古文書に親しむ

古文書の初歩の学習

第九章 将軍家茂公の串本上陸・その四十三

2012年01月26日 09時50分06秒 | 古文書の初歩

現在勉強している古文書は、文字が難しいので、「古文書の初歩」という建前から外れています。文書はまだ続くのですが、昨日で一応終了とします。引き続き、もう少し読みやすい古文書を続けて行きたいと思いますが、ここで一休みして「家茂の串本上陸」と題して読み物を掲載します。二回の予定です。

串本は、行政上、和歌山県東牟婁郡串本町で、本州最南端の町です。昭和30年に近隣五か村を吸収合併し、その後本稿関係の東牟婁郡大島村と合併し、平成の時代に東牟婁郡古座町と合併しました。ここで名前の出る大嶋は、串本町串本の対岸で、天然の防波堤の役目をしています。民謡の「串本節」の一節に「ここは串本、向かいは大島・仲を取りもつ巡航船」と言う文句がありますが、現在は「くしもと大橋」で陸続きになっています。将軍の御座船が大嶋側に停泊したのは、水深の関係だと思われます。

将軍家茂の串本上陸  Ⅰ

第十四代将軍徳川家茂は、都合三回上洛(天皇の居る京都へ行く事)するのですが、最初の上洛は陸路を駕籠で行きました。家茂は紀州徳川家に生まれ、十三代将軍家定に子がなかった為、十四代将軍に就任します。就任時は、まだ十三才の若さでした。時代は尊皇攘夷・開港佐幕など世論も騒然として、徳川幕府の権威も徐々に落ちて来ていた時代で、家茂は京都に呼びつけられたのだと言う説もあるくらいです。

第二回目の上洛は、文久三年十二月の末で、この時は軍艦に乗って海路で行き、途中串本で一泊しています。今回学んだ古文書はその時の記録になります。文久四年正月五日(1864年)、御座船は串本と大嶋の間の海峡に停泊し、将軍は先ず近くの大嶋に上陸し、蓮生寺という寺に入り休息します。小憩の後、島の庄屋の新造の小舟で対岸の串本に渡ります。

串本では、禅宗の無量寺という寺に入りそこで一泊され、翌六日ご機嫌良く大坂へ向かわれました。今回勉強した古文書では、その表紙に「文久四年(元治元年に改元)正月 御上洛一条に付き 若山御役人衆賄手形控 古座組 大庄屋役所」とあり、文章の内容は、「恐れながら口上書付 公方様このたび 御軍艦にて 御上洛の節、当正月五日大嶋串本の間へ御停泊遊ばされ候に付き、私手船のうち新造一艘お迎え、御座船に兼ねて用意仕り置き候ところ、当浦(注大嶋浦)へ御上陸、蓮生寺へ成させられ、御小休遊ばされ候うえ、右私手船へ召され、串本浦へ御渡海、無量寺へ御一泊遊ばされ、翌六日御軍艦に召され、御機嫌克く御出艦遊ばされ候御儀、誠に冥加至極、有り難き仕合わせに存じ奉り候。・・・」(以下省略)

古文書は更に、同年五月にも江戸へ帰る将軍が立ち寄った内容のものもありますが、この時は上陸したかどうかには触れていません。この時には、接待の一つとして、囲い魚と言って、若い将軍に喜んで貰おうと、御停泊の場所で網を引いて、魚を捕るのに、もし魚が入らなかったら困るので、あらかじめ生け捕っておいた活魚を網に囲って置いて、沢山捕れたように芝居をした、今で言うヤラセのような事をしてもてなしたなどの話も書いています。「つづく」