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“リフレはヤバい”を読んで、生まれた様々な感慨

先週末、マーケットは黒田相場で乱調模様に陥った。これについて、いわゆるアベノミクスで ムードが転換して、年初来株価は上昇して来たが、それが現実にする日銀の超金融緩和政策に対する期待に基づく強気と、懸念と不安に基づく弱気が 交錯した結果だと解説されている。これは、アベノミクスに対する斯界を2分する見解の対立を反映しているものと思われる。
その危うさについて、3週間ほど前、田原総一朗氏のインタビュー番組で元民主党政権の官房長官だった仙石由人氏が指摘していたが、そこで例に挙げた本が小幡績氏の“リフレはヤバい”であった。私も 危うさを感じている方だったので、読んでみたのだった。
リフレは、アベノミクスのコア政策であり、リフレーションreflationの略である。Wikipediaには“不況下における設備の遊休あるいは失業(遊休資本)を克服するため、マクロ経済政策(主として金融緩和政策、時に財政政策も併用)を通じて有効需要を創出することで景気の回復をはかり、他方ではデフレから脱却しつつ高いインフレーションの発生を防止しようとする政策” であり、“緩やかで安定的なインフレ、すなわち年率換算にて数%程度のインフレ率にとどめようとする政策である。日本語では「通貨再膨張」とも訳される。” とある。

90年代より、日本では景気浮揚のために財政赤字を繰り返し、とうとう世界最大の債務残高を積み上げてしまっている。このように財政が機能しない一方、日銀も金融緩和のゼロ金利政策、量的緩和を継続しているが、一向に景気は回復して来ていない。
こうした状況下で、政権側の焦燥感が、日銀への八つ当たりのように さらなる金融緩和と言うか流通するマネーを増加させるよう強硬に主張し、圧力をかけ始めた。この傾向は 民主党政権下にあっても見られたことだったが、安倍新政権に到って、さらにあからさまになり、日銀法の改正まで口にするようになった。これに至って日銀の独立性を維持したい白川氏は辞任し、替わってリフレ派のエコノミストと学者によって日銀執行部は固められた。そして、“流通するマネーを増加”させるために現黒田総裁は 繰り返し“出来ることは何でもする”と言っている。ついには“次元の異なる金融緩和”を口にした。合法の範囲内で従来は禁じ手とされていたような手段も実施するということだ。
経済政策というものは、過激であればあるほど その時は上手く行ったように見えても、いずれ必ず しっぺ返しのように、極端に厳しい経済状態が引き起こされるのが、歴史の常であった。そういう予感が、斯界を2分する対立となって現れているのである。

さて、ここで取上げた“リフレはヤバい”では、その“しっぺ返し”を国債の暴落という形になって現れると指摘している。これまで日本の国債は、その暴落を狙って数々の欧米のファンドが“売り”を仕掛けて来たが、ジョージ・ソロス氏がイングランド銀行と争った時のようには成功せず、失敗は累々たるものとなって来たという。何故ならば、既にジャブジャブの日銀の金融緩和政策によって 日本国債には必ず買手が現れたからだという。特に、郵貯や公的年金の存在は大きかったはずだと小幡氏は指摘している。
では、今回のアベノミクスでは、どういうルートで国債暴落があると小幡氏は言っているのかというと、それは円安だと言うのだ。円安そのものが 日本国債の価値を失わせ、それが“売り”の要因となる。それも 円安は一部の人のみへの影響ではないので、日本国債に関わる全ての人々が“売り”に回ることになると言う。“こうして、全員が国債売り、米国債買いへと動きます。”と言っている。こうなると、円売り、ドル買いが加速し、さらなる円安となり、“円と日本国債の暴落スパイラルが始まる”という指摘である。
国債が暴落すると それをしこたま仕込んでいる日本の金融機関では、保有資産価値の暴落を見、それは直ちに金融恐慌への道へつながる。そうなると、昨年欧州で見られた現象が 日本でも起きることとなる。“こうして、円安をきっかけに、日本は、金融危機から銀行危機となり、そして経済危機へと陥る”ということだ。これが、この本の主張のコアである。

私が見ていた限りでのマーケットは、円高がどこまで続くかを不安に思い始めていたファンドマネージャーが、昨秋日本の貿易赤字を見、それが経常赤字にまで及びそうだとの観測があったりした段階で、円売が始まり、その円安が輸出企業の復活期待となり株価が上昇を始めたのであって、安倍氏の発言がきっかけで上昇したのではなかった。安倍氏の発言と株価が上昇のタイミングがタマタマ一致していただけだった。それだけでアベノミクスと持て囃されて支持率が向上し、二度目の首相に返り咲いた。安倍氏は運が 良い人なのだろうか。

