勿忘草 ( わすれなぐさ )

「一生感動一生青春」相田みつをさんのことばを生きる証として・・・

旱天の慈雨

2007-08-29 01:31:11 | Weblog
 まとまった雨も降らず、猛暑が続く毎日に少し辟易していたが、夜になって激しい雷雨。これを旱天(かんてん)の慈雨というのだろうか。期待した皆既月食を見ることはできなかったが、開け放した窓からは、涼しい風が吹きこんでくる。

「なにも期待しないという覚悟で生きる」

 私たちは「泣きながら」この世に生れてきた。私たちは死ぬときは、ただ独りで逝く。恋人や、家族や、親友がいたとしても一緒に死ぬわけではない。人はささえあって生きるものだが、最後は結局ひとりで死ぬのだ。

 どんなに愛と善意に包まれて看とられようとも、死とは自己の責任で向きあわなければならないのである。

 だから親は子に期待してはいけない。子も親に期待すべきではない。人を愛しても、それはお返しを期待することではない。愛も、思いやりも、ボランティアも、一方的にこちらの勝手でやることではないか。そう覚悟したときに何かが生れる。

 何も期待していいないときこそ、思いがけず他人から注がれる優しさや、小さな思いやりが≪旱天の慈雨≫として感じられるのだ。そこにおのずとわきあがってくる感情こそ、本当の感謝というものだろう。親切に慣れてしまえば感謝の気持ちも自然と消えていく。だから慣れないことが大切だ。いつもなにも期待しない最初の地点に立ちもどりつつ生きるしかない。

 だから夫は妻に期待すべきではない。妻も夫に期待すべきではない。愛情も家庭も、「老・病・死」するものである。自然に持続することを無意識に期待するのは、間違っている。

-五木寛之著・「大河の一滴」から-
 
 親の愛は無償という。人は人を愛したとき、愛の見返りを望む。それはその人を愛したのではなく、その人を愛した自分を愛しているだけ。本当の愛は愛する人の幸せを望むこと。そう覚悟したときに何かが生れる。五木寛之さんが大河の一滴の中でいう、無償の愛をこう理解する。

 大辞林によると「旱天」とは、日照り、夏の空をいい、「旱天の慈雨」は、日照りの時のめぐみの雨という意味で、待望していたことの実現、苦しいときの救い、とある。

 何かが生れたとき、そこに旱天の慈雨をもたらし、心が安らぐ。妻に夫に何かを期待するのは間違いだという。

 今宵の雨は、そんな崇高な愛に出会えるような涼やかな風を運んできた。あなたは愛する人に何を期待しますか?本当の愛に出会ったならば「無償の愛」を捧げてみませんか?