コタツ評論

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金賢姫の抱擁

2009-03-12 15:31:00 | ノンジャンル
大韓航空機爆破事件の実行犯である金賢姫元工作員と、拉致被害者田口八重子さんの長男飯塚耕一郎さんと兄繁雄さんとの面会が実現した。まず率直に、この3人にとってよかったと思った。当初から金賢姫元工作員に日本語を教えた「李恩恵」は田口八重子さんという供述が出ていたにもかかわらず、事件から22年を経て、ようやく3人は会えた。それは、どうしていままで会えなかったのか、という当然の疑問にも結びつく。

最近の金賢姫さんの談話によれば、北朝鮮へ「太陽政策」をとる盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権下では、大韓航空機爆破事件は韓国諜報機関が実行した北朝鮮に対する謀略説が流布され、マスコミに追い回されるだけでなく、人々から「偽工作員」と中傷され、近年は身を隠して暮らしていたという。殺された乗客115人とその遺族の無念を負った金賢姫さんの無念の底は、想像を絶するほど深かったろうと思う。

姉と慕った田口八重子さんの長男である耕一郎さんと兄の飯塚繁雄さんとの面会は、金賢姫さんにとって、22年間の贖罪の日々になかで、きわめてまれな、人を勇気づける心晴れやかな時間だったろうと想像する。まるで田口八重子さんの代わりであるかのように、耕一郎さんを抱きしめる姿に、47歳となったこの女性の過酷な半生への思いをかいま見る気がした(耕一郎さんはもう少し長く抱きしめてあげてもよかったのに)。彼女にとって、李恩恵=田口八重子さんにまつわる記憶とは、イノセントだった自分に帰るわずかな手がかりだろうと思えるからだ。

先日の日韓首脳会談において、李明博(イ・ミョンバク)大統領は麻生首相に対し、
「朝鮮人強制連行と従軍慰安婦問題について、今後日本政府の謝罪要求を放棄すると誓約した」
という。
http://www.iht.com/articles/ap/2009/01/10/asia/AS-SKorea-Japan-Relations.php
http://www.newsway21.com/news/articleView.html?idxno=53029

「太陽政策」から「北風政策」への転換のひとつかもしれないが、国家に翻弄され続けた金賢姫さんの苦痛に満ちた表情と、耕一郎さんを抱擁しながら頬を濡らす涙をみるとき、拉致問題の前進については少しも考えなかった。もちろん、田口八重子さんや横田めぐみさんらの消息について、新しい情報が拉致家族にもたらされ、いささかなりとも拉致問題の解明に役立ち、拉致被害者が家族の元に帰る日が遠からずくるかもしれない。ぜひそうあってほしいと願っている。

だが、拉致問題のように、国家によって人々が引き裂かれていく、という現実は、これからも続いていくと思えるのだ。もし、前進への希望があるとすれば、「抱いていいですか?」と耕一郎さんに尋ねてから抱きしめた、金賢姫さんのような行動から生まれるものであるはずだし…。なるほど、村上春樹はこのことをいっていたのか。

If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others’souls and from our believing in the warmth we gain by joining souls together.

もし、勝利への希望を持てるとするなら、かけがえのない独自の存在である私たちが、たがいの魂が寄り添うときに感じる温かさ、それを強く信じること以外にないでしょう。
(村上春樹のイスラエル賞受賞スピーチから 拙訳)

(敬称略)