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もはや聞く耳を持たなくなった宰相

2014-05-15 21:03:20 | 日記・エッセイ・コラム

 5月15日、安倍首相は私的機関に託していた集団的自衛権の行使を推進する答申書を受け、内閣の判断で行使することを表明したようだ。日本はさらに一歩国際紛争の真只中に自衛隊員を送ろうとしていることがはっきりした。悲しい現実が一層深まった。わが宰相は聞く耳を失ったようだ。

 憲法の掟を飛び越えて、時の政治の指導的立場の判断であえて危険をつかもうとする日本は、この21世紀をどう生きようとしているのか、私には読み取れない。まさか戦争に走ることはないと信じていたいが、どうやらそんな考えは少々楽観的なのかもしれない。

 幼くして戦争を知り、軍隊や警察の力の大きさを身をもって知った私は、もう孫子の代にはこんなつらい体験をさせてはならないと今も誓いたい思いでいるのだが、不幸なことに、あの残忍な姿も戦火で逃げ惑う体験もせず、戦後貧困な社会にあってもぬくぬくと育った人間には、他者の痛みなどわかろうはずがないのかもしれない。

 国会も国民の意思も無視し、しかも憲法をアメリカの素人集団が作ったのだから、憲法を変えたいという露骨な表現が、まるで弊害がないかのように勝手気ままに発言するのはなぜだろうか。

 今の安倍さんの主張したいことは読み取れるが、その結果日本はどうなっていくのか、というデザインが見えてこない。むしろ、対立を生む要素をまき散らしているとしか思えないのは私一人だろうか。

 いったいこれから日本をどんなところに持っていこうとしているのか。黙って傍観するわけにもいかないほど危険感が漂うのだ。あるアメリカの元政府高官は今になって「沖縄は基地が多すぎた」と述懐しているものに、そもそもオキナワ自体が基地にしたいと考えていたという。

 そんな考えを日本の権力者たちが知らないとは言ってほしくない。結局は解決する意図がなかったか、能力がなかったか。それとも外圧に屈する体質を作ってしまったか、であろう。それほど政治力が低かったといわざるを得ない。

 だが、それで日本はできるだけ多くの国と仲良くし、戦争はもうしないと固く誓ったはずだったのだ。現にいまでもヒロシマ、ナガサキの被曝記念日には、時の首相は「不戦の誓い」を立ててきたのではなかったか。

 安倍さんは歴史をよく勉強していないのかもしれない。だから歴史から学ぼうとする謙虚さや学習意欲が乏しい人なのかもしれない。「日本の責任者は私だ」と豪語した安倍さんは権威や権力がお好きなタイプかもしれない。

 もう一つ気になる言動がある。それは与党に入っている公明党のことだ。 与党を形成する公明党は憲法を護る立場を堅持してきたが、これからどうするつもりなのか問いたい。これほどの暴挙に出る政権にチクリチクリといいながらも体制には従い続けるのか、と。

 公明党が党是に基づき、厳然とした行動をとるのなら、政権をしっかり監視する役となり未来の国家づくりにリーダーシップをとるべきではないかと思う。それには一極の支援に頼るのではなく、国民全体から指示を受ける腰の据わった政党にならなければ先はない。

 もはや日本は確かに危機的様相を呈している。東日本の復興もままならない現実から視線を避け、足早に隣国に見せる煽動的な言動は、いかなる美辞麗句を並べても信用される距離からは遠い。

 私は国民の中になぜか「平和」を嫌う層が多いことに憂う。しかも若者の中に増加していると聞くとぞっとする。明治の日本は「富国強兵」から始まった。近年までそんな思想が流れ続けてきた。だが強兵が富国になるわけがない。それによって貧国になっていく。冨民ではなく貧民になりやすい。いくつかの国を観たらよい。

 私は生活が多少貧しくなっていっても、生命の大事ささえ理解・維持できるのなら、そんな生活のほうが尊いような気がする。最近の政治は色あせてきている。だが、興味を失いつつあるからと言って自らの意思を放棄してはならないと思う。権力という怪物は必ず弱いものから食い物にしていくのだ、ということを知っておきたい。

 すでに権力者は口封じや秘密保護、黒ずみで隠してしまう行動をとりつつある。真実を見せないようにする企業も政治関係者も、そして省庁の官僚たちを監視する姿勢を養い、勇気を持つことが私たちに問われていることなのかもしれない。

 やさしいタイガー 


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