やむやむやみー

やみーのやむやむな毎日

つながり読書81 「完本 戒老録」 曽野綾子 メモ8

2016-04-21 20:01:00 | ヨムヨム ネタバレチュウイ!!!
☆「どこで死んでも同じである」


旅先で具合が悪くなったり死んだりすることを恐れる必要はない、

という話。旅は、帰宅してホッとする、というところまで醍醐味なのかも

しれない。この家にもう帰らないかもしれない、という覚悟をして

で出る旅は、それこそ若いときには味わえなかったものになるだろう。


☆「夕方には早めに灯をつけること」


必要、不必要に関わらず、ということだ。

ひとり暮らしならなおさらだと思う。

キャンドルの火が落ち着くぅ~なんていうのは若いうちだけか?


☆「遅寝遅起き型に自分を持っていく」


テレビは深夜の映画がおもしろい、と理由があった。

これは試してみる価値ありそうだと思った。

だって若いときはかなわなかったことだし。


☆「『隠遁の生活』風にみえるものを、本来の姿で愛せるのは、

  田舎の出身者だけである」


さあ私はどっちだ?立派な老人になるころ都会暮らしより長くなるはずの

地方生活。自然に近い分、それと闘う姿勢でさえそこで暮らす意味を持つ、という。

雪国で70,80の老人が屋根の雪下ろし中に亡くなったりするニュースを聞くと、

そうしなきゃならないことが分かっててなんでそこに住むのか?と思ったりした。

だけど、たぶんそれは彼らにとっては自然なことで、ケガしたり亡くなったりするのは

残念なことだけど、こちらが「やめときゃいいのに」なんて言うべきことじゃないのね。


☆「老いが不意に来たと思う人は用意が悪いのである」


うわー。私はいろいろ想像して準備するのが好きだから、「用意が悪い」という

言葉は刺さる。まあいろいろ想像しても実際は想定外だらけなんだけど。










つながり読書81 「完本 戒老録」 曽野綾子 メモ7

2016-04-21 19:14:17 | ヨムヨム ネタバレチュウイ!!!

☆「九十まで生きるつもりで、それで使いきるように計算をして

  あとは、私の知ったことではない」


実際89になったとき、本当にこう思えるのか自信がない。

だけど老後を不安にさせる要素して、自分が後何年生きるのか、という

問題がある。

たとえば年金の支給開始年齡を遅らせてでも、90以上生きたらあとは

何も心配しなくていいですよー、というような制度はどうだろう?


☆「すべての文学を理解するという能力は、青年のものではなく、

  老年のものかもしれない」


それは老いる甲斐があるかも。


☆「一方的に、自分の体力や気力を標準にして、自分もこれくらいのことが

  できるのだから、相手にもできそうなものだ、と思い込む人がいる」


年齡に関係なくいる。こういうタイプ。

比較することで満足するのは人間の性かもしれない。

でもそれだけで満足する人生はむなしかろう。


☆「つまり、歩けない人は、その人らしく振る舞うことも、

  生活することもできない、とギリシア人は考えていたのである。」


「歩く」という言葉をギリシャ語的解釈に基づくとこうなるらしい。

現代においては、歩けないことがその人らしさを奪う、ということに

直結するとは思えないが、逆に「歩ける」ということの重大さに

気付きにくい時代になったのかもしれない。


☆「一日一回、脈搏を百二十くらいまで上げる」


これにより体のすみずみまで酸素を送ることができる、という考え方。

80でエベレスト登頂した三浦さんも似たようなことをされていたのを

見たことがある。ちょっと重い荷物を持って脈をみながら時間を決めて歩く。

やり過ぎるとケガにつながり、やらなければ老化につながり・・・