解説を読んでから、買うか買わないかを決める人も少なくないのだ。俺はむしろ解説を読まないままの方が多いが。その責は渡辺祥子さんより版元と編集が負うべきだ。担当編集者には Hearts in Atlantis がないといわざるを得ない。