専称寺。
最上義光の娘、駒姫の菩提寺。わが家のお寺の隣の隣。
天正19年(1591)奥州太閤仕置の帰路、のちの関白、豊臣秀次は山形に立ち寄った際に、歓迎の宴の席で義光に「是非、駒姫を侍妾に」と所望する。
義光は承知しなかったが、時の権力者である秀次に何度も催促され、断りきれずにやむなく駒姫を京都に連れて上った。
しかし文禄4年(1595)7月15日、秀次は謀叛の疑いをかけられ、秀吉の命で高野山に送られ、切腹させられてしまう。一説には、秀吉に後継ぎの秀頼が生まれ、秀次が邪魔になったともいわれている。
そのあおりを受け、同年8月2日には、秀次の子弟や妻妾ら30数人が京都の町中を引き回され、三条河原で処刑された。その中に上洛して日の浅い駒姫の姿もあった。
義光は、家康にも頼み、秀吉に駒姫の助命を願い入れたが、聞き入れられず駒姫は処刑されてしまった。
以下は京都三条瑞泉寺に残る駒姫の辞世の歌である
「罪をきる弥陀の剣もかかる身のなにか五つのさわりあるべき」
(何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、いっしょに消えていくのですから。)
のちの関ヶ原合戦で、義光が西軍につかなかったのは、この事件が関係している。
駒姫は15歳とも、19歳ともいわれる若さで生涯を閉じた悲劇の女性であった。
義光は専称寺を駒姫の菩提寺と定め、弔った。専称寺には駒姫の居間だったといわれる山形城内の建物が移され、現在も面影が残っている。
NHKの大河ドラマ「独眼流政宗」では原田芳夫が義光を憎々しく演じた。政宗の伯父なのに度々政宗の背後を突き、すっかり悪役に描かれてしまった義光だが、山形の人は決してそういうイメージを持っていない。
最上義光の娘、駒姫の菩提寺。わが家のお寺の隣の隣。
天正19年(1591)奥州太閤仕置の帰路、のちの関白、豊臣秀次は山形に立ち寄った際に、歓迎の宴の席で義光に「是非、駒姫を侍妾に」と所望する。
義光は承知しなかったが、時の権力者である秀次に何度も催促され、断りきれずにやむなく駒姫を京都に連れて上った。
しかし文禄4年(1595)7月15日、秀次は謀叛の疑いをかけられ、秀吉の命で高野山に送られ、切腹させられてしまう。一説には、秀吉に後継ぎの秀頼が生まれ、秀次が邪魔になったともいわれている。
そのあおりを受け、同年8月2日には、秀次の子弟や妻妾ら30数人が京都の町中を引き回され、三条河原で処刑された。その中に上洛して日の浅い駒姫の姿もあった。
義光は、家康にも頼み、秀吉に駒姫の助命を願い入れたが、聞き入れられず駒姫は処刑されてしまった。
以下は京都三条瑞泉寺に残る駒姫の辞世の歌である
「罪をきる弥陀の剣もかかる身のなにか五つのさわりあるべき」
(何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、いっしょに消えていくのですから。)
のちの関ヶ原合戦で、義光が西軍につかなかったのは、この事件が関係している。
駒姫は15歳とも、19歳ともいわれる若さで生涯を閉じた悲劇の女性であった。
義光は専称寺を駒姫の菩提寺と定め、弔った。専称寺には駒姫の居間だったといわれる山形城内の建物が移され、現在も面影が残っている。
NHKの大河ドラマ「独眼流政宗」では原田芳夫が義光を憎々しく演じた。政宗の伯父なのに度々政宗の背後を突き、すっかり悪役に描かれてしまった義光だが、山形の人は決してそういうイメージを持っていない。