コタツ評論

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厚生省元次官夫妻の殺傷

2008-11-19 13:43:04 | ノンジャンル
厚生省の元次官夫妻が殺傷された。
当然、この事件に先立つ12日、「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」におけるトヨタ自動車の奥田碩相談役の発言の影響が測られるべきだが、現在のところメディアには一言も触れられていない。

トヨタ奥田氏「厚労省たたきは異常。マスコミに報復も」
http://www.asahi.com/national/update/1112/TKY200811120346.html

発言要旨

「あれだけ厚労省がたたかれるのは、ちょっと異常な話。正直言って、私はマスコミに対して報復でもしてやろうかと(思う)。スポンサー引くとか」
「私も個人的なことでいうと、腹立っているんですよ。新聞もそうだけど、特にテレビがですね、朝から晩まで、名前言うとまずいから言わないけど、2、3人のやつが出てきて、年金の話とか厚労省に関する問題についてわんわんやっている」
「報復でもしてやろうか」
「正直言って、ああいう番組のテレビに出さないですよ。特に大企業は。皆さんテレビを見て分かる通り、ああいう番組に出てくるスポンサーは大きな会社じゃない。いわゆる地方の中小。流れとしてはそういうのがある」

トヨタ・奥田氏「厚労省たたき異常」 ワイドショー報道など批判
http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20081112AT3S1201T12112008.html

「ああいう番組のスポンサーは大きな会社じゃない。パチンコ屋とかサウナとかうどん屋とか」



降参した歌3 ダイアナ・クラール

2008-11-18 22:55:02 | 音楽
ダイアナ・クラール。

ロイク・ミュージックにくわしい友人のマルスなら、「課長が部下のOL連れて聴きにいくジャズだな」と鼻で笑いそうだが、なかなかいいです。田舎臭いがモデル並みの美形。スイスのホテルのバーでカクテルピアニスト兼歌手として歌っていたところを見出されたそうです。

カクテルピアニストとはラウンジピアニストともいうが、日本でもシティホテルのバーやカフェラウンジでペロペロ弾いていますね。たいていは、音大の学生とかピアニストの卵の「女の子」のアルバイトです。欧米でも演奏家や芸術家の仕事ではないですが、やはりプロの仕事で皆べらぼうに上手いです。

オーケストラを従えたライブができるジャズマンなど思い浮かばないですから、ダイアナさんはよほど客が呼べるスターなのでしょう。色気と艶には欠けますが、男性的な伸びのある低音と囁きの入れ替わりがダイナミックです。少女時代はエルビス・コステロのファンで、いまでは結婚しているそうですから、やはり「イモい」とマルスは貶すでしょう。

エルビス・コステロもやはり、ナットキングコールのスタンダードナンバー「スマイル」のカバーをヒットさせていて、日本ならクレージーケンバンドとよく似ています(逆かもしれないが)。以下の曲も、ナットキングコールやシナトラの洗練と比べるとあれですが、太い地声を楽しむことができます。それから、誰かは知らないが、ギターがすばらしい。

Diana Krall "Love Letters"(Live in Paris)
ナットキングコールです。パリです。お洒落です。
ラブレターフロムカナダアーとは違います
http://jp.youtube.com/watch?v=l6uios2-3HE&eurl=http://geininnyoutube.blog15.fc2.com/blog-entry-2584.html

Diana Krall "Temptation" (Montreal Jazz Festival 2004 Live)
トム・ウエイツの曲だそうです。テンプテーションのリフレインがかっこいい
http://jp.youtube.com/watch?v=K4fbD0YBSZQ&feature=related

Diana Krall "Fly me to the moon"
昔、「全日本歌謡選手権」で青山ミチが歌って泣かせました
フラアーィトゥザムンのトゥザムンが泣かせどころ
http://jp.youtube.com/watch?v=qVCgf6_M7i4&feature=related

