
私がこれまでインタビュー取材で会ってきた影星たちの口から何度も名前が出た嘉禾影業創業者の1人レイモンドチョウこと鄒文懐。
中にはそれまで私のインタビュー取材のオファーを頑なに拒否していた人物がチョウ社長が亡くなったら急に「インタビューを受けてもいい」と言い出す人間もいた。理由を訊いたら「鄒文懐が死んだから」。
確かに鄒文懐ほど李小龍関連作品に様々な形で関与しながら、それらの真実を遂に明かさず世を去った人物もいない。
例えば当初は『死亡遊戯』の未公開映像を目的として製作され、1度は五重塔内のファイトシーンを李小龍の原案通りに編集までしながら、鄒文懐の鶴の一声で李小龍個人のドキュメンタリーへと大幅に内容が変更されたと言われる『ブルース・リーの神話』(83)。
またこれまた『ブルース・リー死亡遊戯』(78)で使用されなかった『死亡遊戯』の未公開フィルムを使う目的で製作を開始し、実際に監督の呉思遠と未使用フィルム使用OKの契約まで交わしながら、またも鄒文懐の「やっぱりこの『燃えよドラゴン』(73)の5分間の未公開フィルムと『死亡遊戯』香港版に使った唐龍☓王虎の温室の闘いで何とか映画を撮り上げてくれ」とのムチャ振り介入により、呉思遠を「鄒文懐の奴は俺の監督としてのキャリアを台無しにする気か!」と激怒させた『ブルース・リー死亡の塔』(81)。
鄒文懐はこれら李小龍関連作品で作品クオリティの根底を揺るがすような強引な介入と路線変更を度々繰り返す事で、私たちリーさん信者たちを散々翻弄し傷つけ、最後まで何の詳細な説明をする事なく、そのままこの世を去った。
最後に李小龍が丁珮のマンションで急逝した時も、真っ先に現場に駆けつけ、まだ救急隊が到着する前の生々しい“全ての現状”を見ているのもこれまた鄒文懐、ただ1人なのだ。
ある意味ではアジア映画界の功労者であり、ある意味では映画関係者に恐れられ、そしてある意味では数々の混乱を遺した鄒文懐。
邵逸夫と同じく、アジアの映画史における多くの謎の答えをその胸に秘めたまま鬼籍に入った事が改めて惜しまれる人物である。
Bruce Lee and Raymond Chow.