佐倉市の佐倉城 城下町の散策に出かけました。歴史博物館(佐倉城址の一角)に出かけたときに気になっていたところです。
途中で道を間違え、この細い「くらやみ坂」を車で登ることになってしまいました。
駐車場に到着。十数台しか止められませんが、トイレも完備してます。
慶長15年(1610年)、土井利勝が佐倉の領主となり、その翌年から佐倉城の築城が開始され、7年の歳月をかけて完成。同時に城下町も整備され、佐倉城は江戸を守る要衝の一つとなったそうです。
城下町佐倉の面影を残す土塁と生垣の通りに面して、「旧河原家住宅」(千葉県指定文化財)、「旧但馬家住宅」(佐倉市指定文化財)、「旧武居家住宅」の3棟の武家屋敷が現在公開されています。
3棟とも江戸時代後期の建築で、佐倉藩士が暮らしていたものです。
まずは、見学チケットを求め「旧河原家住宅」へ
なんと、「旧河原家住宅」の向かいが、あの日露戦争の英雄「児玉源太郎」の旧邸宅(東京鎮台歩兵第2連隊長兼佐倉営所司令官時代 1880~1885)だったところだそうです。
『坂の上の雲』の児玉源太郎 読売新聞オンライン
旧河原家住宅は、市内に残る武家住宅の中で最も古いものとされ、展示された調度品に佐倉の武士の生活様式を見られます。外からの見学で部屋の中に入ることはできません。
次は、隣の旧但馬家住宅へ。旧但馬家住宅は、当時より現在の場所に建っていた武家屋敷で、建物内の見学ができます。
今の和式住宅と構造、間取りなどがほとんど変わっていないことに驚きます。
武家屋敷の小道を通り抜けると、「ひよどり坂」があります。
江戸時代からほとんど変わらない竹林に囲まれたエリア。緩やかに曲がる坂道に、四ツ目垣、御簾垣、鉄砲垣などが効率的に配されているのだそうです。
最後に、旧武居家住宅(侍の杜)を見学します。
庭のつくりも今と変わりなく(井戸があることを除いては)、裏庭には家庭菜園があります。
次は、車で5分ほど離れた「旧堀田邸」へ向かいます。指定の駐車場から「佐倉厚生園病院(日産厚生会)」の敷地の中をだいぶ歩いたところにあります。
旧堀田邸」は佐倉藩の最後の藩主・堀田正倫が明治時代1890年(明治23年)に造営した屋敷。 国指定重要文化財に指定されている。
さすがに立派で、部屋数がすごい。「つば造り」や「火打ち貫」といった伝統的な和風建築の工法と、ボルトやナットを使用した西洋建築の工法が混在しており、明治期の建築過渡期の様子が窺い知れる建物だそうです。
以前、熱海で訪問した「起雲閣」で用いられていた「大正ガラス」と同じような、ゆがみのあるガラスが独特の雰囲気を醸し出しています。
庭園は当時の有名庭師・珍珠園の伊藤彦右衛門によるものだそうです。結構さっぱりしていて、昔、ちょっと所縁のあった世田谷 成城5丁目猪俣庭園は庭師がやりすぎだったんだな、なんて思いました。
成城五丁目猪股庭園
これは当時のものではないのでしょうが、センスのいい照明が使われています。家の和室にちょっと欲しい。
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時代劇のロケ地として数多く利用されているそうです。ちなみに、後で訪ねる佐倉順天堂の佐藤尚中は、「JIN−仁−」の主人公、南方仁のモデルとも言われているそうです。
年季の入った土蔵も国の重要文化財。
最後は、「佐倉順天堂記念館」を訪ねます。更に車で5分ぐらい成田街道沿いにあります。
駐車場「有」と聞いていたのですが、2台分しかなく空いててよかった。
佐倉順天堂は藩主堀田正睦(ほったまさよし 江戸時代後期の大名・老中首座。下総国佐倉藩5代藩主。正俊系堀田家9代)の招きを受けた蘭医 佐藤泰然が天保14年(1843年)に開いた蘭医学の塾兼診療所。
西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中(たかなか 東京 順天堂医院の初代院長)をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出。安政5年(1858)に建てられた建物の一部が残っている。
日本家屋の中に西洋風の部屋(診察室?)がある。
松本良順自作の木像 松本良順の父は順天堂を営む佐藤泰然。幼名は佐藤順之助。後に幕医の松本良甫の養子となる。明治4年(1871年)に従五位に叙せられた後、順(じゅん)に改名。
こういう人たちは、やっぱりオタクなんですね。あと養子が普通の人生なんですね。
ご当地にありがちなキャラ達 RPGゲーム(スマホゲームを通じて佐倉市への関心を高める地方創生RPG)だそうです。
さて、本日の予定はすべて回ったので、お昼にしました。初めて入った「すぎのや本陣」
ファミレスにしては結構よかったです。
帰りには、「JA千葉みらい 佐倉・四街道営農センター」で野菜を買って帰りました。
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