『綾さん』(小沢 昭一 新潮文庫)
小沢昭一が、「接客のプロ」と認めたトルコ嬢からその自分史と技術や心構えを聞き出したインタビュー。トルコ嬢という呼称そのものが死語になって久しく、幇間や芸者とともにトルコ嬢も亡んだわけだが、その後、1970年代後半の滋賀県雄琴温泉のトルコ街を描いたのが、以下。
『惜春』(花村萬月 講談社文庫)
人間以下の扱いをされるトルコのボーイが、同僚やトルコ嬢とのふれあいのなかで成長を遂げていく爽やかな青春小説。受験体制に追い立てられる大多数から、あたりまえの「青春」が排除されたおかげで、客が使い捨てた大量のコンドームを焼く煙に咽(む)せるという、あたりまえでない青春像が描かれた。
異形のうちに倫理を見出そうとする花村萬月らしい佳篇だが、青春を排除する受験体制にからみとられた大多数のほうが、はるかに異形だというのがわかってきたのが、1970年代頃からだと思う。受験産業と教育機関、それと直結した企業社会の異形ぶりを描いた小説はまだ出ていない、たぶん。
『いま私たちが考えるべきこと』(橋本 治 新潮文庫)
そんな1970年代以降の、青春を排除された自覚を持たない後続世代に愚直なまでに忠言してきたのが、橋本治である。もっとも、橋本治なら、「青春」なんてバカバカしいと、間違いなくいうだろうが。
タイトルと同様に、相変わらず読みにくい。「いま私たちが考えるべきこと」が読みにくい? 字面は読みやすいが、パラグラフ、1頁、1章と読み広げていくと、なんだかわからなくなる。そのうち、著者は書いてある内容より、だらだら書きたいだけなのではないかと苛立ったり、いやいや、自分は関係ない風であるが、実は先行世代からの誠実な示唆というものではないかと思い直したり、頁を戻って確認することが多い。
この人の長い著作リストを眺めていると、地の塩という言葉を思い出す。
『問題は、躁なんです』(春日 武彦 光文社新書)
著者は精神科医。躁鬱の場合、暗くて自殺に走ったりする鬱に注目されがちだが、実は、というタイトル。「キモイ」や「キショイ」という若者言葉がある。なるほど、明るく活発な躁がよければ、覚醒剤がもってこいとなる。「そうなんです!」というオサムちゃんギャグのパロディと知る人がはたしてどれだけいるだろうかと、つまらないことを気にしてしまった。
『恋に似たもの』(山本 夏彦 文春文庫)
買うまいと思いながら、ついまた買ってしまった意地悪爺さんのエッセイ集。いや、コラム集というべき水準か。何が嫌だといって、読後、爺さんの持って回った語り口に影響されてしまうところだ。著者は10枚を3枚に凝縮していると自慢するが、その知識と情報の並べ方の手が込んでいるのだ。爽やかな名前なのに、と思っていたら、掲載されていた著者の小学校時代の作文を読むと、いまと見方や語り口があまり変わりない。あれで自然体だったのかと驚いた。解説の阿川弘之が紹介したガン死した妻の会葬御礼にも。
「妻すみ子はひとくせあって 私の書いたコラムを認めませんでした いわゆる理解なき妻で 私はおかげできたえられたと言って ふたりは笑うに至りました 名高いうたの文句に おらが女房をほめるじゃないが ままをたいたり水仕事 というのがあります 彼女はそれを畢生(ひっせい)のしごとにして 世間には自分が認めないのものを認める人があるのに満足していました 本日はありがとうございました」
「自分が認めないものを認める人があるのに満足する」という境地こそ、1970年代以降、根こそぎされた、と納得。
『辺境・近境』(村上 春樹 新潮文庫)
「壁と卵」の余波か。これもつい手にとってしまった。英文の記事を読んでいると<aftermath=余波>という言葉がよく出てくる。たいてい、「余波」と訳すと、帯に短し襷(たすき)に長し、なのだが。ちなみに、「帯に短し襷に長し」も死語であるな。いつまで使っているのだろう。こういうことが気になり出すのも山本夏彦コラムの余波だろう。
この本は、雑誌に掲載された紀行文を集めたもの。小学生が書いたように平易。字面通り頭に入ってくるのは橋本治の対極か。椎名誠の旅行記の影響がうかがえ、椎名誠よりずっとつまらない。が、旅を正確に記録するなら、必ずつまらないはずだ。著者も、「旅は疲れるだけ」といっている。
にもかかわらず、人は旅をする、それはなぜなのか、という問い、誰でも抱くこの謎が、それぞれの旅の前後に浮かび上がり、その後悔にも似た焦りと空しさへの思いが、旅のある臨場感となって読み手に追体験できる。おもしろおかしくはないが、旅の気分てのはこうなんだよなあと思える。
ただし、「ノモンハン」を訪ねる章は、そんなダルな旅気分を吹き飛ばす衝撃がある。『辺境・近境』という書名は、この一篇を指し、これを読むだけでもこの本を買う価値があるといえるほどに。戦争をめぐる冷徹な事実と厳しい詩情が胸に迫ります。
著者はすでに知っていることにはほとんど触れず、中ソ国境のノモンハンを訪れて、はじめて感じたこと、知ったことだけを書こうとしている。著者が「ノモンハン事件」についてはじめて知った小学生の頃のように。
作家であるとか、妻帯した中年男であるとか、著者の属性は消え去り、そうした属性からよって来(きた)る所感も薄まる。なるほど、旅に出る意味と効果は自分を発見するのではなく、消すということなのか。
