http://eiga.com/movie/53105
人気作家スティーブン・キング原作は数多く映画化されてきたが、成功した作品は少ない。キングファンの動員を当て込んだというならまだしも、たいていは原作権を買いつけて映画の製作資金を出させたところで満足した「映画ビジネス」の残飯のような駄作ばかり、といえば言い過ぎだろうか。言い過ぎではない。初手から、誰もやる気がないわけだ。
「MIST」を監督したフランク・ダラボンはやる気がある。これまで彼が手がけた、「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」は、キング作品の映画化としては例外的に出来がよく、興行的には成功を収め、キングファンの間でも評判は悪くない。この「MIST」も期待に違わぬ出来と提灯を持ちたいところだが、残念ながら、やっぱり失敗したなと思った。
「ショーシャンクの空に」や「グリーンマイル」を含めて、実はフランク・ダラボンのキング映画を俺はあまり評価してこなかった。キングファンとしては、原作にとうてい及ばないと思ってきた。もちろん、原作と映画は別物だから、キューブリックの「シャイニング」の例があるように、原作に忠実ではなくとも映画としては秀作という場合もあることは知っている。
キューブリックがキングの代表作のひとつとされる「シャイニング」を「キューブリックの映画」にできたのは、(実際、キングファンからはストーリーの改竄などが批判され、キング自身もラストに不満を抱いたという話を聞いた記憶がある)、誰しもキューブリックの作家性を認めていたからである。
「時計じかけのオレンジ」のバイオレンス、「バリー・リンドン」の歴史物、そして「2001年宇宙の旅」のSFに続く、ホラーへの挑戦であり、キング原作をキューブリックがどう料理するかというキングファンの関心は、キューブリックの眼中にはなかったはずだ。キューブリックは原作と原作のファンを区別した、自立した映画づくりができる大物だった。
作家性とは、その人にしか作れない作品を生み出そうとする努力をいう。そうした独自の作品は自立した映画づくりの可能性を刺激し、新たな観客と市場の開拓を結びつけ、映画市場全体を活性化させる。つまり、作家性とその作家性を支える映画づくりとは、市場の新規開拓への野心と言い換えてもいい。
この真逆が、冒頭の「映画ビジネス」である。新しい顧客をつかもうとはしない。既成の市場でシェアを極大化しようとする。いうまでもないが、新しい顧客とは、それまであまり映画を観なかった顧客のことではない。TV局や出版社と映画を組み合わせたメディアミックスという手法で、それまであまり映画を観なかった観客を動員して大ヒット作は生まれた。が、イベントが過ぎれば、元のあまり映画を観ない観客に戻った。
そうではなく、映画ファンではあるが、気取ったキューブリック映画を敬遠していたり、既成の映画に飽きたらなさを抱いている顧客たちこそが、新しい顧客であり市場であるはずだ。円形のパイを自分にだけ多く切り分ける市場シェアの争奪ではなく、パイそのものを厚くするわけだ。
しかし、キューブリックでさえ、遺作となった「アイズ・ワイド・シャット」では、映画のファンと俳優(トム・クルーズとニコール・キッドマン)のファンを区別しない駄作をつくってしまった。まだ見ぬ新しい観客ではなく、すでに見えているトム・クルーズとニコール・キッドマンのファンを当てにしてしまったのではないか。
監督フランク・ダラボン×原作スティーブン・キングという映画づくりなら、どれほど予算をかけ有名俳優を集めようと、傑作は望めない。自分の、この映画のファンを創ろうとしていないからだ。原作のファンや出演俳優のファンを横滑りに獲得しようとするのは、監督が自分の映画のファンであることを止めるに等しい。
何が悲しくて、キング作品の映像化を観せられなくてはならないのか。原作を読めばこと足りる。フランク・ダラボンにも同様な悲しい思いがあったからこそ、キング作品中もっとも映像化が困難と思われ、絶望的な展開で娯楽性に乏しい「MIST(霧)」の「映画化」に挑んだと思えたが、皮肉にも前2作より不出来となってしまった。
原作中編「霧」の怖さにはるかに及ばない。「霧」の怖さは、霧のなかで孤立した人間が感じる怖さであり、恐怖に駆られた人間がほかの人間に及ぼす怖さであり、しかしそこから決して脱出できない怖さであったはず。怖いのは霧の中の怪物ではなく、怪物を招いた軍事研究の暴走ではなく、狂信に走る昨日までの隣人でもなく、霧によって覆われた世界の終わりであり、それをありありと想像してしまうことだろう。
