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半藤一利・著“ノモンハンの夏”を読んで

“強い警戒感を持って、事態を注視しています・・・!”が常套句だが、そのわりには何も有効な手立てを打たない御大臣様。緊急事態宣言発令で、先週末、緊急事態だった、という。題して“政府案一変 緊急事態”。
週末開催された新型コロナ・ウィルス感染の専門家による“基本的対処方針分科会”で、政権当初案では“(何も考えてヘンのに)考えたフリした結果”、岡山、広島両県は緊急事態宣言に準じるまん延防止等重点措置で、北海道はいまの重点措置から変更しない方針だった。しかしフタを開けて見た分科会では、ほぼ全メンバーの強い意見に驚いて、慌ててその分科会を一時退席して、上司の首相にお伺いを立て直したという。こうして北海道、岡山、広島の3道県を緊急事態宣言の適用地域に加えざるを得なくなった由。
この御大臣様はホンマニ!強い警戒感を持って、注視してンの?ホンマニ真剣に仕事シトンか?N高T大出のアホアホ御大臣様!シッカリセンカ!!
こんなアホアホのアタフタで、オリンピック、どうするの?札幌でオリンピック事前のマラソン大会をこの5月5日にムリヤリ開催し、組織委会長の“マラソン大会は成功した!”という身勝手な評価だった。だが、今や札幌が中心となって北海道に緊急事態宣言を発令の由。こんなンで、ホンマニ、オリパラ開催やれるの?感染経路が分かっていて、それが原因でないのならば、そう言って欲しい。それも分からずにやるというのは無謀のアホアホ!
日本は感染が“さざ波”程度で何故か医療崩壊しているが、絶対にそうは言わずに政権に忖度するマスコミ!これが先進国の医療体制なのだろうか?そんな中で、オリパラ開催すれば、医療だけではなく社会全体が崩壊するのではないか?オリパラ終わった後に、世界の各地からのとんでもない新型変異株の蔓延とならないのか?
オリパラ医療体制、“スポーツドクター200人程度募集に約280人の応募があった”と一安心?だが、その内容は整形外科医と歯科医師だという。肝腎なのは内科医ではないのか?整形外科医と歯科医がそんなに必要だったのか。それとも、数合わせで良いのか?いかに日本の医療が新型コロナ・ウィルス禍で医師達が総動員態勢になっていないかが分かる話ではないか。
結果として、着々と感染が都市部から全国へ蔓延し始めた。現下、都市部の実効再生産数の実数は低いとはいえ、傾向としては増加傾向にある。これは非常に不気味ではないか。インド株の増殖が懸念されるのではないか。だが、何故か客観データはない。
やっぱり日本のアホアホ政治家は何も考えずに、♪流されて、流されて~のクラゲなンやナァ。

名古屋出入国在留管理局に収容されていたスリランカ人女性(33才)が3月6日に死亡していた、という。
日本を良い国だと信じて、頼ってくる外国人に酷い仕打ちをしていないか。
そう思って日本を目指す外国人労働者にとって、日本がどうなのかをさぐって見ると、既に日本が魅力的ではなくなって来ているという。その3つの理由は、
①母国の賃金水準の上昇(高額の渡航費は無用) ②中国の経済成長と少子高齢化(だから地続きの中国が安心) ③日本の労働環境についてSNSで情報が拡散する(劣悪な労働条件ではもはや外国人も来ない!)
外国人労働者も日本で稼ぐには敬遠され始めている、という。そろそろ日本はアジアからも見捨てられるのだ。
さらに一方で、入管法の改悪が問題視されている。その内容は、“難民条約では「保護求めた国へ不法入国したことや不法にいることを理由に罰してはいけない」と定めるが、改正案は難民条約にも矛盾する。”という。
こんな状況で日本が中国に、“人権や自由と法の支配の尊重”を説く資格があるのだろうか。ミャンマー民衆への支援を政府としてどのようにするのか、或いはお得意の“見捨てる”ことにするのか、対応が迫られるのではないか。

日本の富裕でない学生に奨学金を援助する日本の公的機関日本学生支援機構は、あたかもサラ金のようなブラックな組織だったのだろうか。学生やその保証人に、“借りたカネは返すのが当たり前ヤロ!”と映画“難波金融伝・ミナミの帝王”さながらの借金返済を迫っていたという。“過払い金”はサラ金関連の言葉だと思っていたが、“支援機構に過払い金の返還命じられた”という。
学生は日本の将来社会を背負う人材。否、人財ではないか。それに世の中に出た途端、“もう稼いどるヤロ?カネ返せ!”でエエのか?こんなブラックが日本の公的機関の実態だったのか。
世の中は21世紀!SDGsを一方で唱えつつ、一方ではブラック行為を繰り返す!かつてはお役所の郵政省だった、日本郵政㈱も、私企業化して即座にブラック企業の代表格へ変身。元々、その根っこが有ったのではないか?これが日本社会、その公的機関の実態だったのだ。この為体を放置しておいて良いのだろうか?!