Diana Krall "S' Wonderful"
スワンダフル マアーベラスのマアーが気持ちいい
http://jp.youtube.com/watch?v=4F2a_GkLzgA&feature=related

Diana Krall "Look Of Love"
アルッ オーラブのアルッがいいところ
http://jp.youtube.com/watch?v=it1NaXrIN9I

Diana Krall "cry me a river"
クライミーアリバーの前に呑み込むユキャンが切ない
http://jp.youtube.com/watch?v=TEmayUrZc-c

Diana Krall "I Don't Know Enough About You"
あなたをよく知らないわ、こういう歌詞にしか「わ」は使えない
http://jp.youtube.com/watch?v=0GmrBeCgcAY

Diana Krall Trio "Boulevard of broken dreams" (live)
歌謡曲みたいですね、ギターが抜群!http://jp.youtube.com/watch?v=3mx5-pQ7D2k


東京のどこに住むのが幸せか

2008-11-18 20:10:00 | ブックオフ本
『東京のどこに住むのが幸せか』(山崎 隆 講談社セオリーブックス)

帯文(表)
都内55エリアを徹底検証!
広尾、自由が丘、豊洲、武蔵小山……人気のあの街は、いま本当に「買い」か?
経験豊富な不動産コンサルタントが独自の視点で明らかにした、東京の『住んでいい街、ダメな街』を完全公開!


帯文(裏)
広尾…………賃料も高いが価格はそれ以上に高い
自由が丘……成熟しすぎた街なので変化は期待できない
代々木上原…築年数の古いマンションでも価格は高め
練馬…………イメージの割には価格は高めに推移
久が原………職住近接のニーズに弱い高級住宅街
北千住………新築を避ければ大きなリスクはない街
芝浦…………大地震が来ても本当に安全な街なのか
武蔵小山……明るい未来を感じさせる期待の「下町」


表紙カバー裏
「資産価値のあるマンションや一戸建ての定義を、勘違いしている人が多い。どんなに耐震性能が高くても、どんなに眺望がよくても、どんなにリビングが広くても、衰退することが運命づけられた街の住宅を買ってしまったら、すべては水の泡である」(本文より)

東京と近郊で賃貸生活30年、およそ3000万円の家賃を払ってきた身として、これから不動産を買う気も買う金もないのだが、新聞折り込みの不動産チラシを読むのが好きだ。電車で読む本がないときなど、駅に設置されているラックからリクルートの無料住宅情報誌を取ったりもする。

マンションや戸建ての広告を眺め、その家に住んでいる自分を想像してみると、この世界とは異なるパラレルワールドに暮らす別の自分に出会ったような、ちょっと懐かしい気さえする。

そこでの俺は、一人住まいだったり、同棲していたり、夫婦二人だったり、小学生の娘と息子がいたり、犬を飼っていたり、両親と同居していたり、外国人留学生をホームステイさせていたり、する。なるほど、俺にとっては親の位置は、ペットや下宿人と変わらないのだなとあらためて思い知り、一人赤面したりする。

俺の職業もさまざまだ。都心に通うエリートサラリーマン、商店主、工場の熟練工、中学校の教員、居職の職人、鳶職などの肉体労働者、年金生活者、金利生活者、バーやクラブの経営者、ときにはそこで働くホステスだったり、駅裏に店を開くスナックのママ、あるいは専業主婦になったりする。

その俺や私に合わせて、部屋ごとのインテリアはもちろん、窓からの眺望、周辺の公園や商店街、駅までの散策コース、そこから足を伸ばせる近場の名所旧跡から日帰りできる観光地などまで、思いつくかぎりを思い浮かべるのだ。とくに大事なのは、帰り道である。少し土地勘があれば、ほとんど完璧に瞼裏に映像化できる。

秋の夕暮れ、電車が駅に入る、踏切音、改札を抜けて駅前のネオン、バスが大回りしてくる、パチンコ店の騒々しさ、居酒屋の賑わい、商店街の伸びた灯列、八百屋の活気肉屋の油の匂い、駆ける子どもたち、ラーメン屋の湯気、学習塾、医院、犬や猫、お稲荷さん、やがて人通りが減り、薄闇に住居表示。見上げれば、「我が家」の灯り。