したがって、終わりから逃げたラストの改変は無様だ。これではミストサウナじゃないか。
人気作家スティーブン・キング原作は数多く映画化されてきたが、成功した作品は少ない。キングファンの動員を当て込んだというならまだしも、たいていは原作権を買いつけて映画の製作資金を出させたところで満足した「映画ビジネス」の残飯のような駄作ばかり、といえば言い過ぎだろうか。言い過ぎではない。初手から、誰もやる気がないわけだ。
「MIST」を監督したフランク・ダラボンはやる気がある。これまで彼が手がけた、「ショーシャンクの空に」「グリーンマイル」は、キング作品の映画化としては例外的に出来がよく、興行的には成功を収め、キングファンの間でも評判は悪くない。この「MIST」も期待に違わぬ出来と提灯を持ちたいところだが、残念ながら、やっぱり失敗したなと思った。
「ショーシャンクの空に」や「グリーンマイル」を含めて、実はフランク・ダラボンのキング映画を俺はあまり評価してこなかった。キングファンとしては、原作にとうてい及ばないと思ってきた。もちろん、原作と映画は別物だから、キューブリックの「シャイニング」の例があるように、原作に忠実ではなくとも映画としては秀作という場合もあることは知っている。
キューブリックがキングの代表作のひとつとされる「シャイニング」を「キューブリックの映画」にできたのは、(実際、キングファンからはストーリーの改竄などが批判され、キング自身もラストに不満を抱いたという話を聞いた記憶がある)、誰しもキューブリックの作家性を認めていたからである。
「時計じかけのオレンジ」のバイオレンス、「バリー・リンドン」の歴史物、そして「2001年宇宙の旅」のSFに続く、ホラーへの挑戦であり、キング原作をキューブリックがどう料理するかというキングファンの関心は、キューブリックの眼中にはなかったはずだ。キューブリックは原作と原作のファンを区別した、自立した映画づくりができる大物だった。
作家性とは、その人にしか作れない作品を生み出そうとする努力をいう。そうした独自の作品は自立した映画づくりの可能性を刺激し、新たな観客と市場の開拓を結びつけ、映画市場全体を活性化させる。つまり、作家性とその作家性を支える映画づくりとは、市場の新規開拓への野心と言い換えてもいい。
この真逆が、冒頭の「映画ビジネス」である。新しい顧客をつかもうとはしない。既成の市場でシェアを極大化しようとする。いうまでもないが、新しい顧客とは、それまであまり映画を観なかった顧客のことではない。TV局や出版社と映画を組み合わせたメディアミックスという手法で、それまであまり映画を観なかった観客を動員して大ヒット作は生まれた。が、イベントが過ぎれば、元のあまり映画を観ない観客に戻った。
そうではなく、映画ファンではあるが、気取ったキューブリック映画を敬遠していたり、既成の映画に飽きたらなさを抱いている顧客たちこそが、新しい顧客であり市場であるはずだ。円形のパイを自分にだけ多く切り分ける市場シェアの争奪ではなく、パイそのものを厚くするわけだ。
しかし、キューブリックでさえ、遺作となった「アイズ・ワイド・シャット」では、映画のファンと俳優(トム・クルーズとニコール・キッドマン)のファンを区別しない駄作をつくってしまった。まだ見ぬ新しい観客ではなく、すでに見えているトム・クルーズとニコール・キッドマンのファンを当てにしてしまったのではないか。
監督フランク・ダラボン×原作スティーブン・キングという映画づくりなら、どれほど予算をかけ有名俳優を集めようと、傑作は望めない。自分の、この映画のファンを創ろうとしていないからだ。原作のファンや出演俳優のファンを横滑りに獲得しようとするのは、監督が自分の映画のファンであることを止めるに等しい。
何が悲しくて、キング作品の映像化を観せられなくてはならないのか。原作を読めばこと足りる。フランク・ダラボンにも同様な悲しい思いがあったからこそ、キング作品中もっとも映像化が困難と思われ、絶望的な展開で娯楽性に乏しい「MIST(霧)」の「映画化」に挑んだと思えたが、皮肉にも前2作より不出来となってしまった。
原作中編「霧」の怖さにはるかに及ばない。「霧」の怖さは、霧のなかで孤立した人間が感じる怖さであり、恐怖に駆られた人間がほかの人間に及ぼす怖さであり、しかしそこから決して脱出できない怖さであったはず。怖いのは霧の中の怪物ではなく、怪物を招いた軍事研究の暴走ではなく、狂信に走る昨日までの隣人でもなく、霧によって覆われた世界の終わりであり、それをありありと想像してしまうことだろう。
したがって、終わりから逃げたラストの改変は無様だ。これではミストサウナじゃないか。