風車、風が吹くまで昼寝かな

いかにも突然だが、かつてこのブログでも紹介した、あの東京裁判でただ一人の文官で絞首刑になった元首相広田弘毅の俳句だ。
ア~ぁ、私も同じような状況・心境に至ってる!ナーンヵ頑張って来たつもりやったけど、ちっとも風が吹いてケーヘン。最近は新型コロナ・ウィルスの蔓延で、何だかやり難いのがダンダン酷ウなって来よる。しょうがないんで、盗作気味で

風鈴や、吹く風待って本と映画

とした。風車より軽い風鈴にしたつもりや。もっと軽い小さいモンにしたかったけど、そんなモンあれへんしショウガナイ!
ソヤケド、待つべき風が暴風やったら風鈴ごとでどっかへぶっ飛ばされるなぁ!ナーンか、そんな予感もある。まぁ、オレの予感は当たったことないねんけど、こんな時に限ってホンマになったりするモンヤしなぁ。
そやけど、そんな風も吹けへんかったら、このまんまで終わってまうで!何ぁ~もやらんとあの世行きヤデ!


そこで前回は映画、今回は読後感想投稿への復帰。今回は半藤一利・著“ノモンハンの夏”を読んだので、紹介したい。
現代日本人の悪しき意識の根源の多くは、戦前の“帝国軍人”の意識にあり、それが既に4分の3世紀以上を経過した現在にも生きているような気がしている。その“帝国軍人”の悪しき部分は、特に陸軍の高級将校にあり、それはノモンハン事件に典型的に見られるのではないかと、かねてから思っていた。ところが、私には残念ながら今日までその機会無く、否、何故かその意識を持続して関連文献へアクセスするに至れなかった。その思いを、いよいよこの新型コロナ・ウィルス禍の下で実現させたのだ。

ノモンハン事件は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。文庫本表紙裏に次の記述がある。
“参謀本部作戦課、そして関東軍作戦課。このエリート集団が己を見失ったとき、満蒙国境での悲劇が始まった。司馬遼太郎氏が最後に取り組もうとして果せなかったテーマを、共に取材した著者が、モクスワのスターリン、ベルリンのヒトラーの野望、中国の動静を交えて雄壮に描き、混迷の時代に警鐘を鳴らす。”

読んでみて、これは第一級のノモンハン事件のドキュメンタリーであり、歴史的背景から事実関係の連関がきめ細かく語られていることが分かった。戦前の歴史を知るために、世界的視野で日本のおかれた環境を理解するにはこれ以上の必要不可分にして無駄なく要領よくまとまった文献はあるまいと感じる。著者の半藤一利氏の仕事は、この1冊のみでも評価されるのではあるまいか。
特に、相手側の現ロシア・当時ソ連の首相・スターリンの動向や思考の変化について、生き活きと描かれている。欧州での政治勢力ヒットラーとの確執も実に興味深い。スターリンはシークレット・シューズを履いていたということまであった。どうやって調べ上げたのだろうか。

そして、文庫本の巻末の土門周平氏の“解説”も、この本のあらすじを要領よく記述してくれている。だから、もしこの本の概要が知りたければ、この文庫本の“解説”を読んで欲しい。だからここでは、重要と思う部分以外は省略したい。

だが、残念なことにこの事件となった舞台は、市販の地図帳でどういった場所だったのかが、あまりよく分からない。文庫本の冒頭には戦場となった部分の特徴的な地名・ポイント名概要が示された、配置図のようなものがあるが、本文では登場しても図には示されていない地名が登場したり、中途半端だった。兎に角俯瞰でどうなのかが問題なのだ。そこで、私が何とかネットを駆使して、探り当てた結果が次の図になる。満州国の領域全体を示している。新京は、満洲国の首都。現在の長春市にあたる。ノモンハンはその満州国の北西の辺境で、近くに鉄道も来ていない。ソ連とはノモンハン事件の前年に、同じように張鼓峰事件という国境紛争を引き起こしていた。それも、その場所を探りあてて記している。