落語「湯屋番」の若旦那のように、想像はもう止めどなく、その街の俺は行き交う老若男女と言葉を交わし触れあい、小さなドラマを繰り広げたりする。俺の目許口許はだらしなく緩み、目やにと涎が垂れることもあり、電車で横に座った人はさぞかし気味が悪いだろう。目やにを拭い涎をすすり、その住宅の価格を見る。

そこで気味が悪い人は夢から覚めるわけだが、気味が悪い人の横に座っちゃった人にも、本書は住宅のほんとうの価値について視野を広げてくれる好著である。

「本書は、東京の街の歴史的考証を踏まえたうえで、価格と賃料について、約2万件の成約事例をベースに「重回帰分析」という手法を用いて導き出した、街選びのための指南書である」(まえがき 5頁)

家や不動産を物色する前に、「マンションでいえば共有部分」である街を選びなさいというわけだ。本当の資産価値は建物ではなく、その下の地価でもなく、それが建つ街に左右される。「街の歴史的考証」を踏まえ、2006年までのデータを使っているそうだから、その分析は説得力がある。

多摩ニュータウンのように、大規模開発の街は住民の高齢化とともに活気を失い寂れる。芝浦や南千住の高層集合住宅群も職住近接のメリット以上に、大規模スーパーやショッピングモールが近いというだけでは、多様性を欠いて魅力に乏しすぎやしないか。世田谷などの戦後の新興住宅地も実は中途半端で物足りない。

街づくりはカネやモノだけではできない。そこに暮らしている人々や暮らしが多様でなければ街ではなく、街には人々が離合集散を繰り返して落ち着くまでに長い時間を必要とする。住んでみればわかるが、ホワイトカラーだけ、ブルーカラーや商店で働く人や老人がいない、あるいは住宅だけといった、一様な街は暮らしにくい。

「街の灯」がなければ、「我が家の灯り」を探しようもない。帰り道に安心感も笑顔も浮かばないなら、何のための家だろう。貯金通帳の住宅ローン引き落とし額をジッと見て、涙ぐむことになる。

都心から離れていない武蔵小山や戸越銀座のような「明るい下町」を見直しなさいという主張らしい。同感である。古くからの商店街が生き残っている街こそ、医院や病院、学校があり、小さくとも公園に人が集い、隣近所が挨拶を交わし、若者も年寄りも、もし身体が不自由になっても、暮らしやすいユニバーサルデザインの街だと思う。

驚愕の曠野

2008-11-16 00:03:09 | ブックオフ本
『驚愕の曠野 自選ホラー傑作選2』(筒井康隆 新潮文庫)

短編集だが、ほぼ中編の表題作に唸った。俺のとらえかたではホラーではない。ホラーは解放のファンタジーだから。たぶん、仏教用語からアレンジした著者の造語だろうが、奇天烈な神仏や魔物、人名が頻出する。異形が棲む魔界で終わりなき飢えと苦痛にのたうつ人間の叙事詩であり、書物が言葉が文字が跡絶え、人間が人間でなくなっていく記録でもある。読後、俺たちは<世界>という魔界の一段階の住人であることに頷く。魔界の魔物もまた輪廻転生した人間であり、魔界には人間しかおらず、すなわちそこは人間世界であること。人間を殺し喰らいながら、その哀しみに涙するかつて人間であった魔物と、殺され喰らわれた嫌な記憶を残したまま、<界>を下がりながら魔物や人間に転変していく「人間」。不死と不生の境界に佇む幽霊になったような気分にさせる。

被差別の食卓

2008-11-13 00:18:00 | ブックオフ本
被差別の食卓(上原 善広 新潮新書)

