コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

ミリオン・ダラー・ベイビー

2007-10-25 00:52:59 | レンタルDVD映画
昨夜、CATVのムービープラスで3回目。
非の打ち所のない脚本と演出だとあらためて感嘆した。

初見のときに以下のように書いた。

http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/200605/archive

>瑕疵があるとすれば、神父と教会か。アイリッシュの映画だから、キリスト教の影響>が抜きがたいのかと思ったが、というより過半を占めるクリスチャンの観客たちのた>めに必要だったのかもしれない。

と書いたのは、何を見ていたのか、バカである。フランキーの「三位一体とは?」などという原理的な質問に、それまでは辞典な返答しかしなかった神父が、「マギーの頼み」に悩むフランキーにこういうのだ。

「神は関係ない。天国も地獄も関係ない。しかし、それをすれば、あなたは自分を見失うだろう、永久に」

フランキーに腹立たしい思いを隠せなかった神父が、教会の中で神父にあるまじき、友人としての言葉を吐いてしまう。教会や神父という偶像を脱して、神の子である人間としての言葉を、同じ神の子であるフランキーに告げたわけだ。より深い宗教性を示した、この映画に不可欠な場面だった。

小堺一機の解説によれば、イーストウッドの監督術は、俳優に任せるということらしい。『硫黄島からの手紙』に主演した渡辺謙も、俳優の演技にダメ出しはせず、ほとんど一発OKだったと語っていた。「リハーサル室で失われた名演がどれほどあっただろうか」とイーストウッドはいったことがあるという。

映画が大衆の娯楽から総合芸術に格上げされ、ときに世界的なイベントになってからは、映画は監督のものと思われがちだ。しかし、イーストウッドの映画には、映画は俳優のものだという確信がありそうだ。

イーストウッドはかなり以前から世界の映画界でも巨匠の位置にいると俺は思ってきたが、たぶんイーストウッド自身はそうした監督を頂点とする映画づくりを認めていないのかもしれない。

映画は俳優のものだとしたら、俳優が主だというのではもちろんなく、俳優が観客にもっとも近く、一回性の演技に真実を込める、そのドキュメンタリ性こそが、映画を映画たらしめているのだと考えたい。

それが証拠に、マギー=ヒラリー・スワンクの素晴らしさ。しかし、それもイーストウッドが老残を強調してこその輝きだ。イーストウッドは引き立て役に回ったのではなく、やはりヒロインに惚れられる主演であった。