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ひろさちや・著“親鸞を読む”を読んで

今回は空海から進み出て、親鸞へと仏教理解を深めていこうと読んだのが、おなじみ“ひろさちや”氏の『親鸞を読む』である。いわば“空海”を一旦“卒業”してみようとの試みだ。 空海の“密教では、「身・口・意の三密」”というが、“鎌倉時代の高僧たちは、身・口・意の三密をバラバラにしてしまった。バラバラの一密にして、各自がめいめいの一密に専心した”とあった。そして、“親鸞は意密を採った”ことになるが、その“意密”が三密の中でも高度で容易に実行できそうな気がする。そしてその高度の“意密”を理解できればしめたもの、との下衆の思いから、“親鸞”に飛びついた訳である。そして、身密の道元、口密の法然との違いも知ることが出来て良かった。 親鸞の徹底した“他力”は結局、“あるがまま”となる。それは“人のはからいではない。それは如来の誓いなので、法爾という”。――自然法爾――“もうあるがまま、そのままでいいんだ。そこにはすべての人間のはからいが消えてしまっている”。 . . . 本文を読む
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