“参謀本部作戦課、そして関東軍作戦課。このエリート集団が己を見失ったとき、満蒙国境での悲劇が始まった。”支那事変後の対処や三国同盟問題、天津事件に悩まされている時に、こんな誰もが問題にしない半砂漠の場所で、わずかな領土の3キロや5キロの取り合いに必死になることは、どういうことなのか、という見解は東京の参謀本部作戦課にはあった、という。したがって、この事件は専ら、関東軍参謀部作戦課*が執拗に不毛の地の国境紛争にこだわり、それにもかかわらず、作戦、戦争指導がいい加減だったことが問題で、日本側の兵力損害が甚大だったことが問題だったのだ。指導部がいい加減にもかかわらず、現地軍の将校7名もが事件後自決させられた、とのことだ。
そして、その後の日中戦争や太平洋戦争等の各戦線でも、こうしたいい加減さがほぼ反省されることなく経過し、問題が残されていたと、思われることだ。

*:関東軍は、旧帝国陸軍の軍の一つ。(軍は通常複数の師団で構成され、当初は1個師団相当(3万人弱規模)だったのが事件当時は11個歩兵師団だったとされる。)清から租借した、遼東半島先端に位置する関東州の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、日満議定書(1932年9月15日:ノモンハン事件前)締結後は満州国の首都である新京に移転していた。事件時は新京に関東軍司令部・参謀部はあった。

現に、この作戦指導に当たったのが関東軍参謀部作戦戦場全てを見渡せ、且つ、砲撃可能範囲の主任参謀・服部卓四郎中佐と末席に居た辻正信少佐という男。特に、この辻という男の思考・言動がいい加減で、その後も酷いことになる。事件後、辻によって自決を強要された将校がいた、とも言われているようだ。事件後賞罰で、辻はさすがに予備役編入が相当とされたが、陸相の“まぁいいじゃないか!辻を過大評価するな。”との発言や、“将来有用な人物”の評価があり、結局左遷異動で済まされたという。また当時の陸軍軍人には“無謀を押して果敢にふるまうのを称揚”する気風があり、軍紀を乱しても“元気があってよろしい”と推す無能な軍指導者が多かったようだ。
その結果辻は、太平洋戦争でのガダルカナル島戦線に、今度は参謀本部作戦参謀の立場で戦争指導に赴き、“現地軍は気合が足らない!”という意味の言葉を残して、自身は現地を離れたという。これは“失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)”に書かれていて、私には特に印象的な部分だった。
その他多数の戦線の作戦指導もし、多数の犠牲者を出しながら戦後も生き残り、この人物こそは戦争犯罪を問われるべきと思われるが、そうはならず、何と国会議員に選出されている。この国の厭戦気分の強い時期にそんな認識、簡単に騙される“良い人”が結構多いのがこの国の特質なのであろうか。“良い人”が多くて、“真に悪い人・絶対悪”が良い目をするのが、この国の社会なのではないか。これは大いに問題のある恐ろしい国柄ではないのか。

私が疑問に思うのは、この紛争に当たって作戦を練る場合、辻が主体だった関東軍参謀部は、ハルハ河西岸の高台・コマツ台地を無視し続けたのではないか。ここはソ連側の相当な火力を持った砲兵陣地となっており、ノモンハン事件となった戦場全てを見渡せ、且つ、ソ連野砲の射程可能範囲だったのだ。戦後、“この西岸(左岸)台地を訪れた日本人戦没者慰霊団の人たちが対岸を見て、「ああ、これでは上からめった撃ちではないか」と叫んだ”という意味の記述がこの本に、確かにあったように思うのだが、今となっては、どの箇所か思い出せないし、探り当てることができていない。
だが、このコマツ台地を作戦目標として攻撃を計画しようとした形跡が本書で全く記述されていない。恐らく、それが事実なのだろう。砲撃或いは航空攻撃の爆撃も計画すらされなかったようなのだ。これは大いに疑問である。事件の舞台となる戦場全てを見渡せ、且つ、砲撃可能範囲にある砲台は、作戦の最初に叩くべき目標であるのは、初歩の初歩ではないのか。少なくとも陸士、陸大で何を“お勉強”していたのか。私はこうした軍事の専門家では決してないが、高台は絶対的戦略・戦術の要地であることは、古代から論をまたない。だから、戦場全てを見渡せ、且つ、砲撃可能範囲とする高台を無視して、戦争指導などとはありえないことであり、実にいい加減としか言いようがない。これが敗因の第一であろう。

