フライパンの加工がはげてくると、当然こげつく。
こげの心配をしながらの料理はツライ。
後片付けは大変。
と、あまりいいことないので買い替えた。
今回初めてセラミック加工されてるフライパンを購入。
さわり心地はツルッツル。
長持ちしておくれ。
こげの心配をしながらの料理はツライ。
後片付けは大変。
と、あまりいいことないので買い替えた。
今回初めてセラミック加工されてるフライパンを購入。
さわり心地はツルッツル。
長持ちしておくれ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/7e/475ee0b02bf0131a512f64c8b05b4590.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/b5/5113acf51edcd0bc6c01f88dd8942873.jpg)
思い出たっぷりな場所に行ってみた。
そこは、電車の音とともに暮らした場所。
ごちゃっとしているのに、のんびりな雰囲気の駅前は相変わらずでうれしい。
あのころ駅から少し歩いたらうちが見えた。
商店街の石畳を、ロンドンに行く日の早朝、スーツケースを押して歩いた。
ワクワクしながら。響く音を気にしながら。
1年半住んだ町に、約12年も経ってこうやって再会するときの感情って
なんだろう?なつかしい、には違いないんだけど、泣きたくなっちゃうような
なつかしさの嵐。
住む、ということで、その町のなにかが体に染み付くのかもしれない。
住んでいるときには気付かなくても。
だから町のことを覚えている私の体のどこかが反応する。
ただの記憶とは違うなにか。
そんなものがあると言われたら私は信じてしまうなあ。
作家としても、医者としても北杜夫と交流のあった、なだいなだ。
この本のための原稿は先生の死去により未完であり、つまり
これはなだいなだ先生が最後に出された本である。
題名からして自分とは縁遠そうなイメージを受けたものの、
編集部の方からのメッセージを読んで心が変わった。
「アルコール依存者の治療過程でたどり着いた哲学が、日常の思考判断の
基準にも応用できるのではないか」
この先生の思いがあって出版に至った、というものだった。
83歳のおじいちゃま(失礼)の精神科医の先生がそう言われているのを
読んで、私は迷わずこの本を選んだ。
☆本の中で再三出てくる「有用か否か」という言葉。
つまり実際役に立つかどうか。
☆「常識とは人間が一八歳までに作り上げた、偏見のコレクションである」という
アインシュタインの言葉。
「偏見」という言葉に対する抵抗は強い。そこで先生は「常識は変化する」という
考えを元に、新しい常識、古い常識という言葉の有用性を実感される。
☆「ぼくは、自分自身が、先のことを考えず、今日一日をとりあえず、なんとかしながら
生きようと思いました。今日やるべきことをやっていく。今日やることのできること、
やることの許されていることをやろう。ぼくは、それをとりあえず主義と名付けました。」
そして「とりあえず一日を生きるという哲学」も立派な哲学であるという先生の意見に
大きく頷いた。吸った息を吐く、ということさえその一部であると思える。
ただ今日できることの範囲は恐ろしく広く、質も違うはず。人によっても違う。
違うからこそ、この人がとりあえず一日生きてくためには何が必要なんだろうか?と
思いを馳せることが大事なんだろう。
☆「ぼくは治癒とか、治療とかの言葉よりも、かれらの場合にもっとも適している表現は、
『挑戦』だと思いました。」
私はケガをしたことで、患者側としてこの言葉を身を持って実感したことがある。
私は治してほしい、という気持ち満々で通院していた。
でも100%の治癒がないことが分かったとき、ゴールは自分で決め、筋トレは自分で
やるもんだ、という現実に立たされた。
だけど、その筋トレと療法に付き合ってくれた先生は、最初からそのつもりで私を叱咤激励
してくれた。100%の治癒だけが、患者本人の幸せじゃないのだ。
ダイエットだってそうだ。決意するとき、どんぐらい続くかなあ、なんて思ってはいけない
雰囲気がある。これこそ古い常識、偏見なのかもしれない。
この本のための原稿は先生の死去により未完であり、つまり