朝日文庫や岩波新書が出しそうなタイトルと内容だが、なぜか新潮社が版元である。南砂町のブックオフの新書や文庫コーナーに3冊並んでいた。いずれもカバー真新しく、挟まれた紐しおりはト音記号のように丸まっていた。読んだ形跡ナシ。学習会にでも使ったのだろうか。

被差別部落出身の若きフリージャーナリストが、アメリカ、ブラジル、ブルガリア、イラク、ネパールなどの被差別民の食卓を歩いたルポだ。辺見庸の『もの食う人びと』(共同通信社 1994年)が思い浮かぶが、取材時は20代だった若者の旅らしく清新な驚きがあり、『深夜特急』(沢木 耕太郎)も思い出した。

KFCで知られるフライドチキンの発祥がソウルフードだとは、著者と同様に知らなかった。美味な胸肉や腿肉は白人のご主人様が食べ、残った手羽先や首などを小骨まで食べられるほどよく揚げた(Deep Fly)ものが、黒人奴隷の家庭料理だったのだ。また白人は食べなかったナマズ(Cat Fish)を揚げた料理も、ナマズ養殖産業が盛んなほど、いまやポピュラーな南部料理なっているそうだ。

俺もブラジルはサンパウロで食べた、豚の耳や鼻、内臓を豆と一緒に煮込んだ濃厚なスープ料理のフェジョアーダも同様に、今日では代表的なブラジル料理のひとつとなっている。一般には普及しなかったが、日本の被差別部落でも、著者が食べて育ったビーフジャーキーと似たサイボシや牛肉の腸を油で揚げたアブラカスなどが生まれ、いまも食べられているという。

一方、ブルガリアのロマ(ジプシー)のハリネズミ料理の肉はゴムのように固く臭く、死馬牛の処理をするネパールの不可触賤民サルキの牛肉料理は血抜きが不十分で、著者には不味かったようだ。支配層が食べないものや捨てる部位から、過酷な肉体労働に耐える栄養豊かで美味な対抗的な食文化として、「被差別民の抵抗的余り物料理」が生まれてきたのではないか。そんな著者の仮説は、自身の味覚によってあっさり覆される。

被差別民が余り物や残り物を食べてきた事実は裏づけられたが、ロマやサルキの食物に食文化といえるほどの豊かさを感じられなかったのだ。そこで、食そのものではなく、食卓を囲む人たちへ照準を移して、著者は都市の廃墟や村を訪ね歩き、古老や若者、子どもたちへインタビューを試みる。ピンボールマシンのボールのように、あちこちにぶつかりながら、思いもかけぬ方向に著者の心は転がっていく。その取材の過程に読みでがある。

爆撃で廃墟となったビルに住むイラクのロマは、排泄物の溜まった部屋の隣室に瀕死の病人を寝かせておく不衛生に平気だった。ヒンドゥー教のネパールで禁忌とされる死馬牛の処理をする不可触賤民サルキは、穢れたもののように、といった比喩ではなく、穢れたものとして凄まじい差別を受けていた。やっと会えたサルキは、「差別されるから」と牛食を止め、サルキというカースト名も変えていた。想像以上の貧困と差別を眼前にして、同じ被差別の出自ながら、豊かな日本の若者に過ぎない著者は苛立つ。

それでも、「自分は日本のロマである」という被差別者の名乗りはそれなりの効果を上げ、家内に入り食事をともにすることはできた。さらに被差別民同士の連帯を期待する著者だが、人々は無表情にして無口で、口を開いたとしても率直に語るどころか、ときに平気で嘘をつくのに悩まされる。意外にもイラクのロマはフセイン政権を心から懐かしんでいた。ロマを定住させ、周辺住民から襲われぬよう定住地にフェンスと護衛を立てて、庇護したからだという。

ロマやサルキを前にして、予断が覆され仮説が通用しなかったとき、その落胆と困惑を抱えて著者が立ち尽くしてからが、この本はがぜん面白くなってくる。言い換えれば、予備知識があり文献も多いアメリカやブラジルの黒人の項は、かなり物足りない。著者がすでに知っていること、取材して新たに知ったことを、わかりやすく読者に伝えるだけならルポルタージュの仕事ではない。知らないことを知る、知るがわからない、その同時進行の追体験こそがルポを読む醍醐味だ。