基本的には相手をバカにし過ぎていたこともあったのだろう。“敵は日本軍が出動すれば退却する”と思い込んでいたという。相手が“あれほど戦車を持っていたとは思わなかった。”という、辻の発言も紹介されているが、バカにしていれば、相手を見極めることもしようとはしまい。
それから日露戦争以来の“白兵第一主義”も災いしている。“白兵第一主義”とは歩兵による白兵戦重視のことである。
そのお蔭で、砲や戦車等の兵器研究と開発がおざなりだったのだ。ノモンハン時、すでに日本陸軍の重砲の射程距離は既にソ連軍のそれを下回っていたようだ。
海軍はハードウェアーの重要性を認識していたので、零戦や大和の開発が進行した。ヒトラーもそうした日本の海軍力を評価*し、英国海軍を牽制するためにも、三国同盟締結をせかした、とある。

*:ヒトラーは『我が闘争』で日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使うなら、子器用で小利口で役に立つ国民と言う風に書いている、との紹介があるのだが。

歩兵による白兵戦重視のため、戦車は歩兵の前進を阻む敵機関銃陣地を攻撃するための補助兵器という位置づけになったのだという。対機関陣地ということで、砲力は弱く、装甲も薄く、速力も遅くて問題ないものとされたようだ。
ところが、ノモンハン事件当時は、それでも十分にソ連戦車には対抗できたようで、しかもソ連戦車は歩兵の火炎瓶攻撃に弱く、結構、日本の仕掛けた白兵戦には弱かったようだ。それが災いしてか、対戦車戦の用兵思想も生まれず、日本の戦車開発は進まなかったようだ。主戦場が対中国であり、歩兵中心でも充分に戦えたのであらう。
それに対し、ソ連は事件直後にT34戦車を開発し使用を開始し、それと戦ったドイツを驚かしている。ドイツはそれに対し、即座にタイガー戦車を開発し、世界の戦車の大型化は進んだ。

移動に際しての自動車輸送の意識も低く、ノモンハンへの兵員輸送も満州中央部の駐屯地から、一旦、ハイラルまで鉄道で輸送するが、そこからノモンハンまでの約20kmを徒歩で進軍させている。(下記写真がその進軍の様子)
従って、日本陸軍には機甲軍団という発想はなく、急速で大量の兵力移動は不可能であった。ビルマでの対英国戦では、それが災いして、旧陸軍は精神論ばかりの時代遅れの軍隊となっていた。

しかも歩兵の武器は38式歩兵銃、明治38年に開発されたものが主力で、短機関銃等、自動小銃の普及はなかった。大戦後期には米兵は対戦車のバズーカ砲すら携行していた。日本軍はほぼ徒手空拳の歩兵が肉薄する白兵戦を偏重し、ここから陸軍の精神論偏重の思想が一般化した。そしてそれが時代錯誤の武士道があたかも哲学的なものかのような金科玉条になり、それが思索を深めるきっかけとはならず知的退廃となり合理的思考の妨げとなったのではあるまいか。

ノモンハン事件の1年前にはソ連と満州と朝鮮が国境を接している張鼓峰でソ連との国境紛争があった。これについて、詳しいことは書かれてはいないが、“前年の7月中旬に、日本軍1個師団対ソ連2個師団が戦火をまじえ・・・ソ連軍の飛行機、戦車、重砲をくりだす正攻法の近代戦法の前に、出動した日本軍は叩かれっぱなしの手ひどい損害を蒙る。”これの戦訓も関東軍は何も学ばなかったようだ。学ばなければ、敗れるのは当たり前のことだ。旧帝国陸軍は“お勉強”しない、アホアホ集団だったのか。

ソ連軍は日露戦争戦訓から、“縦深陣地”という“タテに深く矩形の陣地を構築する”新しい野戦方式をあいみだしていた。さらに、火炎瓶に弱い戦車に金網カバーを増設して2次の衝突時には対策を施している。

司馬遼太郎が、自身が戦車隊に配属されていた経験を踏まえて、ノモンハン事件を小説に取り上げようとした。ところが従軍経験者へのインタビューに障害を生じたという。その背景には酷い扱いを受けた現地軍指揮官の軍参謀への根強い不信感があったようだ。また経過詳細を知るに従い、日本側の作戦の拙劣さに伴う損害のあまりもの悲惨さを知り小説化を断念したという。だが、その当時はソ連側の情報開示が無く、事件前後の動向詳細や、ソ連側の損害実数が不明のため、一方的な日本側の損傷甚大と誤解された、という事情があったようだ。

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