コタツ評論

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亀田興毅はマギーである

2007-10-27 00:40:37 | ノンジャンル
C・イーストウッドの名作『ミリオン・ダラー・ベイビー』のヒロイン・マギー(ヒラリー・スワンク)は、反則技で有名な冷酷な世界チャンプ・ブルーベアに挑戦する。案の定、ブルーベアの反則技に苦しめられるマギーに、セコンドのフランキーは指示する。「レフリーの見えないところで、尻の付け根を殴って、座骨神経を壊せ」。

明らかな反則技をけしかけられてマギーは戸惑うが、いわれたとおりにして、ようやく勝機をつかむ。プロボクシングに人生と夢のありったけを賭けた二人だが、その一方でプロボクシングは反則も技術の内という見せ物興業であることをよく知っているわけだ。

ドイツの娼婦上がりで悪辣冷酷な試合ぶりを売り物にしているブルーベアに対して、アイルランド移民のホワイトトラッシュ(白人の屑)の娘として、ガッツ以外では劣るマギーが勝ち残るには、きれい事だけでは勝てないということを知っているわけだ。

つまり、リングの上には、セコンドも含めて、悪人はいない。悪役はいても。

その悪役が、二十歳の初々しい青年らしく、神妙に謝罪し、世間の同情を買ったそうだ。

反則を指示した、マナーを踏みにじってきた、と吊し上げる方も、それを可哀相だと同情する向きも、野暮の極みだと思う。また、これも仕組まれた絵図だと賢しらに鼻を鳴らすのも、防衛省の汚職問題などもっと注目すべき事件から眼を逸らすものだという指摘も、何をいまさらとしかと思えない。

「みんなは悪くいうかもしれんけど、俺たちにとっては世界一の親父やと思うてるから」
興毅は絶句しながらいった。

俺が、『三丁目の夕日』やその類のレトロ映画や小説を認めないのは、一様に、亀田一家のような、その当時はありふれていた家庭や家族をけっして描かないからだ。史郎のような粗野で下品な父親は出てこない。

いまでは誰もが敬愛をもって語る美空ひばりだが、一卵性母娘といわれたその母親は、メディアに向かって、自分の娘を「お嬢」と呼び、ひばりの弟をヤクザに預けるような、無教養で非常識の人だった。史郎と同様に、「あのおふくろだけは」と顔を顰める関係者は多かった。

しかし、ひばりを育て守ったのは、あのおふくろさんであり、三兄弟を育てたのは、やはり史郎だ。興業の世界で生き残るには、才能や実力だけではまったく不十分である。フランキーはマギーに繰り返し、「自分を守れ」という。

漂白されたように脆弱な若者のなかにあって、粗暴を売り物にするのは別に顔を顰めるほどのことではない。青年漫画誌には、暴力沙汰マンガが溢れている。宮崎駿アニメは日本の漫画界ではきわめて異例なのだ。

才能ある若手にかませ犬をあてがって自信をつけさせ、人気を煽るのは、ボクシング興業の常道であり、つくられたチャンピオンなど、いまさら驚くことでもない。少なくとも亀田一家が衰退の坂を転げ落ちていたボクシング復活に大きく貢献したのは事実だ。

にもかかわらず、俺たちに、亀田史郎や亀田一家を嫌悪する感情があるとすれば、自らの貧しい出自を思い起こさせるからだ。俺たちが、亀田一家の言動に快哉を覚えるとすれば、自らの貧しい現在を一瞬でも忘れられるからだ。

その娯楽は失われてしまった。祭りは終わった。馬鹿馬鹿しい思いだけを残して。いや、失われた家族の絆を見たって? 馬鹿馬鹿しい。あれほどなりふりかまわず生きたことなんて一度もない癖に。

亀田史郎はフランキーであり、『カラマーゾフの兄弟』でいえば、スネギリョフである。そして、世界中の誰よりも父スネギリョフを信じ愛するイリューシャは興毅である。さらに正しくは、父を信じ愛するというより、イリューシャも興毅も父をかばっているのだ。

屈強なドミートリー・カラマーゾフに「あかすり」髭をつかまれ、居酒屋から引きずり出され、町中で乱暴されている父スネギリョフを助けるために、「パパを許してよぅ」と泣き叫びながら、ドミートリーの手に接吻するイリューシャのように、興毅は父のために許しを乞いに出てきたのである。

親離れをせよとは愚かしい。亀田家を背負ってきたのは、史郎ではなく幼い頃から興毅であることを知らぬわけがあるまい。その亀田家を、その一員である父を捨てよという惨心を興毅が理解するはずもない。

また、マッチメイクやプロモートへの介入から史郎を排除すれば、三兄弟が興業やメディアの餓狼どもから食い尽くされるのは眼に見えている。ひばりのおふくろや、かつてのリエママと同じように、史郎は餓狼どもから息子たちを守ろうとしてきた。

