前から行ってみたかった、成田市台方にある「麻賀多神社」と印旛沼近くの「房総のむら」に行ってきました。
大した渋滞もなく家から1時間ほどで「麻賀多神社」に到着。鬱蒼とした杉の森に囲まれています。
「麻賀多神社」という名の神社は、印旛郡市に台方をはじめ、成田市に1社、佐倉市に11社、酒々井町2社、富里市2社、八千代市1社の計18社もある。
千七百年余前、印旛国造(当時の大和朝廷の地方長官)であった伊都許利命(イツコリノミコト)が、この地に麻賀多神社大神として崇め、以降近隣の麻賀多十八社の本宮としたそうです。
境内左奥には樹齢千三百有余年、東日本一の大杉があり、近寄るだけでビンビンとパワーを感じます。
日月神示の自動書記が最初に始まった場所(神典研究家で画家の岡本天明が、昭和19年(1944年)に本社の境内にある「天之日津久神社」~社殿の奥にあったので気が付かず今回参拝を逃してしまった!!~を参拝し、社務所で一息ついている時に予期しない自動書記現象が起こった)。スピリチュアルな人には外せないパワースポットとなっているそうです。
神社の鳥居の横に義民ロードの看板。 「義民」とは? その意味を求めて「宗吾霊堂(そうごれいどう)」を訪ねます。
立派なお寺です。なんといっても京成電鉄の駅の名が「宗吾参道駅」ですから。
ご本尊の「宗吾様」の足跡をたどる記念館がありました。
宗吾様、佐倉宗吾は本名を木内惣五郎といい、領主堀田正信の為政下の農民たちが年貢取立に困窮し、他国へ逃亡したりする者が後を絶たない惨状を見かねた名主の木内宗吾が、領主に直訴を行ったが、聞き入れられず、近隣の名主たちを伴い、江戸へ上って老中に直訴する。
老中への訴えも受け入れられず、宗吾はついには同行の名主たちとは別れ、死罪を覚悟で、単独で将軍へ直訴することを決意する。
決行に当たって、宗吾は、家族に最後の別れを告げると同時に、係累に罪が及ばないよう、妻女離縁を決め、折から降りしきる雪をおして、佐倉に旅立つ。
印旛招にたどり着くが、吉高にある渡し場は、百姓の直訴以来、暮六つ以降の運行が厳禁され、舟は鎖で厳重に繋がれていた。雪に閉じ込められた、渡し小屋の中で、草鞋作りをしていた、渡し守の甚兵衛は、宗吾の出現に驚くが、話を聞き、鎖を切り、宗吾を対岸に送り届ける。
帰宅した宗吾は妻女に離縁は拒絶されるものの、妻子に別れを告げることができ、再び江戸に上る。この、宗吾が最後に辿った往復の道を義民ロードという。
上野寛永寺の物陰にひそみ、将軍家綱の御成りを待ち受け、ついに直訴を敢行、松平伊豆守の計らいにより訴えは取り上げられることになった。
直訴した宗吾は捕らえられ、妻子とともに公津ヶ原の処刑場で礫刑に処される。時は承応2年8月3日(1653年9月24日)であった。
今の世にまさに欲しい人材ですね。アホの岸田首相をはじめ、なんも考えていない国会議員に天誅を下す義民に現れてほしいものです。
お賽銭と線香を供え、祈っておきました。
さて、義民の意味も分かったので、次の目的地「房総のむら」に向かいます。
「房総のむら」は、房総の伝統的な生活様式や技術を直接体験するとともに、県内各地から出土した考古遺物や、武家・商家・農家などの展示を通して歴史を学ぶことを目的とする体験型博物館。
佐原などの古い町並が再現され、めし屋・そば屋などの飲食店から鍛冶屋など16軒が並んでいます。
それぞれ展示物を見たり体験ができるようになっています。
お腹がすいたので蕎麦屋でお昼にしました。
商家の街並みを抜け、山道を抜けて、古墳群の中に建つ「風土記の丘資料館」を見学しました。
浅間山(センゲンヤマ)古墳の副葬品として出土した金銀の冠飾(7世紀前半)
これってどう見てもユダヤ人の衣装と宝飾品ですよね。
冠飾:金銅製冠飾、銀製冠飾
金銅製冠飾:連珠文(れんじゅもん)と忍冬唐草文(にんどうからくさもん)の透かし彫り文様
銀製冠飾:宝珠文(ほうじゅもん)の立飾と帯金で構成されていたと思われる。
『千葉の行商―小さなからだと大きなカゴと―』が開催されていました。
懐かしい風景です。
HOゲージのジオラマもありました。
帰りがけに竪穴式住居も見学しましたが、蚊に無茶苦茶狙われました。
見どころの多い一日となりました。
夜は中秋の名月を愛でます。
お団子を作ってみっちゃんに供えました。