「被差別民の抵抗的余り物料理」という仮説や、「一人でする解放運動」という著者のルポの位置づけは、現場では見事に挫折する。しかし、その挫折を含めて潔く著者は手の内を明らかにしていく。というより、他に書きようがなかったのかもしれない。だから、取材を終えて帰国してから脳内でつじつまを合わすことはできない。同様に、彼我にいかに隔絶があろうとも、職業としてのルポを選ばない、選ぶことはできないと著者は考える。そのぐるっと回って元に戻るところがいい。

感動的な場面はいくつもある。

ブルガリアの村にロマのハリネズミ料理をねだる。はじめは誰に聞いてもハリネズミなど食べたことがないという。そのうち伝手が見つかる。ロマは森にハリネズミを探しに行く。ほどなく1匹捕まえられ、ご馳走になることができた。村に一軒の酒場で、男たちは久しぶりのハリネズミ料理を喜び、踊り出す。写真を見ると、10人以上の男たちが、針を剥かれて少し大きなネズミほどの肉を分けて食ったとわかる。取材謝礼を払いたいと申し出る。「いや、お客だから要らない」という返事。

イラクの廃墟ビルに暮らす、乞食を生業とするロマのグループを訪ねたとき、ロマのリーダーに、「それで我々にどんな得があるのか」と問い返される。そうはいいながら、しかし、著者の返答には関心がないようだ。取材を終えて、謝礼を申し出る。ただ話を聴くだけでなく必ず食事を、それも食うや食わずの人の食物を食べるのだから当たり前の話だ。ここでも、いったんは謝絶される。しかし、重ねていうと、それならと通訳との間で、値段の交渉がはじまる。それが可笑しいと苦笑する著者。

ところが、ビルを出ようとしたところで子どもたちにつかまる。「俺たちにも金を払え」としつこくまとわりつく。腹を立てた著者が向き直り、その内の一人に、「お前は日本のロマからも金を取るのか!」と怒鳴りつける。するとその少年はポカンとし、次ぎにポケットから数ディナールの金を取り出して、著者の手に握らせようとする。今度は著者の方が驚きあわて断ると、少年は別のポケットから1本のチョコバーを取り出し、渡そうとする。

人里離れたサルキの村を訪ねる。一家の口は重い。文章で再現するほど喋らない。長男はそっぽを向いて一言も口をきかない。1000円ほどの金を置いて辞する。車を停めた所まで一時間ほどの道を歩いていると、長男が追いかけてくる。「弟や妹の鉛筆を買いに街へ行くから、車に乗せてくれ」という。先ほど置いてきた金で買うのだとわかる。長男はさらにいう。「家に村の外の人間が訪ねて来たのははじめてだ。一緒に食事をしたのもはじめてだ。本当はとても嬉しかった」と。

アメリカ南部に黒人のソウルフードを訪ねたときのこと。買い物をするために、著者はスーパーマーケットに立ち寄った。レジに並んでいると、キャッシャーの白人女性はお客の一人一人に、明るくにこやかな笑顔で、「ハロー」と声をかけていた。なるほど、これが開放的で親切な南部ホスピタリティなのかと感心して著者の番になった。「ハロー」とは言ってくれない。露骨な仏頂面をされた。郵便局の場所を訪ねたら、「通りの向こう!」と怒鳴られた。行ってみたら、案の定嘘だった。

食を求めれば、金を払わねばならない。受け取らないことも含めて、金のやりとりには人間のコミュニケーションを駆動させる力があるようだ。駆動させないときがあるとすれば、その金が「命金(いのちがね)」ではないときかもしれない。少なくとも、市場や貨幣や贈与や消費より、「プライスレス」を上位に置く根拠はない。