興毅は父・史郎を理解している。有り体にいえば、かばってくれ、かばわなければならない存在としてわかっているのだ。共依存で何が悪い。興起には自らの損得や将来などは眼中にない。なぜならば、亀田家の家長は興毅であり、史郎は父親というより、母親なのだから。(敬称略)














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ミリオン・ダラー・ベイビー

2007-10-25 00:52:59 | レンタルDVD映画
昨夜、CATVのムービープラスで3回目。
非の打ち所のない脚本と演出だとあらためて感嘆した。

初見のときに以下のように書いた。

http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/200605/archive

>瑕疵があるとすれば、神父と教会か。アイリッシュの映画だから、キリスト教の影響>が抜きがたいのかと思ったが、というより過半を占めるクリスチャンの観客たちのた>めに必要だったのかもしれない。

と書いたのは、何を見ていたのか、バカである。フランキーの「三位一体とは?」などという原理的な質問に、それまでは辞典な返答しかしなかった神父が、「マギーの頼み」に悩むフランキーにこういうのだ。

「神は関係ない。天国も地獄も関係ない。しかし、それをすれば、あなたは自分を見失うだろう、永久に」

フランキーに腹立たしい思いを隠せなかった神父が、教会の中で神父にあるまじき、友人としての言葉を吐いてしまう。教会や神父という偶像を脱して、神の子である人間としての言葉を、同じ神の子であるフランキーに告げたわけだ。より深い宗教性を示した、この映画に不可欠な場面だった。

小堺一機の解説によれば、イーストウッドの監督術は、俳優に任せるということらしい。『硫黄島からの手紙』に主演した渡辺謙も、俳優の演技にダメ出しはせず、ほとんど一発OKだったと語っていた。「リハーサル室で失われた名演がどれほどあっただろうか」とイーストウッドはいったことがあるという。

映画が大衆の娯楽から総合芸術に格上げされ、ときに世界的なイベントになってからは、映画は監督のものと思われがちだ。しかし、イーストウッドの映画には、映画は俳優のものだという確信がありそうだ。

イーストウッドはかなり以前から世界の映画界でも巨匠の位置にいると俺は思ってきたが、たぶんイーストウッド自身はそうした監督を頂点とする映画づくりを認めていないのかもしれない。

映画は俳優のものだとしたら、俳優が主だというのではもちろんなく、俳優が観客にもっとも近く、一回性の演技に真実を込める、そのドキュメンタリ性こそが、映画を映画たらしめているのだと考えたい。

それが証拠に、マギー=ヒラリー・スワンクの素晴らしさ。しかし、それもイーストウッドが老残を強調してこその輝きだ。イーストウッドは引き立て役に回ったのではなく、やはりヒロインに惚れられる主演であった。
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カラマーゾフの兄弟 2-1

2007-10-23 19:04:24 | 新刊本
2巻目に入った。先に通俗小説のように読む、と記したが、俺は何かえらい勘違いをしていたかもしれない。いまのところ通俗小説である。ただ、女性の描き方がべらぼうな執着だ。男が書いた小説において、女がリアルに描かれることは稀だ。たいていが、幻想か解釈に堕する。女の描き方が不十分であることが瑕疵にならないほど、それは予定調和的なほど、男の情動だけが描かれることが多かった。カラマーゾフにおいては違う。カラマーゾフの兄弟と父を巡る女たちとタイトルを変えたいほど、リーズやカテリーナ、グルーシェニカたち、ホフラコーワ夫人でさえ行間を躍動している。そういう意味では、これは人類の小説であるようだ。
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鳥居みゆき

2007-10-18 00:48:05 | ノンジャンル
「おっぱっぴー」の小島よしおもおもしろいが、この鳥居みゆきが可笑しい。

あちらへ行った眼と白装束が、オウム信徒を思い出させる。というより、オウム真理教のパロディなのだろう。とすれば、小島よしおはスーフリのパロディである。ついでにいえば、みのもんたはバイアグラのパロディだろう。

小島と鳥居のどちらが、時代の非精神性の知的な表現か。もちろん、「おっぱっぴーOcean Pacific Peace(太平洋に平和を)」と合いの手を入れる小島よしおは、憲法9条反対に反対を唱える護憲精神の分だけ、鳥居みゆきより軍配が下がる。

http://pickitup.blog75.fc2.com/blog-entry-1685.html


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カラマーゾフの兄弟 1の3

2007-10-11 00:12:51 | 新刊本
カラマーゾフの兄弟を通俗小説のように読み飛ばすという試みをはじめてみたが、やはりなかなかそうはいかない。おもしろいから、ちびちび読んでしまうのだ。俺の最初の読書体験に近いものとして、小学生の頃に読んだ吉川英治の『宮本武蔵』が挙げられるが、よく似た筆致だなと思った。フョードルの罵倒など本位田のおばばと変わりない。ゾシマ長老は沢庵和尚か。もちろん、吉川英治が影響を受けたのだろう。フョードルますます快調。もっとも現実にいそうでいない人物だ。
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