(敬称略)
小沢昭一が、「接客のプロ」と認めたトルコ嬢からその自分史と技術や心構えを聞き出したインタビュー。トルコ嬢という呼称そのものが死語になって久しく、幇間や芸者とともにトルコ嬢も亡んだわけだが、その後、1970年代後半の滋賀県雄琴温泉のトルコ街を描いたのが、以下。
『惜春』(花村萬月 講談社文庫)
人間以下の扱いをされるトルコのボーイが、同僚やトルコ嬢とのふれあいのなかで成長を遂げていく爽やかな青春小説。受験体制に追い立てられる大多数から、あたりまえの「青春」が排除されたおかげで、客が使い捨てた大量のコンドームを焼く煙に咽(む)せるという、あたりまえでない青春像が描かれた。
異形のうちに倫理を見出そうとする花村萬月らしい佳篇だが、青春を排除する受験体制にからみとられた大多数のほうが、はるかに異形だというのがわかってきたのが、1970年代頃からだと思う。受験産業と教育機関、それと直結した企業社会の異形ぶりを描いた小説はまだ出ていない、たぶん。
『いま私たちが考えるべきこと』(橋本 治 新潮文庫)
そんな1970年代以降の、青春を排除された自覚を持たない後続世代に愚直なまでに忠言してきたのが、橋本治である。もっとも、橋本治なら、「青春」なんてバカバカしいと、間違いなくいうだろうが。
タイトルと同様に、相変わらず読みにくい。「いま私たちが考えるべきこと」が読みにくい? 字面は読みやすいが、パラグラフ、1頁、1章と読み広げていくと、なんだかわからなくなる。そのうち、著者は書いてある内容より、だらだら書きたいだけなのではないかと苛立ったり、いやいや、自分は関係ない風であるが、実は先行世代からの誠実な示唆というものではないかと思い直したり、頁を戻って確認することが多い。
この人の長い著作リストを眺めていると、地の塩という言葉を思い出す。
『問題は、躁なんです』(春日 武彦 光文社新書)
著者は精神科医。躁鬱の場合、暗くて自殺に走ったりする鬱に注目されがちだが、実は、というタイトル。「キモイ」や「キショイ」という若者言葉がある。なるほど、明るく活発な躁がよければ、覚醒剤がもってこいとなる。「そうなんです!」というオサムちゃんギャグのパロディと知る人がはたしてどれだけいるだろうかと、つまらないことを気にしてしまった。
『恋に似たもの』(山本 夏彦 文春文庫)
買うまいと思いながら、ついまた買ってしまった意地悪爺さんのエッセイ集。いや、コラム集というべき水準か。何が嫌だといって、読後、爺さんの持って回った語り口に影響されてしまうところだ。著者は10枚を3枚に凝縮していると自慢するが、その知識と情報の並べ方の手が込んでいるのだ。爽やかな名前なのに、と思っていたら、掲載されていた著者の小学校時代の作文を読むと、いまと見方や語り口があまり変わりない。あれで自然体だったのかと驚いた。解説の阿川弘之が紹介したガン死した妻の会葬御礼にも。
「妻すみ子はひとくせあって 私の書いたコラムを認めませんでした いわゆる理解なき妻で 私はおかげできたえられたと言って ふたりは笑うに至りました 名高いうたの文句に おらが女房をほめるじゃないが ままをたいたり水仕事 というのがあります 彼女はそれを畢生(ひっせい)のしごとにして 世間には自分が認めないのものを認める人があるのに満足していました 本日はありがとうございました」
「自分が認めないものを認める人があるのに満足する」という境地こそ、1970年代以降、根こそぎされた、と納得。
『辺境・近境』(村上 春樹 新潮文庫)
「壁と卵」の余波か。これもつい手にとってしまった。英文の記事を読んでいると<aftermath=余波>という言葉がよく出てくる。たいてい、「余波」と訳すと、帯に短し襷(たすき)に長し、なのだが。ちなみに、「帯に短し襷に長し」も死語であるな。いつまで使っているのだろう。こういうことが気になり出すのも山本夏彦コラムの余波だろう。
この本は、雑誌に掲載された紀行文を集めたもの。小学生が書いたように平易。字面通り頭に入ってくるのは橋本治の対極か。椎名誠の旅行記の影響がうかがえ、椎名誠よりずっとつまらない。が、旅を正確に記録するなら、必ずつまらないはずだ。著者も、「旅は疲れるだけ」といっている。
にもかかわらず、人は旅をする、それはなぜなのか、という問い、誰でも抱くこの謎が、それぞれの旅の前後に浮かび上がり、その後悔にも似た焦りと空しさへの思いが、旅のある臨場感となって読み手に追体験できる。おもしろおかしくはないが、旅の気分てのはこうなんだよなあと思える。
ただし、「ノモンハン」を訪ねる章は、そんなダルな旅気分を吹き飛ばす衝撃がある。『辺境・近境』という書名は、この一篇を指し、これを読むだけでもこの本を買う価値があるといえるほどに。戦争をめぐる冷徹な事実と厳しい詩情が胸に迫ります。
著者はすでに知っていることにはほとんど触れず、中ソ国境のノモンハンを訪れて、はじめて感じたこと、知ったことだけを書こうとしている。著者が「ノモンハン事件」についてはじめて知った小学生の頃のように。
作家であるとか、妻帯した中年男であるとか、著者の属性は消え去り、そうした属性からよって来(きた)る所感も薄まる。なるほど、旅に出る意味と効果は自分を発見するのではなく、消すということなのか。
(敬称略)