だが そもそも、その円安は 本来“国益”なのだろうか。円安は 円取引において、売手が多いときに生じる。つまり、円を信頼しない人が多いときに生じる現象である。要するに 円安は世界中が日本を信頼せず、円の価値が低いと評価した結果であり、それが“国益”であるというのは、いささか不健全な経済構造と思わざるを得ない。
この本でも指摘しているのだが、円高では実は これまでの世界的な食糧価格やエネルギー価格の高騰から日本は免れていたという事情がある。そういう指摘は、日本のマスコミは声高にはしてこなかった。むしろ、“円高不況”という奇妙とも思える言葉を喧伝して来た。それは、日本の経済界を輸出産業が牛耳っているからなのだろう。日産自動車は日本での生産力を削減し世界企業になったのだが、それを主導したゴーン氏ですら円高は辛いなどと言って見せている。
むしろ、経済人、企業人ならば泣き言ばかり言うのではなく、円高を奇貨として、その立場を利用して儲けに走るたくましさがあって然るべきではないかと思う。たとえば、孫正義氏のように 多大の借入をしてまで外国企業の買収に回ることが もっとあっても良かったのではないかと思うのだ。いざなぎ景気でため込んだ内部留保を使って、GEやシーメンス、ベンツを買収するという元気の良い経営者は居なかったのだろうか。逆にそういう“暴挙”が見られれば、欧米政府の円安協調介入もあっただろう。日本の弱電メーカーが 惨憺たる状態にあるが、それは それは揃いも揃って企業戦略を間違ったために不況に陥ったのであって、それを全面的に円高のせいにするのは 卑怯である。
先日、パナソニックの入社式で ある新入社員がインタビューされていたが、その新入社員は ニコニコと“コスト・ダウンに頑張りたい”と言っていた。一方 経営者は “今後は自動車部品のようなB to Bビジネスに進出したい。”と言っていたという。関西経済を牽引するべき大企業が 自動車の下請けに甘んじると喜々として語っているのだ。何と上から下まで夢の無い会社だろうか。マネシタ電器の連綿として続いたDNAが強固に健在なのだろう。それで将来はあるのか。
日本の経済人に かつてのような進取の気性を持った人が稀有の存在になってしまっているのではないか。90年代不況以降、財務の専門家がトップに座るようになったためかも知れない。それが日本経済をダメにしている非常に大きな原因ではないか。

アベノミクスでは“「インフレを予想する人々」の行動に期待”することがきっかけとなっている。それは、この度日銀副総裁に就任した岩田規久夫氏の昭和恐慌研究の結論だったそうだ。それについては先月末のこの本の著者・小幡氏も出席していた“朝まで生テレビ”でも論争された。“予想されることに期待”するという人々の心理に頼るというのはいかにも危うい政策との印象であるが、それがマーケットに左右される資本主義経済の根幹だから仕方がない。
そして、その“朝生”では、結局のところ 前述の経済人の姿勢や、一向に進まない様々な“改革”が焦点であるとの論に進んだ。それはアベノミクスの第三の矢に関わる部分だが、既に 官僚によってそれが阻止されつつあるとの話題提供があった。安倍政権は 今後そうした動きや既得権を粉砕することができるのであろうか。それが できなければアベノミクスは完遂できず、失敗に帰することとなる。

このような、斯界を2分する論争の中で、冷静に外から見つめるエコノミストが居る。それは水野和夫氏である。彼は、文明史論的な視点で、現状を捕らえている。私は 未だ水野氏の論を詳しくは知らない。だが、時々出演されるテレビ等での発言を聞いていると、現代の先進国資本主義下での成長は息詰まっており、最早景気を良くすることは従来発想では不可能であり、あらゆる手段を尽くして景気浮揚を策しても 不健全なバブルにしかならず、その崩壊時に手痛い被害を被るだけだと言っているもののようだ。また、そのバブルは大きければその分崩壊による被害は 巨大化する。
なので、今回の政策の帰結が 日本経済に決定的な打撃となる恐れも十分に考えられるのだ。或いは 強烈なインフレによってしか、国家財政の赤字は解消できなところまで追い込まれているのも事実だ。財務官僚は そのOBも含めてそれを狙っているものとも勘ぐれる。また そうした徹底的な破壊の中からしか、本来の成長の芽は 生まれて来ないということなのかも 知れない。

議論が錯綜する場合、足下の論理を精密に組上げた論より、そこから引いた広い視野での歴史的議論が正鵠を射ることがある。水野氏の議論は、先進国資本主義は、従来は途上国からの資源を安く仕入れ、それを近代社会の製品に加工・生産して効率よく利益を上げるという経済モデルであった。ところが、近年途上国も近代化し力が強くなり、安価な資源を得ることが困難になり高い利益を得られなくなって成長が止まっている、という論だ。マルクス風に 端的に表現すれば“先進工業国が 途上国から搾取できなくなった”ということだと理解できる。
地球人口が 定員過剰になる中、相対的にも絶対的にも天然資源は枯渇傾向にあるので、この指摘は重大だ。つまり、ある意味で 世界中が平準化される中 資源から遠い地点にあり、都市化した中で活動する先進国企業は 利益を上げるのが困難になっていると理解できる。
ここで、ドラッカーの予言的な言葉“NPOは究極の企業の姿である”も、急激に現実味を帯びてくるような気がする。
また こうなると、先進国の人口減少の中での繁栄を考察する経済学の誕生も 必要ではないかと思うのだが・・・・・。

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