これはなだいなだ先生が最後に出された本である。
題名からして自分とは縁遠そうなイメージを受けたものの、
編集部の方からのメッセージを読んで心が変わった。
「アルコール依存者の治療過程でたどり着いた哲学が、日常の思考判断の
基準にも応用できるのではないか」
この先生の思いがあって出版に至った、というものだった。
83歳のおじいちゃま(失礼)の精神科医の先生がそう言われているのを
読んで、私は迷わずこの本を選んだ。
☆本の中で再三出てくる「有用か否か」という言葉。
つまり実際役に立つかどうか。
☆「常識とは人間が一八歳までに作り上げた、偏見のコレクションである」という
アインシュタインの言葉。
「偏見」という言葉に対する抵抗は強い。そこで先生は「常識は変化する」という
考えを元に、新しい常識、古い常識という言葉の有用性を実感される。
☆「ぼくは、自分自身が、先のことを考えず、今日一日をとりあえず、なんとかしながら
生きようと思いました。今日やるべきことをやっていく。今日やることのできること、
やることの許されていることをやろう。ぼくは、それをとりあえず主義と名付けました。」
そして「とりあえず一日を生きるという哲学」も立派な哲学であるという先生の意見に
大きく頷いた。吸った息を吐く、ということさえその一部であると思える。
ただ今日できることの範囲は恐ろしく広く、質も違うはず。人によっても違う。
違うからこそ、この人がとりあえず一日生きてくためには何が必要なんだろうか?と
思いを馳せることが大事なんだろう。
☆「ぼくは治癒とか、治療とかの言葉よりも、かれらの場合にもっとも適している表現は、
『挑戦』だと思いました。」
私はケガをしたことで、患者側としてこの言葉を身を持って実感したことがある。
私は治してほしい、という気持ち満々で通院していた。
でも100%の治癒がないことが分かったとき、ゴールは自分で決め、筋トレは自分で
やるもんだ、という現実に立たされた。
だけど、その筋トレと療法に付き合ってくれた先生は、最初からそのつもりで私を叱咤激励
してくれた。100%の治癒だけが、患者本人の幸せじゃないのだ。
ダイエットだってそうだ。決意するとき、どんぐらい続くかなあ、なんて思ってはいけない
雰囲気がある。これこそ古い常識、偏見なのかもしれない。
毎年欠かさず出してます(^_^)
が、私の身長より高いこのツリー、なかなか出し入れが大変。
大変といえば・・・この年末年始という季節。
クリスマスの用意、大掃除、年賀状、年始挨拶。。。一つ一つは
なんてことないんでしょうけど、やらねば、と思うとなかなか体も心も
重くなる。
そんな中、9年ほど働いてくれた食洗機が「もうダメ」宣言。
あああ(T_T)
でも17年弱主婦やって、ふと思ったわけです。
このワクワクしなくなった年末年始、どう過ごすか?
ズバリ「目に見えない何かに期待する!」
サンタさん、とか年神様とか、をお迎えすると思いつつ準備する。
そしてお迎えすることで、この新しい1年のどこかできっとご褒美を
もらえる、と考える。ご褒美は、目覚ましをかけ忘れたのに寝坊しなかった、
とか遊びに出かけるとき体調が良かったとか、一番キレイな時期の桜が見れたとか、
そんなことでいい。
さあ、来年はどんな自分がツリーを出すのやら?
が、私の身長より高いこのツリー、なかなか出し入れが大変。
大変といえば・・・この年末年始という季節。
クリスマスの用意、大掃除、年賀状、年始挨拶。。。一つ一つは
なんてことないんでしょうけど、やらねば、と思うとなかなか体も心も
重くなる。
そんな中、9年ほど働いてくれた食洗機が「もうダメ」宣言。
あああ(T_T)
でも17年弱主婦やって、ふと思ったわけです。
このワクワクしなくなった年末年始、どう過ごすか?
ズバリ「目に見えない何かに期待する!」
サンタさん、とか年神様とか、をお迎えすると思いつつ準備する。
そしてお迎えすることで、この新しい1年のどこかできっとご褒美を
もらえる、と考える。ご褒美は、目覚ましをかけ忘れたのに寝坊しなかった、
とか遊びに出かけるとき体調が良かったとか、一番キレイな時期の桜が見れたとか、
そんなことでいい。
さあ、来年はどんな自分がツリーを出すのやら?