林子平は蒲生君平・高山彦九郎とともに、寛政三奇人と言われた。
著書に「海国兵談」がある。
林子平は、宝暦6年(1756)、兄が仙台藩に召し抱えられたのに従って仙台に移り、藩に殖産興業の必要性や学制についての上書をしばしば提出した。
その後、江戸や長崎の遊学して、仙台藩医丈庵の養子工藤平助と親交を結んだ。
さらに、オランダ商館長から海外事情を聞き及んで国防の必要性を痛感し、地理学・兵学の研究に没頭した。
林子平は、「海国兵談」で大胆に幕府の国防策を批判したが、それが幕府の忌諱に触れ、翌年すべて没収の上蟄居幽囚を申し渡された。
夜は万城目正にちなんでのど自慢大会が開かれます。
準備は万端。
林子平の墓。
仙台で林子平を慕う人は多い。
林子平は、「親もなし妻なし子なし板木なし 金もなければ死にたくもなし」と狂歌を詠み、自ら六無斎と称した。
林子平が作った日時計。
六無斎にちなんだ六角堂。
六角堂の前には伊藤博文、大規文彦寄贈の顕彰碑が建ち、林子平の偉業を顕彰している。
六角堂の中には林子平の座像が安置されている。
辞世歌 「救うべき力の甲斐も長年の恵みにもれて死ぬぞ惜しき」
寛政5(1793)年、56歳で世を去った。
墓の建立が許されたのは、約50年後の天保12(1841)年である。
龍雲院の近くには子平堂という和菓子屋があり、子平まんじゅうを販売している。
このお祭りでも出店を出していたが、すでに売り切れていた。
以前、子平神社についてのテレビ番組が放送されました↓
http://cat-vnet.tv/movie/senbura/20080530.html
(続く)