七ヶ浜は避暑地であり、菖蒲田浜という海水浴場もある。
Cさんは、3月の初めに七ヶ浜に引っ越したばかりだった。
念願の新居が完成したのだ。
近くの保育園に6歳の長女と、3歳の次女を預けて、卸町に仕事に来ていた。
地震に驚き、子供を迎えに行こうと45号線を急いだ。
対向車線には車が溢れ、誰もが西を目指していた。
東に向かっているのは自分一人だった。
ラジオは津波の襲来を告げている。
みんな海から逃げてきているのだと分かって、恐ろしかった。
前方から津波が押し寄せてくる幻影が見えた。
(実際、押し寄せてきていた。)
多賀城で警察官に東行きを止められ、心を残して引き返した。
その日は仙台の実家に泊ったが、子供らのことが心配で一睡もしなかった。
翌日保育園に行ってみると、子供たちが走って抱きついてきた。
保育士さんが園児らを高台に避難させてくれて、全員無事だったのだ。
あの時、無理して保育園に向かっていたら、津波と正面衝突したところだった。
新居は小高い場所にあったのが幸いし、あと5mのところで水は止まった。
福島県X町は原発から35㎞という微妙な距離にある。
ここに住むY君はかかりつけの医院で、「先生、こごらへんは放射能だいじょぶなのがい?」と聞いた。
主治医は、「この辺は全然問題ねえ。危ないど思ったら俺が一番に逃げっから、俺がいる間は安心してろ」、と笑っていた。
ところが先週、薬をもらいに行ったら、医院は閉まっており、「当分休診します」と張り紙があったそうだ。
東名浜のD先輩は、家族とともに帰らぬ人となった。
釣りが好きで、仙台から東名浜に引っ越し、海の見える場所に仕事場を兼ねた家を建てた。
朝は砂浜で犬を放す。
夜はウッドデッキで潮風に吹かれ、ワインを開ける。
休みの日はもちろん釣りだ。
そのうち船を買うぞ、遊びに来い、と笑っていた。
理想のリゾート生活に思えた。
東名浜は家族で潮干狩りに行ったことがある。
あの穏やかな海面が10mも盛り上がり、牙を剥いて襲いかかったとはとても信じられない。
D先輩のお姉さんは塩釜で被災した。
地震の4日後、避難所でインタビューされているところがテレビに映った。
家の1階部分が浸水したが、たいしたことない、と気丈に話していた。
D先輩が亡なくなったことを、その時知っておられたのだろうか。
(続く)