たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

南無阿弥陀仏

2014年07月26日 | お寺参り

数日前、菩提寺からお盆法会の案内が郵送されました。お寺の行事は毎年法会の日取りは決まっていて不変です。
8月初めに2日間にわたって厳修されます。いつもの案内書の「たより」の他に仏教講座の聴講券が6枚入っていました。若いご住職かご母堂の堂守さんのご配慮でしょう。

8月初めは亡妻17回忌法要を家族だけで勤める。お寺さんに来てもらってお経を1巻上げていただく略式だ。今週は仏壇の清掃や赤蝋燭など細々準備しなければならない。
今朝は月命日だったので墓参に行った。
駐車場では土曜日なので何台かの車と、どこかのお坊さんがきておられた。若いご夫婦の奥さんが「おはようございます」と挨拶され、答礼するとご主人も丁寧に挨拶された。

供花はせず蝋燭に灯を灯し、線香を焚いて念仏した。その前に花瓶の水を捨て、隣の墓とのクモの巣を払い、玉砂利の雑草も芽を抜くのが慣例だ。

墓碑の「南無阿弥陀仏」とは何か。
凡ては梵音である。「南無」は帰命の意、「阿弥陀」は無量寿の意、「仏」は覚の意である。善導の「観経玄義分」には、「は是れ帰、は是れ命、は是れ無、は是れ量、は是れ寿、は是れ覚なり。故に帰命無量寿覚といふ」と述べている。
(無量の命の阿弥陀仏に南無します。帰命します。随順しますの意:無量:量りない、永遠の意)
浄土宗では、身命を阿弥陀仏に捧げる意。
真宗では、阿弥陀仏の勅命に順う意。
時宗では、阿弥陀仏の命根に還る意。

何故六字の「南無阿弥陀仏」が最も親しくまた広く人々に称えられるに至ったのか。それは特に本願による名号だからといっていよい。衆生済度のために特に選ばれた称号だからである。本願とは沙門法蔵、法蔵が菩薩という因位(いんに)のとき、正覚を成じた(さとりを得られた:永遠の真理に目覚めること)その時、人呼んで阿弥陀仏といわれ、阿弥陀如来とあがめられた。同一人物である。
法蔵菩薩が建てた六八の願、その第1から第48に至るまで、悉くが衆生済度の願である。
そのいづれにも「かくあらば(またはかくあらねば)正覚を取らじ」と誓ってある。
もろもろの衆生の悩みを済い、この世から浄土へ彼らを(凡夫)を渡さぬ限りは、仏にはならぬとの義である。
「南無阿弥陀仏」(岩波文庫:柳宗悦)の拾い読み解説です。
墓地は静かで百日紅が満開でした。