射的
当たっても的は落ちないように出来ている。
「飯塚のお祭り」
私が中学一年生の時の話です。5月か6月のことでした。
荒井君という飯塚(山形市西部)の級友に誘われて、親友のT君と自転車で上飯塚の稲荷神社のお祭りに行きました。
荒井君の家ではちゃんと二人分のお膳を用意してくれて、赤飯とかお汁粉とかをご馳走になりました。
ご馳走を食べ、お祭りに行った後、稲荷神社からさらに西に行ってみることになりました。モミの木米菓の工場が見えて来たら、そこは下飯塚です。さらに行くと須川に架かる飯塚橋があって、荒井君が、これを越えるど村木沢だ、と言いました。村木沢とは中学生にとって「地の果て」というイメージがありました。
山には夕陽が沈みそうになっていました。あたりはまっ暗くなりつつあり、私とT君は家まで帰れるか不安になってきました。
その頃の飯塚あたりはまだすごい田舎で、神社のお祭りには住民総出で御神輿をかついで、知り合いを沢山呼んでご馳走する風習が残っていました。
そして「お祭りに招待されたら、自分の家のお祭りの時に招待し返す」というしきたりがあったらしいのでした。
ところが私とT君の住んでいたすずらん街あたりには(もはや都会だったので)そういう風習はなくなっていました。
すずらん街の住人は豊列神社の氏子なので、荒井君はその秋、当然私かT君に招待されるだろう思っていたらしいのです。
私どT君はそんなことに気がつかなくて、二人で豊列神社のお祭りに行き、翌日「打毬面白かったね」と荒井君の前でしゃべっていました。
荒井君はだんだん私たちと疎遠になって行くのでしたが、私たちはその理由に気がつきませんでした。
次の年も、その次の年も、私たちは飯塚のお祭りに誘われることはありませんでした。
10月6日は豊列神社のお祭りです。このお祭りが近づくと、私は荒井君のことを想い出すのです。
(打毬の解説はNo.962をご覧下さい。)
当たっても的は落ちないように出来ている。
「飯塚のお祭り」
私が中学一年生の時の話です。5月か6月のことでした。
荒井君という飯塚(山形市西部)の級友に誘われて、親友のT君と自転車で上飯塚の稲荷神社のお祭りに行きました。
荒井君の家ではちゃんと二人分のお膳を用意してくれて、赤飯とかお汁粉とかをご馳走になりました。
ご馳走を食べ、お祭りに行った後、稲荷神社からさらに西に行ってみることになりました。モミの木米菓の工場が見えて来たら、そこは下飯塚です。さらに行くと須川に架かる飯塚橋があって、荒井君が、これを越えるど村木沢だ、と言いました。村木沢とは中学生にとって「地の果て」というイメージがありました。
山には夕陽が沈みそうになっていました。あたりはまっ暗くなりつつあり、私とT君は家まで帰れるか不安になってきました。
その頃の飯塚あたりはまだすごい田舎で、神社のお祭りには住民総出で御神輿をかついで、知り合いを沢山呼んでご馳走する風習が残っていました。
そして「お祭りに招待されたら、自分の家のお祭りの時に招待し返す」というしきたりがあったらしいのでした。
ところが私とT君の住んでいたすずらん街あたりには(もはや都会だったので)そういう風習はなくなっていました。
すずらん街の住人は豊列神社の氏子なので、荒井君はその秋、当然私かT君に招待されるだろう思っていたらしいのです。
私どT君はそんなことに気がつかなくて、二人で豊列神社のお祭りに行き、翌日「打毬面白かったね」と荒井君の前でしゃべっていました。
荒井君はだんだん私たちと疎遠になって行くのでしたが、私たちはその理由に気がつきませんでした。
次の年も、その次の年も、私たちは飯塚のお祭りに誘われることはありませんでした。
10月6日は豊列神社のお祭りです。このお祭りが近づくと、私は荒井君のことを想い出すのです。
(打毬の解説はNo.962をご覧下さい。)